出口剛司(社会学研究室)

学問が陥りやすい落とし穴

日本学術会議推薦の候補者任命を政府が拒否し、その任命拒否の理由説明と撤回を求める運動が盛り上がった。しかし、全体社会のなかではこの問題自体、風化の一途をたどり、今ではその顛末に関心をもつ人も少ない。

しかし、この一連の経緯は、学問が社会と切り結ぼうとするときに生じる重大な出来事の始まりであり、社会システムと学問システムの闘争の最初の局地戦でもある。ここでは、局地戦が全面対決に至る前に、学問における自由と責任について、社会学の観点から考えてみたい。

まず、学問が陥りやすい落とし穴について考えたい。任命拒否問題をめぐる政府とそれを支持するメディアの論調と、学問共同体の独立を主張する言説を整理してみよう。政府は任命拒否について、学術会議も国の機関である以上、他の組織と同じく政府の監督下に置かれるべきであり、同時に他の組織と同様、個別の人事に対する説明責任はない、という立場である。それに対し学問の側の論理は、任命拒否は憲法の保障する「学問の自由」に抵触するというものである。しかし学問の自由の主張は、さらに学問を苦境に立たせることになった。憲法の保障する学問の自由が、個人の思想・信条の自由と同じものと理解されてしまい、「個人がどんな研究をやっても自由である(ただし国の組織や予算の外で)」という主張に飲み込まれてしまったからある。こうした主張は「無駄のない行政」「聖域なき改革」を支持する声とも親和的でもある。もちろん、学問の自由は個人の思想・信条の自由だけではなく、学問共同体の独立性として理解されるべきである。しかしここにも落とし穴がある。自由と独立を主張するには、それ相応の理由が必要である。その結果、学問が自由と独立を要求するのは「社会の一部の利益にだけ囚われてはいけない」から、さらに「国益という目先の利益にとらわれない普遍的価値を追求する」からだと主張された。しかし社会学的には、複雑に機能分化した近代以降の社会において、いかなる組織も「全体性」や「普遍性」を先取りすることはできない。

外からの声と内からの声

学術会議問題をめぐって学生たちと議論する機会があった。ある学生は「学問が暴走したときは誰が止めるのですか」と尋ねてきた。そのとき私は「学問が暴走する」という状況をリアルにイメージできなかった。焚書坑儒ではないが、古来より権力が学問に牙をむくことがあったとしてもその逆は思いつきにくい。しかし、政府が学術会議の任命に介入したということは、逆に考えれば、研究者とくに任命拒否された文系学問の研究者(彼らはみな「価値」に深くかかわる分野の研究者である)が、自己認識とは反対に、社会的に大きな影響力を持っているということである。

別の学生から「先生の口から責任という言葉が出てこなかったことに失望した」という意見も出された。この声にも私は大いに驚いたが、それは学問と社会の関係について、こうして学生と向かい、その事態を認識し、帰結を解明し、意味を理解することそれ自体が一つの責任だと考えていたからである。どうやら問題は、「責任」の内実にあるようだ。

政府の監督下に置こうとする力が外からの声だとすれば、学生たちから私に向けられたこれらの声は、もしかすると学問や学問共同体を内側から内破する力をもっているかもしれない。なぜならば、大学を卒業した人々こそ、われわれ研究者の信頼すべき応援団であるはずであり、学問の将来を担う後継者でもあるからだ。無条件に全体性や普遍性を先取りできないとすれば、学問の独立性を主張するためには、社会に対して自身が負う責任を自ら「外」と「内」に示す必要があるだろう。

政治の責任と学問の責任 —— マックス・ヴェーバーの視点から

責任を考えるにあたって、最初に政治の責任と学問の責任を区別しておこう。ヴェーバーは、倫理の在り方を心情倫理と責任倫理に区別し、後者を政治がとるべき責任とする。他方の心情倫理とは、真理的、道徳的、審美的価値に対する信念の正しさあるいは純粋性によって行為を評価するもので、その態度は美しくはあるものの、結果責任という点から見ると、はなはだ「無責任」である。ヴェーバーによると、政治のとるべき責任とは、結果を度外視した価値に殉じる態度ではなく、自身が提示した目的の実現という行為のなかで果たされるものである。もし仮に、政府の説明にあった「総合的・俯瞰的」視点に欠ける学者なるものが存在するとすれば、ヴェーバーの枠組みでは、心情倫理に従いながら、政治にかかわろうとするロマン主義者ということになるだろう。ただし、そうした心情倫理や責任倫理は学問には当てはまらない。

ヴェーバーによれば、学問には以下のことが可能である(逆にそれ以上のことはできない)。すなわち、どのような政治の「政策」が実際にどのような「帰結」をもたらすか、という社会的現実における「因果連関」の認識である。ただし、ウェーバーによれば、社会的現実に対する認識をいくら積み重ねても、そこからは主張すべき「価値」や実現すべき理想自体は導き出せない。そのなかで学問が負うべき責任とは、意図せぬ結果を含めて、政策とその帰結の因果関係を証明し、目的の実現に資する選択肢を政治に提示することである。学問は、人によい生き方や価値を強要したり、推奨したりすることはできない。正確に言えば、事態の因果関係を認識するという守備範囲を超えて、真理性・正当性・審美性などの価値や理想を主張することは、先の心情倫理と同じく、己の能力を超えた「無責任」な態度ということになる。

ここから、学問の責任についての一つの見通しが得られるだろう。学問は認識という責任、政治は現実的結果という責任という、それぞれに異なった責任を負うべきである。もちろん、一人の人間が学者として政治、政策、運動にかかわることはありえる。おそらくその場合も、学問的活動に伴う行動原理と政治活動に伴う行動原理とは厳格に区別されるべきだということになるだろう。これは、学問を受け取る側にも妥当する。学問の成果を政治の論理で評価してしまうと、思わぬ誤解が生じる。実際以上に学問の力を過大評価したり、その暴走を恐れたり、逆に学問の意味を必要以上に過小評価し、貶めることになる。

文系学問の新たな責任 —— カール・マンハイム再訪

ヴェーバーの学問論は政策科学に限定され、その内実は因果連関の説明に限定される味気ない主張のように見る。しかし、ドイツ精神科学の遺産を引き継ぐヴェーバーである。そこにはもっと深い「責任」が提示されている。

ヴェーバーによると、社会的現実の因果連関と政策の現実的帰結を解明する本当の目的は、それらの連関や帰結がどのような「価値」と結びつているか、行為者にその「自覚」を促すことにある。ヴェーバーが社会政策的認識と政策論争を通して真に求めたのは、責任ある価値主体の陶冶であり、そうした主体が社会の困難を克服する価値をはぐくみ、鍛え上げ実現することであった。

今、社会が学問に求めていることとは、さまざまな問題と困難に直面し、世界、社会、人間そのものに対する新しい理解の仕方であり、それを方向づける「価値」の(再)発見である —— かつては宗教に裏付けられた世界観であり、ナショナリズムであり、コスモポリタニズムであり、民主主義であった。そして解釈学的な人文学という学問こそ、これまで最も真摯に価値とその理解に向き合ってきた。他方、さまざまな価値が互いにどのような連関をなし、社会的現実と結びついているのか、この問題に取り組んできたものが社会学であり、その「責任」の担い手こそ、カール・マンハイムのいうインテリゲンチャであった —— 残念ながらヴェーバーには、価値と価値との対立(神々の闘争)を強調しすぎるという限界があった。思惟、歴史的営み、作品にあらわれる価値を深層において理解しようとする人文学と、多様な価値を社会的現実との関連において水平的に把握しようとする(知識)社会学とは、その方向性において時に矛盾する。しかし、次のように言えるかもしれない。人文学と社会学との関係性は、学問と社会という二つのシステムの関係とパラレルである、と。人文(学)と社会(学)の対話のなかに、新たな価値を(再)発見し、価値と社会的現実との関係を提示するという新たな「責任」を考えるヒントがあるように思われる。

(2021年3月20日)