三枝暁子(日本史学研究室)
歴史学からみた「現在」・「未来」
学問と社会の「現在」と「未来」について、「過去」の出来事を研究対象とする歴史学の枠組みからどのようなことが言えるだろうか。「過去」が、「現在」そして「未来」につながるものであることを思えば、歴史学もまた、「現在」や「未来」に深くかかわる学問であるといえ、そのことに自覚的である歴史学研究者も多くいる。しかし自分自身はと言えば、近現代史に比べて「現在」からより時間的距離のある時代を研究していること、扱う「過去」の出来事のすべてが「現在」へと単線的につながるものではないことなどを言い訳にして、「現在」や「未来」について語ることを避けてきた。むしろ遠い「中世」という時代を扱うことで、「現在」との緊張関係から「自由」であろうとしてきたと言うべきかもしれない。
けれども、新型コロナウィルスの感染拡大によって、新自由主義下の日本の社会構造のいびつさが目立ちはじめ、日本学術会議任命拒否問題によって国家権力による学術統制がより顕在化し始めているいま、さすがにこのままでよいのかという危機感を持ち始めている。医療が崩壊し、「自己責任」のもとで病と向き合わねばならない人々の多くいる「現在」は、病者を救うための国家の公共機能がほとんど働いていなかった中世社会に通じるところがある。また、国家権力による学術統制は、戦前の中世史研究者が南北朝正閏問題に翻弄され「不自由」な環境におかれていたことをただちに想起させる。つまり「現在」から時間的距離が遠い時代を扱っていても、生じる出来事によっては、物理的時間の長短を超えて結び得る事実が存在するし、「過去」の歴史学研究者を襲った問題と同様の問題に、「現在」の歴史学研究者が立ち向かわねばならなくなることもある。この一年、自分の取り扱う「過去」に対する当事者性と、「現在」に生きる歴史学研究者としての当事者性、二つの意味での当事者性というものについて、深く考えるようになった。
「過去」に臨む
二つの当事者性のうち、「過去」に対する当事者性については、ここ15年ほどの間続けている祭礼調査を通じ、おぼろげながら考えてきた問題でもある(奇しくも学術会議問題の発生を知ったのも、祭礼調査で京都に赴いているときだった)。ここでいう祭礼とは、毎年10月に京都市西北部の旧北野天満宮領の「西京(にしのきょう)」で執り行われる「瑞饋祭(ずいきまつり)」のことで、この祭礼は中世京都の麹業者として知られる「西京神人(にしのきょうじにん)」と呼ばれる人々によって始められた。わたしに瑞饋祭の調査を勧めてくださったのは、巡見調査を通じ偶然に出会うことのできた西京神人の末裔の川井清人さん(故人)であった。今思えば川井さんは、遠いはずの中世という時代が「現在」に深くつながる時代であることを、歴史を継承する当事者として初めてわたしに教えてくれた人だった。
西京神人や瑞饋祭の歴史を歴史学の俎上にのせて説明しようとするときに、いつも困るのは、史料と「語り」の世界とに齟齬が生じることである。川井さんをはじめとする神人の末裔の方々の語りは、神人の歴史の始まりを菅原道真の生前期(9世紀末)に置いている。左遷された道真にしたがい大宰府まで行った彼らの「先祖(おやたち)」が、道真死後、遺言どおりに木彫りの道真像を西京へと持ち帰り、共同体を形成していったという。しかし、文献資料上に西京神人が最初に現れるのは13世紀後半のことで、現在まで続く神人の家の苗字が現れるのも15世紀後半であり、語りの裏付けとなる同時代史料を見つけることはできない。瑞饋祭の始まりも、語りの世界が10世紀以前に始まったとする一方、史料でたどれるようになるのは17世紀以降のことで、語りと史料との間には大きな隔たりがある。したがって、講義や市民向けの講座など、様々な場で西京神人の歴史を説明する際には、語りの世界では…、しかし史料に即してみると…と、何となく歯切れの悪い説明をせざるを得ないことになる。
もちろん、史料による裏付けを重視する歴史学の立場にそって、史料のみから復元できる歴史を叙述するという選択肢もあり、かつてそのような論文を書いて弁明をしながらおそるおそる川井さんに進呈したことがある。川井さんの反応は、「先生には先生の立場がある。わしらにはわしらの立場がある」とあっけらかんとしたものだった。その鷹揚さに救われながら、何世代にもわたる「語り」の力にかえって圧倒される気持ちが芽生えるようにもなった。
そもそも中世において、文字資料を書きのこすことのできた人々はごく一部に過ぎず、中世史研究の多くは、公家や武家・寺社など、いわば権力を構成する人々によって書きのこされたものに多くを負っている。西京神人が文字資料を書きのこし始めるのも16世紀以降のことで、わたし自身が神人の歴史を復元していく際に拠りどころとしている史料は、神人を支配する側にあった北野天満宮や室町幕府関係の記録・文書である。このような、中世の史料そのものがもつ限定性を念頭におくならば、史料に基づく歴史の復元が万全でないこともまた確かであって、麹業者のようないわば中世の民衆の歴史を明らかにしていくことには、常に残存史料の少なさという困難さがともなう。そのようななか、西京神人の共同体が中世の史料に痕跡をとどめているのみならず、「現在」においても存続していることは稀有な例であるといえ、共同体の存続と不可分である「語り」に、改めて注目する必要がある。そこで今は、語りに示される信仰の内実や、語りでふれられている歴史的事象について、史料と対照させつつ、フィールドワークも行いながら検討していく作業を進めている。
「語り」の力と当事者性
このような作業を続けていて気づくのは、神人の共同体が独自の時間軸を持って今に至っているということである。神人の語りにおいて、特に重視されている歴史的事件は、道真の左遷と死、安楽寺天満宮をはじめとする御供所(ごくしょ)の創祀、文安の麹騒動、明治の上地による御供所の解体であるが、このうち特に雄弁に語られるのが、文安元年(1444)に起こった文安の麹騒動である。これは、室町将軍から付与された麹業の独占権の喪失を機に生じた幕府と神人との間の合戦であり、合戦の事実そのものは、当時の公家の日記からも確認することができる。しかし、幕府軍に追い込まれ没落していく神人の様相や西京への還住については「語り」の方が細かな情報を伝えている。この騒動が現在に至るまで語り継がれているのは、室町将軍によって麹業の独占を得た15世紀が、その後の時代の神人の共同体にとって最も輝かしい時代であり回帰すべき時代と認識されてきたからであろう。
このように、「語り」における神人の歴史は、単なる物理的な時間の連なりとしてではなく、自由に伸び縮みする時間のなかで紡がれる当事者としての歴史であり、そうした歴史を語り継ぐという主体的な営みの連続のなかで、つねに「過去」と「現在」が結び合わされている。毎年10月、瑞饋祭の際に行われる「甲の御供(かぶとのごく)」という神事では、神人の代表者が今も祝詞をあげており、祝詞においては大永7年(1527)の桂川合戦の際に神人たちが将軍足利義晴を助けたという神事のいわれが語られる。応仁の乱後の京都に打ち続いた戦乱の一つである桂川合戦の記憶が、祝詞を通じ呼び覚まされ、「現在」に「中世」が現出するかのような瞬間に立ち会うたび、「中世」という時代に当事者性をもって向き合う人々が今も確かに存在するのだという実感をもつ。それと同時に、祝詞をあげ神事を行うことで、新たな神人の歴史がつくられていることにも思い至り、歴史をつくる当事者としての自覚と気概が共同体を存続させてきたことに気づく。かつて彼らに特権を与えた将軍権力が、とうに滅び去ってしまった事実を思えば、その自覚と気概の強さがしのばれる。
ひるがえって、「先生には先生の立場が…」という川井さんの言葉を思い起こすとき、わたしもまた、わたしの立場・わたしの足場で「中世」という時代に当事者性をもってのぞみ、わたしもまた歴史をつくる当事者であることに自覚的でありたいとしみじみ思う。そもそも、誰もが歴史をつくっている。このことを、誰もが無理なく自然に自覚できる社会が民主主義社会なのだと思う。わたしたちのための歴史をわたしたちの手でつくるための歴史学を、今こそ実践していきたい。
(2021年8月24日)