阿部公彦(英語英米文学研究室)

ここ数年、私は「英語民間試験の活用に一生懸命反対する人」の一人でした。休学届のハンコをもらいに来た学生さんにまで「先生。ほら、あの、入試のやつ、がんばってください!」と声をかけられるほどでした。

なぜ、私はこれほど一生懸命だったのでしょう。この入試政策に制度として問題があったのはたしかです。でも、私がまず気になったのは「4技能」なる理念でした。「4」とか「2」といった区分でいいのか。そもそも言葉を「技能」と割り切っていいのか。言葉とはもっと扱いの難しいものではないのか。もっと「あやうい」ものではないのか。政策が中止された今も、この問題は解決していません。学問と社会というテーマともかかわりますので、この機会にあらためて説明しておきたいと思います。

「技能」の効用

英語のskillの訳語である「技能」という語は、この20~30年くらい英語教育の世界で頻繁に使われるようになりました。たしかにその利点はあります。一つには、言葉の世界が身近になるということです。歴史上、言葉を身につけることは知識の習得や文献解読といった知的な営みと連携することが多く、どうしてもエリート主義的な言語観を生みがちでした。ルネッサンス期のヨーロッパの宮廷人がしばしば詩歌に通じていたのは、言語運用能力が身分の高さや知性の証とされていたからだという指摘もありますし、日本の歴史でも地位の高い人の間では漢文の素養が重視され、近代になっても選抜試験では外国語科目に大きな比重が置かれてきました。

言葉が宗教的な権威と密接につながってきたことも忘れてはなりません。太古の昔から人間は言葉に神聖な力を見て、超越的な存在から言葉的なメッセージを受け取ることに関心を持ってきました。近代になり世俗化が進んでも言葉の神聖視は形を変えてつづき、ロマン主義の時代には詩人が天才と見なされたりします。

しかし、過度な畏怖には弊害もありました。言葉は地道な努力でそれなりに身につく。神聖視しすぎれば、そうした側面に目がいかなくなるでしょう。技能という語はそんな過大な神聖視を乗りこえ、言葉をいわば「民主化」するのに役立ちました。英語などの外国語科目を理科や社会などの「内容教科」と区別し、音楽や美術、体育などと同じ実技中心の「技能教科」とすべしと主張する人がいるのもそのためです。習得は高度な知性よりも、努力とコツ。人を選ぶわけではない、ということです。

言葉と「あやうさ」

このように技能という語には、解放性があります。ただ、それで「すべてよし」ともいきません。ここからが私の懸念です。このところ世の中では「今までにはなかった」とされるような事件が起きています。たとえばSNSで自殺願望者と知り合った人が、本人が翻意したのにその人を殺害してしまう。あるいはテレビ番組に出演した女性がSNSでの中傷に耐えられず、自ら命を絶つ。これらはネット時代ならでは事件と見られがちですが、根は古いところにあります。言葉とどう付き合うかということなのです。

言葉は相手を惹きつけたり拘束したり、逆に暴力性や殺傷力を持ったりもします。不思議な力があるのです。上記の事件は決して特異な事例ではなく、人目につかないところで数多くの事例が発生しているはずです。私の身近でも起きています。たしかに被害を増幅させたのはインターネットでしょうが、その点ばかりに注目しても事の本質を逃してしまいます。

私があらためて思うのは次のようなことです。たしかに、技能/skillという語の導入のおかげで、人間の言葉との付き合い方はより自由で解放されたものとなった。しかし、そうした解放感は、言葉を甘くみることにもつながったのではないか。言葉を単なる道具や技能と見なし、使用法さえ覚えれば簡単に使えると過信したら、言葉の(そして究極的には人間の)あやうい部分に思いが及ばなくなるのではないか。

私たちはあらためてこのあやうい部分を見つめ直す必要があると思います。「あやうい」には、「暴力的で危険な」との意もこめていますが、他方でそこには「デリケートで毒にも薬にもなる」という含意があります。言葉の危険さと有用性や魅力は紙一重なのです。

嘘の効用

象徴的なのは嘘です。嘘は道徳的に「悪」とされがちですが、実際には言葉の重要な機能の1つでもあります。具体例をあげて考えましょう。吉田修一さんの『悪人(上・下)』(朝日文庫)は九州を舞台に、ある殺人事件を描いた作品です。必ずしも謎解きが主眼ではなく、丁寧な人物描写が読み所になっています。

今、注目したいのは、主人公の清水祐一に殺害される石橋佳乃という女性のことです。彼女はわりと気軽に嘘をつく人として描かれます。小さな難局を切り抜けたり、体裁をつくろうために、便利な道具として躊躇なく嘘をつく(「技能としての嘘」という語が思い浮かぶほどです)。しかし、彼女は「嘘」の本当の力をわかってはいません。それが不幸を呼ぶ。そのあたり、私は次のように解説したことがあります。

[これは]ある意味で佳乃が世界の一義性のようなものに安心しきっていることの証拠でもあります。だからこそ、平気で戦略的な嘘がつける。ついた嘘がどんな恐ろしい現実を引き起こすかも想像せずに、嘘は嘘だから、と切り離して考える。言葉は言葉、物は物、とわりきっているのです。佳乃はどうやら物の世界の安定感を信じ切っているようなのです。だから、言葉とか心といった部分に、おそろしく鈍感でいられる。だから、言葉や心に復讐される。(『小説的思考のススメ』、109-110)

彼女は嘘を多用しますが、それは嘘の力を知っているからではなく、嘘を甘く見ているということです。実際、彼女は嘘だと知りながらわざと祐一を強姦魔呼ばわりし、それが事件につながります。祐一は「俺は何もしとらん」と抗弁するものの、「早く嘘を殺さないと、真実のほうが殺されそうで怖かった」と彼女の首をしめてしまうのです(『悪人(下)』、133)。

このように嘘はひどい毒を生み、人を傷つける。でも、効能もあるし魅力もある。目の前の現実から離れて、仮想的な世界を構築できるのはすごいことです。それがどこまで広がりうるか、どんな機能があるか、どんな危険や奥行きがあるかは、実は十分には理解されていません。だから、言葉を使う過程で思いもかけないことが起きる。ときには恐ろしい事件にもつながる。私たち現代人にとっても発見の連続です。だからこそ、嘘は言葉のもっとも「あやうい」部分の一つなのです。政治、行政から教育、芸術、さらには日常の言葉のやり取りにおいても、真実性の判断を保留して言葉にしてみるという行為は、私たちが世界と付き合うのに重要な役割を果たしてきましたが、使い方を誤れば大きな被害をもたらします。「早く嘘を殺さないと、真実のほうが殺されそうで怖かった」という反応はけっして大袈裟なものではないのです。

驚きの力

ではどうすればいいのか。やはり言葉を甘く見てはいけない。個々人のレベルでも、社会としても、私たちは言葉の働き方がすべてわかっているわけではありません。でも、それは前向きにもとらえられます。言葉の働きをさぐり、興味を持ち、理解を深めれば、私たちの生活はより豊かなものにもなるはずです。

卑近な例で言えば、私たちは生活の中ではわかりやすい価値に注意が向きます。数値が欲しくなる。最たる例がお金です。しかし、お金の価値は一義的ではない。よくお金について「真水を注入する」「色つきのお金」といった比喩が使われますが、同じ1万円でも意味作用はさまざまです。振り返ってみる「あのときの1万円」。1週間後に約束された「楽しみな1万円」。突然、もらった「え、1万円も?」。心理的にはみな異なります。そのメカニズムを理解するには、言語的な想像力を駆使して人間化することが必要です。これも「嘘の効用」の一環です。

近代人が取り憑かれてきたお金は、実用性の究極の物差しとされがちですが、その機能はほんとうはとても言葉的なのです。演算処理だけでは理解できない、隠れたニュアンスや錯誤や仮想イメージを通し人間の心を動かす。「お金の修辞学」という視点には、まだまだ探究の余地がありそうです。

もうひとつは「安全保障」。国レベルであろうと、個人レベルであろうと、危険から身を守ることは重要です。しかし、いわゆる武力だけで身を守ることができるでしょうか。歴史研究が明らかにしたのは、諍いの勃発やその行方でほんとうに意味を持つのが、単純に数値化される武力だけでなく、外交努力や、それ以前の信頼関係の構築、価値感の共有だということです。さまざまな国際機関がそうした理念の元につくられてきたのは周知の通りです。ここでもまた、言葉に媒介された考え方やヴィジョンの共有が大きな意味を持っています。

経済や安全保障は「実用性」を象徴するものでしょうが、これらも金額や兵力などの数値だけでは測れない事が多いということです。やわらかい地盤に載った「あやうい」ものなのです。このことを理解するには、文学部の人が日々考えていることがおおいに役立つと思います。

繰り返しますが、言葉を甘く見てはいけない。言葉や人間をめぐる学問の最大の効用は、世界を知り尽くしてやっつけることにあるのではありません。むしろ世界の不思議さに驚き、日々新しい畏怖の念にかられること、それが先につながります。今、私たちに必要なのは、まずは驚く力なのかもしれません。

(2021年1月11日)