学問と社会の現在とこれからを考える vol.12
人文学は何をなしえるのか:「止める」から「動かす」へ
唐沢かおり(社会心理学研究室)


学問は、社会に対して何をなしえるのだろうか。学問と社会との関係を考察するにあたって、この問いは不可欠なものである。どのようなレベルであれ、研究と名付けられる営みに携わるからには、自らの得た成果が他者や社会に対して持ち得る影響を真摯に考え、それをより善きものとすることを志すだろう。また、職業的に学問に携わるのであれば、自らの研究活動のみが及ぶところを超え、所属する領域総体の真の貢献は何なのか、考えざるを得ないし、その責務を自覚的に負うことも求められる。その際、狭い専門に閉じたコミュニティに対して、新たな知見を提供するというタイプの貢献にとどまらず、より広い「社会」を、当然のことながら意識せざるを得ない局面にも立ち会うことになる。

このことを、文学部という場に集う人文系諸学(人文学)の動向として振り返ってみると、そこに所属しているという点では、私自身は内部観察者であるが、実際のところ、自分が専門とする(社会)心理学以外の他の領域がどうなのか、よく分からないのが実情である。もちろん、多様な学問領域が集っているなかで、それぞれが、何をなしえるのかを問い、社会とのかかわり方、社会に対して果たすべき責任や役割について向き合ってきたはずだと信じている。また、その過程は、自らのアイデンティティに関わる真剣な営みを含むものであり、尊重されるべき各領域独自の答えというものも、生み出されてきたとも思う。ただ、そうは言っても、それぞれが、どのように社会と関わっているのか、その具体的な姿が見えにくい(もちろん、私の「勉強不足」もあるかもしれない。しかし、少なくとも大学に属さない人々よりも、学問の動向を近くで見ることが出来る立場にはいるので、私に見えにくいことは、社会に対しても見えにくい現状を反映していると考えている)。そして、全体を眺めた中にかろうじて浮かび上がるのは、この間、盛んに言われている「イノベーション」、またそれを基軸とした課題解決志向に彩られた社会の流れに同調することを拒む、またそのような流れの中で「とどまり」、流れを「止める」ベクトルという漠然としたもの、またはそのような「雰囲気」である。

さて、ここで、人文学(かつそれを営む場としての文学部という組織)に対して向けられた外部のまなざしはどのようなものなのか、確認しておくなら、多くの人文系の研究者が実感しているのは、「厳しいまなざしが向けられている」というものであろう。実際、あたかも人文学が、社会的に重要な課題に関する問いに向かい合っていないと決めつけるような態度を、様々な言論領域で発見することもある。また、少し遡るが文科省通知を発端とした「文学部不要論」は、人文系内部に衝撃と大きな反発を生むこととなった。これをきっかけとして、人文学の必要や存在意義についての議論が生まれたという、望ましい展開も見られたけれども、それで事態は収まったわけではなく、ましてや、社会と人文学が双方に納得する幸せな合意が見いだされることにも至らなかった。このことは、本リレーエッセイのきっかけともなった、学術会議の任命拒否問題があぶり出したことでもある。

一方で、人文系の役割・貢献に関わる議論のなかに、「期待」という前向きなベクトルが存在する現状も、見逃してはならない。その典型が、第6期の科学技術・イノベーション基本計画における、人文学・社会科学の位置づけである。現在の科学技術が、社会課題の解決という責務を背負い、かつ、課題の構造が複雑化している中で、人文学・社会科学の知と自然科学の知の融合による「総合知」の創出と活用が重視されている。たこつぼ化した知では、限定的課題解決にとどまること、また、科学技術の実装フェーズにおいて「人間中心」というコンセプト(それがどのような概念かはもちろん、要議論であるし、また人文学が深く関わるべきものでもある)が重視されること、異なる立場の他者や未来の他者をも考慮した課題への対応が求められていることなどを背景として、人文学の貢献が問われているのである。

これを、人文学の新たな役割取得の始まりとみるのか、人文学のあるべき姿の終わりの始まりとみるのか、また、実質的には関係のないことだとして距離を置くのか、人文系諸学それぞれの特性、また、研究者個人としての考え方次第であり、立ち位置は様々だろう。実際、第6期の科学技術・イノベーション基本計画の対象に人文学・社会科学が含まれたことへの抵抗感、批判があったことは仄聞している。また、先述の「雰囲気」よりも、より強いトーンで、社会がイノベーションを志向することへの拒否感や、人文系こそがそのような動向に立ち向かうべきだという主張に接することもある。課題解決志向自体が、効率が追求される現代社会の競争的環境のなかで、不可避的に「役に立つこと」優先となり、真の善や幸福のあり方を問う余裕を失ってしまうという前提のもと、人文学に求められるのは、ともにイノベーションや課題解決に携わることではなく、そのような動向に対する批判者となることだという主張は、一定の説得力がある(かつ、この役割取得は、人文学にとって居心地よいものでもあると思う)。


さて、以上を踏まえ、人文学はどうするのか。以下は私見である。

冒頭の「社会に対して何をなしえるのか」という問いに対して、批判者・ブレーキ役としての立ち位置を、いっそう先鋭化し、その役割のもとで、社会と(また他の学問と)コミュニケーションを取ることを進めるのか…。それも一つの道ではあろう。しかし、人文学と社会とのかかわり方が見えにくい中で、両者の間にいまだ緊張関係があること、そうは言っても、少なくとも現時点では、積極的な「総合知」への関わりが期待され、それが明示化されていること。これらの現状を鑑みるなら、個人的には「批判し、止める」ことから脱却して、「ともに進むべき方向を考え、また進む営みに対しての責任を負う」方向へと踏み出す覚悟が必要だと考えている。

社会の現状と行く末についての健全な議論の中で、「批判」は必須の営みである。誰かが、問題を指摘し、やみくもに前進する動きを止めなければ、社会は破綻してしまうことにもなる。しかし、批判して止めたあと、どうするのか。止まったまま動かない、ということだと、結局のところ、何もなしえず、何も生み出さない状況が続くだけだろう。社会に様々な課題が満ちていることは否定すべくもなく、その解決には、人文学が考えてきた「人間とは何か、また人間にとって重要な価値は何か」に関わる思索を踏まえることが不可欠なのだ。進むべき方向性の検討や将来展望の構築にどのように関わるのかは、領域ごとに異なると思うが、関わるという役割が意味する具体を考え、それに沿って発言し、動き、またそのような行為が呼び寄せる「責任」を引き受けることも、これからの人文学が社会に対してなしえることであり、なすべきことなのではないか。また、何かと目につく「イノベーション」という概念に忌避感を持つなら、その概念自体を、より望ましい内容に変えるような概念工学的なことをしてもよいのではないか。

「文学部は死者と対話する場である」とは、以前、私の同僚であった名古屋大学の国文研究者の言葉である。文学部の多くの領域は、過去に生み出された思想、表象、人々の営みを研究対象としているので、文学部の特徴をうまく表していると感心したものだ。過去に学ぶことで、今ここにいる私(また、今の社会)を相対化しながら、人間に関する洞察を深めることは、人文学の重要な役割であり、そのような洞察の蓄積こそは重要な成果である。では、その洞察を「対社会」という観点からどう生かすことができるのか。過去についての知見を伝えるという教育・啓蒙を超えて、未来のありかたにコミットすることは出来ないのだろうか。

人文学は、課題解決のための技術や制度に直接かかわる知を生むわけではないのはその通りだ。しかし、技術や制度の実装は、幸福、責任、公平、正義など、人と社会に関わる根源的な価値・概念への真摯な問いに根差したものになるべきである。批判し、止めるという営みもそのような問題意識を基点としているのだろう。でも、そうであるなら、学問として獲得してきた洞察を議論の場に投入し、「止める」を超え、未来のシナリオを描き「動かす」営みへとつなげることが、人文学にできないわけがない、と思うのである。

(2021年9月16日)