学問と社会の現在とこれからを考える vol.6
自由で民主的な社会の基盤としての「理由の説明」
古田徹也(倫理学研究室)


意図的行為の定義

行為という概念は、人が自分の意志で行うものと、(たとえば過失のように)図らずも行ってしまうものとに大別される。前者の種類の行為、すなわち意図的行為とは何かについて、現代を代表する哲学者の一人G・E・M・アンスコムは次のような定義を示している。

意図的行為とは、ある意味で用いられる「なぜ?」という問いが受け入れられるような行為のことである。(Anscombe, G. E. M., Intention, Basil Blackwell, 1979, p. 9(アンスコム『インテンション』菅豊彦訳、産業図書、1984年、17頁))

たとえば、本郷三丁目の交差点で見かけた友人A氏が、私に近づきながらさっと手をあげたとしよう。私はA氏に対して、「なぜ手をあげたのか?」と尋ねる。A氏は、「君に挨拶しようと思ったからだ」と答えるかもしれない。あるいは、止まったタクシーに乗り込みながら、「タクシーを拾うためだ」と答えるかもしれない。あるいはまた、「肩がだるかったから、ちょっとほぐそうと思って」とか、「ただなんとなく、癖で」などと答えるかもしれない。いずれにせよ、当該の振る舞いが自分の意志で行った行為なのであれば、A氏は「なぜ?」という問いに対してまともな理由を説明することができるはずだ。

この点を明確にするために、「なぜ手をあげたのか?」という問いに対してまともな理由の説明が与えられない場合を考えてみよう。たとえば、A氏が「ピラミッドに登りたかったからだ」と答えたとしたらどうだろうか。ピラミッドに登ろうと思ったから手をあげた、というのはまさに意味不明であり、理由になっていない。A氏にもっと詳しく話を訊けば、手をあげることがピラミッドに登ることにどう結びつくのかが明らかになるかもしれない。しかし、そうした追加の説明が与えられなければ、そして、A氏が私をからかっているのではなく本気で言っているのであれば、私は、A氏がそもそも健常な精神状態にあるかどうかを疑うかもしれない。

このように、意図的行為というものは、「なぜそれをしたのか?」という問いに対し、(場合によっては「ただ何となくやった」という説明も含めて)何らかのまともな説明が与えられうる場合にはじめて、それとして理解可能なものになる。もしも、行為者がまともな理由の説明を一切与えることができないとしたら、当該の振る舞いはそもそも意図的行為とすら見なされなくなる。それゆえにアンスコムは、「なぜ?」という問いが受け入れられるような行為――この問いがきちんと機能しうるような行為――を、意図的行為の定義として示したのだと思われる。

意図的行為と責任の本質的な結びつき

そして、以上のポイントは、意図的行為と責任という概念の極めて深いかかわりを示してもいる。古くはラテン語に由来するresponsibility(responsabilité, Verantwortung)という言葉は、日本語では「責任」に対応するが、その字面の通り、原義は広い意味での「応答可能であること、応答能力(response+ability)」にほかならない。意図的行為をそれとして構成する基本的な条件が、「なぜ?」という問いに対する応答可能性ないし応答能力であることは、意図的行為の主体がたいていの場合、当該の行為に関する責任(responsibility)を有することと、本質的に結びついていると言えるだろう。

とはいえ、意図的行為に常に責任が伴うわけではない。たとえば、店の従業員が強盗に刃物で脅され、仕方なく金庫を空けるとしよう。この行為は、命を賭けて逆らうという選択肢も一応あったという意味では意図的行為だと言えるが、店の被害の責任をその従業員が負うことはまずないだろう。あるいは、小さな子どもが壁にクレヨンで絵を描く、という例も考えてみよう。これも紛れもなく意図的行為だが、やはり責任を問われはしないだろう。私たち大人は、いずれ子どもが成長して、自分のした行為の意味を十分に理解し、責任をもてるようになることを望む。そして、こう諭すようになる。なんでそんなことをしたの! ごまかさないでちゃんと言いなさい、と。

それから、応答の可能性があったとしても、必ずしも応答の責任(義務)を同時に負うわけではない。たとえば、行為の理由を説明することが職務上の秘密を漏らすことになる場合や、多くの人々の生命や財産を脅かすことになる場合などには、応答を拒否することも正当化されうるだろう。また、病気や障害などによって、行為者当人には理由の説明ができない場合もあるだろう。そしてその場合には、他者による代弁の必要性や、代弁の方法、内容などに関して、ときに慎重な検討が求められるだろう。

いま私たちが暮らしているのは「自由で民主的な社会」なのか

しかし、少なくとも自由で民主的な社会において、人が為政者として行う意図的行為(政治的決定など)に関しては、応答可能性だけではなく、実際に応答する責任が必ず伴われる。すなわち、「なぜそれをしたのか?」(あるいは、「なぜそれをするのか?」)と訊かれたら答えられるのでなければ、その行為は正当化されない。もっとも、応答には「理由は説明できない」というものも含まれうるが、その場合、理由を説明できないことの理由をまともに説明できなければ、やはり当該の行為は正当性を失う。

他方で、単独者や少数者が自分(たち)の意志のみに基づいて独断的に政治的決定を行うような、不自由で非民主的な社会においては、為政者はみずからの行為の理由を説明する必要はない。そして、本人が何も言わずとも、周囲の人間や民衆がしばしば忖度して理由を推し量り、代弁してくれる。専制的な社会の特徴のひとつは、そのように、「なぜ?」に応答する責任を為政者自身が免れるという点にあるのだ。

したがって、為政者による理由の説明の拒否を市民が許すことは、自由と主権をみずから手放すことに直結すると言えるだろう。逆に、私たちが専制的な社会を望まないのであれば、常に為政者に対して応答の責任を問わなければならない。たとえば、為政者に「なぜ?」と直接問うことができる政治家やジャーナリストなどは、為政者から理由の説明が返ってこない場合、そのことを強く批判しなければならない。また、応答がまともな理由の説明になっていない場合にも、やはり強く批判しなければならない。応答を拒否したりはぐらかしたりし続ける為政者に対して、執拗に理由の説明を求め続け、何度でも聞き返し続ける者がいれば、私たちはその者を支えなければならない。たとえ私たちが「その者」自身になれないとしても、そうしたやりとりに飽きてはいけない。為政者から説明が与えられないことに慣れてはいけない。


以上、本稿で確認したのは、意図的行為の簡単な定義と、それに関連するかぎりでの、自由で民主的な社会が成立するための基本的な条件のひとつに過ぎない。しかし、昨今の日本学術会議会員の任命拒否問題が典型的にそうであるように、このあまりに当たり前の条件が守られない社会にいま私たちが暮らしていることも、また確かだと言わざるをえないのである。

(2021年1月20日)