阿部賢一(現代文芸論研究室)
1.見える「力」、見えない「力」
「力」という言葉は、多義的である。物理的に作用する「力」もあれば、私たちに及ぶ目に見えない「力」もある。それは時に「圧力」となることもあれば、先鋭化して「暴力」となることもある。人間だけではなく、学問、文化、芸術といったものに対しても、何らかの「力」が及ぶことがある。だが、しばしばそれは捉えにくい。多くの場合、それは目に見えないからである。
身近な事象の意味を捉えるには、時として距離を置いて考えてみることも有効だろう。ここでは、戯曲家ヴァーツラフ・ハヴェル(1936‐2011)が1978年に執筆したエッセイ『力なき者たちの力』を参照しながら、政治と文化、芸術(さらには生)との関係を考えてみたい。
ビロード革命後の初代チェコスロヴァキア大統領に就任したことで知られるハヴェルは、元々は、不条理演劇の戯曲家であった。『ガーデン・パーティ』(1963)、『通達』(1965)といった戯曲を1960年代に発表し、国内外でも高い評価を受けるが、公的な活動は「プラハの春」と呼ばれる文化開放政策を標榜した1968年をピークとする。同年8月、ソ連軍を中心とするワルシャワ条約機構軍が介入し、国内の様々な活動が大きく制限されるようになったからである。その後、「正常化」という旗印の下、言論、文化、芸術に対する有形無形の干渉がなされていく。ハヴェルが『力なき者たちの力』を執筆したのは、表現者として様々な制約が課せられていた1970年代後半のことであった。
本文に触れる前に確認しておきたいのは、このエッセイを書いた当時、ハヴェルは、政治家でもなければ、政治学者でもなく、単なる戯曲家であったという点である。たしかにビロード革命後の1989年12月、彼はチェコスロヴァキアの大統領に就任するが、1970年代、彼がそのような立場に就くことを夢想する者は一人としていなかった。つまり、ハヴェルは、市民の立場から、政治、とりわけ全体主義と呼ばれる政治の様相を捉えようとしたのである。当時、ソ連や東欧諸国で哲学者や労働者といった人々が政治について発言していたことについて、ハヴェルはこう述べる。
それは、政治家だと自認する人たちより、こういった人たちが賢いからではなく、政治的な思考、政治的な慣習、つまり伝統的な政治思考、伝統的な政治的慣習に煩わされたり、縛られていないからである。このような人たちは、逆説的にも、実際の政治的現実に対して柔軟であり、そこで何ができるか、そこで何をすべきかについての感覚がきわめて優れている。(ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』拙訳、人文書院、2019年、54頁。以下、頁数のみを記す。)
政治家あるいは政治学者といった既存の思考の枠組みに捉われない一市民としての考察こそが、ハヴェルの起点となっている。
2.「些細な振る舞い」のもっている意味
それゆえ、ハヴェルの議論は、具体的な生活風景に向けられる。『力なき者たちの力』において、ハヴェルが注目するのは青果店店主の些細な振る舞いである。それは、青果店の店主が店先のショーウインドウに「全世界の労働者よ、一つになれ!」という当時よく見られたスローガンを置く行為である。これについて、ハヴェルは次のように述べる。
青果店店主が公的に示した要求は一見したところ無意味であるように思われる。だがそうではない。人びとはそのスローガンに気づかない、だが気づかないのは、そのようなスローガンは他のショーウインドウにもあり、窓にも、屋根の上にも、電柱にもあり、いたるところにあるからだ。それは、かれらの日常の風景のようなものを形作っている。この風景は――全体として――よく意識されている。この巨大な風景の小さな一部となるものとして、この青果店のスローガン以外のものがあるだろうか?(28‐29頁)
青果店店主は言われたことをただ行なったに過ぎない、スローガンを置いても置かなくてもたいした影響はないと思ってやったにちがいない。だが、ハヴェルはそのような無意識の些細な振る舞いが蓄積され、自明な「風景」となり、さらには「権力を内側へ儀式的に伝える主たる装置」として機能しはじめる点に着目する。ハヴェルはこのような振る舞いを「自発的な動き(automatismus)」と述べ、「『体制のアイデンティティ』のために、人間としてのアイデンティティ」(31頁)を放棄することと同義であると捉える。そればかりか、青果店の振る舞いが「一般的な規範をともに形成し、他の市民に圧力をかけることになる」(31頁)という。換言すれば、青果店の店主がスローガンを置くという何気ない行為は、他人への見えざる(いや、スローガンによって可視化された)「同調圧力」になりかねないとハヴェルは指摘しているのである。このように捉えると、青果店店主の日常における些細な振る舞いが、時に政治的次元において重要な意味合いを担うことが浮かび上がってくるだろう。
3.ロックミュージック、あるいは「前‐政治的領域」の射程
次に、ハヴェルが着目するのが、あるロックミュージシャンをめぐる裁判である。それには「憲章77」という声明文の誕生も深く関わっている。「憲章77」は、ハヴェルが「力なき者たちの力」を執筆する前年の1977年に発表されたものである。これは、当時の政府が調印したヘルシンキ宣言の遂行、とりわけ、人権に関する条文の遵守を求める声明文であり、その主張に賛同したものは誰でも署名することができた。文面はきわめてそっけないものであるが、初代のスポークスマンは、哲学者ヤン・パトチカ、元共産党の幹部イジー・ハーイェク、そして戯曲家ハヴェルの三名が務め、そのほかにもまったく異なるバックグラウンドを有する人たちが集い、その後のビロード革命に連なる意識の一つの指針となった。
じつは、「憲章77」が誕生する一つの契機となったのは、ロックグループ、プラスティック・ピープル・オブ・ジ・ユニヴァースの裁判であった。1970年代後半、同グループはすでに公の場所での公演ができない状況にあったが、1976年、メンバーの結婚式という私的な場所でライブを行った際、多くのメンバーが逮捕、拘束されてしまう。かれらの裁判には親しい友人だけではなく、逮捕を憂慮する人々が多く集まったという。これについて、ハヴェルは次のように述べている。
チェコのアンダーグラウンド音楽への攻撃は、もっとも重要で基本的なものへの攻撃であり、すべての人を結びつけるものであると誰もが理解したのである。つまり、「真実の生」、生が真に目指すものに対する攻撃だった。ロックミュージックの自由は人間の自由として理解し、つまり、哲学的、政治的考察の自由、文学の自由、人びとの様々な社会的、政治的関心を表現し、擁護する自由として理解したのだった。(47頁)
アンダーグラウンドのグループであろうと、音楽を弾圧することは、学問、政治、さらには人間の自由を犯すものであるという意識を多くの人が共有したのである。もちろん、このような意識が共有された背景には、1970年代のチェコスロヴァキアという社会状況があるだろう。職業選択、芸術表現の可能性が狭められ、場合によっては身柄の拘束も身近にあった時代にあって、表現の制約に対する感覚が研ぎ澄まされていたともいえる。
プラスティック・ピープルのメンバーの逮捕、そしてそれに続く「憲章77」への展開を通して、ハヴェルはある概念にたどりつく。それは「前‐政治的領域」である。
憲章77が誕生したプロセスは、これまで論じてきたものを見事に示していると思う。政治的な意味を少しずつ担うようになった動きがもっとも本質をなす背景や起点となるのは、ポスト全体主義では、具体的な政治的な出来事や異なる政治勢力や概念の対立ではない。それは通常まったく別の場所で生まれている。「嘘の生」と「真実の生」、つまりポスト全体主義体制の主張と生がぶつかり合う「前‐政治的」な広範な領域で生じている。(48頁)
つまり、政治的な意味が醸成されるのは、じつは投票や特定政党の支持といった行為だけではなく、政治という具体的な活動を取る以前の「前‐政治的領域」であるという。その起点となるのは、「物質、社会、地位にまつわる基本的な関心」であったり、「宗教的な関心」であったり、あるいは単に「威厳のある生活を営みたいというささやかな欲求」であり、日常生活における様々な営みそのものである。それゆえ単一的な政治理念を有するポスト全体主義において、「人間のありとあらゆる自由な行為や表現、『真実の生』のありとあらゆる試みは、必然的に体制を脅かすものとなり、つまり際立った『政治』として現れる」(48頁)という。
「芸術や学問に政治を持ち込んではならない」といった表現をしばしば耳にする。だが、ハヴェルの議論を踏まえると、そのような主張自体が効力を失ってしまう。というのも、政治と非政治という具体的な境界線を示すことは不可能であり、政治という具体的な形を取っていない場所で、すでに「前‐政治的領域」が広がっているからである。とはいえ、ハヴェルの議論はソ連・東欧といったポスト全体主義という文脈においてのみ有効なのではないか、という疑問を呈する人もいるかもしれない。だがこのエッセイを社会主義の一章としてのみ捉えることはあまり生産的ではないだろう。というのも、ハヴェル自身、これはすでに惑星規模の危機であると指摘しているからである。「西側の民主主義、つまり、伝統的な議会制民主主義が、我々よりも深遠な解決法をもたらしていることを示すものは現実には何もない。そればかりか、生が真に目指すものという点において、西側には我々の世界以上に多くの余地があり、危機は人間からより巧妙に隠れているため、人びとはより深い危機に直面している」(112頁)とハヴェルは述べている。
様々な選択肢が一見あるように思える今だからこそ、「前‐政治的領域」の意義そしてその「力」について、私たちは立ち止まって考えるべきであろう。
(2020年10月31日文学部ラボより)
参考文献: | ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』阿部賢一訳、人文書院、2019年。 |
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