小島 毅(次世代人文学開発センター)
日本学術会議問題と「学問の自由」
2020年10月に日本学術会議が推薦した会員候補のうち6人が任命されなかった事案について、産經新聞は一貫して菅政権の態度を支持している。10月8日付「阿比留瑠比の極言御免」は「「学問の自由」もてあそぶ欺瞞」と銘打ち、朝日新聞・毎日新聞の社説を引用したあと、それへの反論として櫻田淳のフェイスブックから「中国のような権威主義体制下の知識人が聞いたら仰天するような『生温さ』が、そこに感じられる」という記述を紹介する。同日付の「石平のChina Watch」では「学問まで支配下に置く習主席」と題し、「中国の学術は自立性もなければ自由もない」と論じている。両者が同じ日の紙面に載ったのが偶然なのか故意なのか、私は知らない。ただ、どちらも「日本の現政権が学問の自由を充分に尊重していることは、隣国の政府と比較すれば明らかだ」という主張に読める。
集英社新書編集部(編)『「自由」の危機—— 息苦しさの正体』(2021年)は、われらが人文社会系研究科の阿部公彦を含む総勢26名のこの問題に関する短論を集めたものだ。論旨は各人各様で必ずしも見解が一致しているわけではないけれど、むしろそのことが言論のあるべき多様性を示している。終章の内田樹「アメリカにおける自由と統制」は、自由を求めて戦い、それゆえその扱いにくさを経験してきたアメリカの歴史を紹介し、「私たち日本人」に欠けている問題意識を指摘する。「やまとことばのうちには「自由」に相当するものはない。ということは、自由は土着の観念ではないということである」と。
やまとことばで言い表す術を持たなかった先人たちは漢語を用いることにした。それが「自由」である。1872年、中村正直はJ.S.ミルのOn Libertyを『自由之理』と訳した。その後数年にして自由民権運動が起こる。だがその標語は「天賦人権」、人間の権利は天が賦与したものと思念された。
「学術会議問題は学問の自由云々とは違う」という前掲の主張は「天賦人権」的な自由について論じているが、肝心なのはそこではない。彼らの主張が2種類の「学問の自由」の一方にのみかかわることについては、この連載vol.1で藤原聖子が論じている。
唐君毅の自由論
唐君毅は現代新儒家と呼ばれるグループのひとりである。日本の侵略に抵抗し、その占領地の外で大学教授を勤めていたが、国共内戦のあとは中国と台湾のどちらにも属さない英領香港で教育研究活動を行い、現在の香港中文大学の源流にあたる新亜書院を開いた。
彼が愛用したのは「人文精神」という語だった。1954年に刊行した論文集には『人文精神之重建』(全集第5巻)と名付けている。そこに収録された「自由の種類と文化価値」は、自由に8つの階層があるとする。
- 自分の欲望を満足させる自由
- 人と異なる意見を述べる自由
- 選択可能性を保持する自由
- 権利としての自由(人権的自由)
- 国家を含む社会集団の自由
- 人生の精神的理想や文化価値を実現させる自由
- 胸襟度量の自由(寛容の精神)
- 仁心の顕れとしての自由
西洋思想が重視するのはこのうちの4までで、自身の外部にある社会集団との関係のなかで必要なものにすぎない。ただそれは5にいう社会集団の自由が無いところでは実現できない(ここに彼が懐いた亡国の危機感が窺える)。6は社会への積極的・主体的なはたらきかけであり、他者からのそうしたはたらきかけを認容するのが7。これらを達成させる最高段階として孔子が説いたのが8である。現代新儒家とはこのように、孔子に始まる儒家思想が西洋思想よりも(近代的価値観から見て)優れていると主張する人たちである。
自由の最高段階「仁心にもとづく自由」とは、『論語』顔淵篇に見える孔子の発言「仁を
ただし、漢語の「自由」はもともと今日的な意味での自由ではなかった。わがまま、自分勝手、古典的語彙でいえば放恣の意だった。福沢諭吉は『学問のすゝめ』で「自由と
唐君毅も「孔子精神と各種の自由」という論文でこう述べている。
「私たちは孔子の思想のなかには近代西洋の自由権利の観念がまったく無いことを認める。中国の過去の歴史文化には君主と政府の権限を規定し、君民ともに認める人権を保障する憲法は存在しなかった。それを欠いているため、人民は実際にはとても自由であったにもかかわらず、その自由はいつでも為政者によって侵犯されてしまう。侵犯されても人民には人権・尊厳の自覚にもとづく抵抗ができなかった。」
「孔子は中国の自由の父である」という前掲の言述とは違う角度から、唐は中国における自由の理念の欠如を認めている。それが存在しなかったからこそ、彼は自由という概念について真摯に考察し、孔子の言述のなかにそれにあたるものがあったと主張したのだ。
中国の現状をひとごととしない
私たち人文社会系研究科には、学問の自由をめぐる苦い記憶がある。
1998年、中国籍の学生トフティ・トニヤズが新疆ウイグル自治区で資料調査中に拘束され、国家分裂扇動罪の名目で服役させられた。東大では休学規定を改訂して再入国と復学を待ち望んでいたが、彼は釈放されたものの出国を許されず、2015年に亡くなった。
新疆ウイグル自治区の情況は近年ますます悪化し、住民の多くが信仰の自由を奪われ、迫害を加えられているらしい。残念ながら中国には学問の自由が存在しないので、実態を調査解明するのは困難である。だがこうした報道に接するにつけ、たしかに私たちは「生温さ」に浸っていると感じる。
ウイグル問題のみならず他のもろもろとあわせて、中国の現状は私たちにとって二重の意味でひとごとではない。
ひとつは、これに無関心・無反応であってはならないということ。特に中国研究に従事する者として自戒の意をこめて力説しておきたい。
そしてもうひとつは日本の国内問題として。阿比留や石がいう意味での学問の自由は、たしかにまだ侵害されていない。しかし石が述べる中国の現況が、近い将来、海外で日本のこととして報じられないともかぎらない。
唐君毅は「西洋文化思想を接受する態度を論ずる」という論文に「中国知識分子の自作主宰の精神気概の建立」と副題を付けた。「自作主宰」は訓読すれば「自ら主宰と
英語のlibertyやfreedomに「自ら」の語感はない。ところが漢語「自由」は「自らに由る」であり、「自」は自主・自治・自律にも共有される。唐のような中国知識人は「自ら主宰と作る」ことで自由の獲得を目指してきた。その試行錯誤の過程には、失敗した面を含めて学ぶべき点が多い。
学問の自由は憲法の条文が保障すれば維持されるというものではない。学術会議の一件を風化させるのは、蟻の一穴が拡がっていくのを放置することになろう。その危険性を学界の外にいる人たちに向かって発信する責務を私たちは負っている。そしてまた、自身の「生温さ」を省みつつ他国の現状について(政治的にではなく)学術的立場から正当に発言していくべきであろう。
子曰く、「仁を為すは己に由る。而して人に由らんや」と。
(2021年7月30日)