本論は、20世紀フランス文学史において特異な位置を占める作家マルグリット・ユルスナール(1903-1987)の作品における、旅の経験と文学創造の関係を探るものである。ただし旅する作家の足取りを追跡することにも、その反響を作品中に跡づけることにも筆者の関心はない。〈いま-ここ〉を離れて〈他なるもの〉の方へ向かう経験が、その本質において、いかに文学的営為と結びつくかという問いに答えを与えることが本論の試みである。旅と文学を関係づけ、問題の所在を明確にするために、序論では荷物のない旅人という定型化された文学的形象を導入する。記憶・アイデンティティ・歴史という三つの論点に即してユルスナールの描いた荷物のない旅人たちの跡を追いながら、彼女の作家的特質を深みにおいて規定する旅の経験と文学創造の関係について考察する。
本論ではユルスナールの作家人生を便宜的に三つにわけ、それぞれの時期に一部ずつ割り当てることとする。第I部は『アレクシ』を発表した1929年から、大戦の勃発を機にアメリカへ旅立つ1939年まで。第II部は作家の二つの代表作、1951年の『ハドリアヌス帝の回想』と1968年の『黒の過程』が発表された時期を対象とする。自伝的三部作『世界の迷路』を書き始め、1987年に亡くなるまでが第III部となる。
第I部で扱う戦間期の作品は数が多いため、本論では主題に鑑みて特に重要な三作を取りあげ、各章でひとつずつ作品論的なアプローチをとって論じる。
第1章で扱うユルスナール最初の小説『アレクシ』(1929)は妻のもとから立ち去る若き音楽家を描く作品である。ジッドから受けた影響が色濃く残るこの小説について論じる際には、『コリドン』など同性愛を主題として取りあげた作品がしばしば持ちだされてきた。だが、この作品の興味を同性愛の問題に収斂させることで読み落とされるものは多い。『地の糧』をはじめとする反-家庭小説の系譜に『アレクシ』を位置づけることで、小説の焦点を同性愛者としてのアイデンティティの探求ではなく、規範道徳から、さらには「わたし」という存在からの逃走へとずらし、後のユルスナール作品につながる旅立ちのテーマを浮かびあがらせることにこの章の目的がある。
『アレクシ』を発表して作家として本格的に歩み始める1929年、ユルスナールは「ヨーロッパの診断」というエッセイを発表している。これはヴァレリーの「精神の危機」に応答するようにして書かれたものだ。二つのエッセイから透けて見えるのは、ヨーロッパのアイデンティティについて問い直さざるをえない時代が到来したという歴史認識である。第2章では、ヨーロッパの危機という歴史的な文脈を考慮に入れながら『東方綺譚』(1938)に収められた短篇を読み解く。その分析をつうじて、自文化と異文化に注がれたユルスナールのまなざしの特質が明らかになる。
文明論をめぐる考察は第3章に引き継がれる。イタリアを旅した経験の結実した小説『夢の貨幣』(1934)が分析の対象として扱われる。ムッソリーニ暗殺未遂事件を主筋とするこの作品について「ファシズムの膨れあがった見かけに隠された虚ろな現実」を暴いた、と作者は主張するが、それを言葉どおりに受け取るのは難しい。独裁者の暗殺を謀るマルチェッラから、シチリアの旧弊な家庭で育った姉妹ローザとアンジョラ ― 留まる女と出発する女 ― に小説の焦点をずらすことで、その力線を複線化し、読みの可能性を作者の意図から解放することができる。秩序とそれに反する力がいずれかに解消されることなく、拮抗する場として『夢の貨幣』は読まれるのである。そこには混迷する時代のなか、自由を追い求めつつも、帝国的秩序の再興を夢みるという作者のアンビヴァレントな思いが反映されている。
第II部の主眼はユルスナールの代表作『ハドリアヌス帝の回想』(1951)と『黒の過程』(1968)の分析にある。第二次世界大戦の前後から、該博な古典の知識に支えられた彼女の態度は審美的価値と同時に、倫理的価値を持つようになる。古典的教養を持つ作家としてユルスナールはユマニストと呼び習わされてきたが、文献学的関心に留まらず、過去の文化・文学との親交によって培われた精神をもって現代に批判的まなざしを注ぐ点に、彼女のユマニストとしての特色が強く表れている。ただし20世紀の文明の危機を体験したこの作家におけるユマニスムは、人間性という価値を無批判的に受け容れるものでなく、狭く歪められた「人間」という観念を乗り越えるものですらある。ユマニスムの継承と超克という問題について考える過程で、記憶・アイデンティティ・歴史のテーマが表面に浮かびあがる。
第4章は予備的考察に当てられる。『ちいさな人魚』(1942)という戯曲では、アメリカに移住した直後のユルスナールが感じていた異郷の居心地の悪さが作中人物に仮託される。『ハドリアヌス帝の回想』においても同様のプロセスが認められるのだろうか。この問いを追究することで、自己の記憶の忘却がハドリアヌスの記憶へ身を開く契機になるという、ユルスナールの代表作の基本的な発想を明らかにする。
続く第5章は、20世紀前半のヨーロッパにおけるウェルギリウスの受容という問題を取りあげ、同時代の作家と対比させながらユルスナールにおけるユマニスムの持つ現代的意義をあぶりだそうと試みるものである。戦間期のユルスナールは分断が進むヨーロッパ情勢を案じ、帝国的秩序の再興を願っていたが、その思いは戦後、『ハドリアヌス帝の回想』に結晶する。この作品には彼女が価値転覆的なやり方で古典作品を読み直した跡をたどることができ、そのためにこの小説が単なる歴史的学識の産物でなく、現代性を備えた作品として成立しているということを論述する。
ユルスナールにおけるユマニスムをめぐる考察は第6章に引き継がれる。この章では西洋古典学の知見も取り入れながらユルスナールのユマニスムについて多角的に論じる。エルネスト・ルナンが「ギリシャの奇跡」という表現で称えた古代ギリシャの理想、そしてヨーロッパ精神の礎となった古典文化に固執するユマニスムに対する作家の両面的な態度を指摘し、その作品に駆動する詩学に光を当てる。
先行する三つの章では『ハドリアヌス帝の回想』の分析に多くの紙数が割かれるのに対し、第7章は『黒の過程』を中心的に取り扱う。ルネサンス期の錬金術師ゼノンの荷物を持たない旅に並走しながら、「A=A」という同一律の原理に支配された世界から抜けだし、「わたし」が「わたし」でなくなる場所まで歩み続けるという点にこの小説の核心を探る。
第8章では『ハドリアヌス帝の回想』と『黒の過程』以降の作品を隔てる断絶に焦点が当てられる。「不定形」という概念に着目するこの章では、古典主義的美学が『ハドリアヌス帝の回想』の基盤をなしていることを確認した後、その美学から逸脱する『黒の過程』以降の作品では四元素のうちに解体する存在のあり方が描かれることを指摘する。
ユルスナール最後の小説『無名の男』(1982)、および未完のまま残された自伝的三部作『世界の迷路』(1974-1988)の分析には、第III部が割り当てられる。1970年代後半以降、ユルスナールだけでなく、それまで前衛的と見なされていた作家たちを中心に、多くの作家が自伝的作品を書き始めた。「主体への回帰」といわれる時代の流れのなかで、個人の生をその誕生から時系列にしたがって書き記すという伝統的な自伝の書法が刷新される。ユルスナールの作品の特異性は、とりわけ大きな時間のなかに生きる没我的な存在としての「わたし」を描きだすという自己表象の書法にある。
第9章ではユルスナール最後の小説『無名の男』について論じる。無垢な魂のほかはなにも持たずに旅するナタナエルは、ほとんど無人の島にたどり着き、そこで死を迎え、自然と一体化する。従来の読解では人間と自然の調和という主題に焦点が当てられてきたが、近代という歴史的条件が内包する排除の構造に注目することで、ナタナエルの旅が時代に対する批評的意義を持つことを明らかにする。
「ひとつの声の肖像」と形容される『ハドリアヌス帝の回想』と対比することで、『世界の迷路』という作品を紡ぐエクリチュールの特質を解明することを試みるのが第10章である。『世界の迷路』のエクリチュールにおいては切断と縫合という二つの局面が表裏一体をなすことを確認し、この作品が〈書く「わたし」〉と〈書かれる「わたし」〉の縫合という自伝の正統に収まらないことを示す。「コスモビオグラフィー」とも呼ばれる『世界の迷路』は自伝的な試みを中核として持つものの、その企図を大きくはみだすのである。
続く第11章は『世界の迷路』にみられる特異な時間性について解明することを目的としたものであり、特に作品内に見られる歪な時の流れが大局的には古代ギリシャ由来の円環構造へと変容してゆくこと、また作家が家族によって先天的に保証されるアイデンティティを徹底的に破壊し、大いなる時の流れに生きる没我的な存在を探求するということを指摘する。
結論では、記憶・アイデンティティ・歴史の主題に即してユルスナールの作品をもう一度振り返りながら、この作家における文学と旅の関係を改めて考察する。旅とは日常的な「わたし」の死であり、ユルスナールの文学創造においてはまさにこの意味での死が必要とされる。しかし、それは再生のための死だ。「わたし」のアイデンティティを破裂させ、他者の記憶に身を開くこと。人間だけではなく、動物や植物、鉱物の生を「わたし」の生のなかに感得し、複数形の生を生きること。ユルスナールの文学の本質は、しがらみに絡めとられた〈いま-ここ〉を離れて〈他なるもの〉の方へ向かうことにある。この意味で旅は文学であり、文学は旅である。
本論ではユルスナールの作家人生を便宜的に三つにわけ、それぞれの時期に一部ずつ割り当てることとする。第I部は『アレクシ』を発表した1929年から、大戦の勃発を機にアメリカへ旅立つ1939年まで。第II部は作家の二つの代表作、1951年の『ハドリアヌス帝の回想』と1968年の『黒の過程』が発表された時期を対象とする。自伝的三部作『世界の迷路』を書き始め、1987年に亡くなるまでが第III部となる。
第I部で扱う戦間期の作品は数が多いため、本論では主題に鑑みて特に重要な三作を取りあげ、各章でひとつずつ作品論的なアプローチをとって論じる。
第1章で扱うユルスナール最初の小説『アレクシ』(1929)は妻のもとから立ち去る若き音楽家を描く作品である。ジッドから受けた影響が色濃く残るこの小説について論じる際には、『コリドン』など同性愛を主題として取りあげた作品がしばしば持ちだされてきた。だが、この作品の興味を同性愛の問題に収斂させることで読み落とされるものは多い。『地の糧』をはじめとする反-家庭小説の系譜に『アレクシ』を位置づけることで、小説の焦点を同性愛者としてのアイデンティティの探求ではなく、規範道徳から、さらには「わたし」という存在からの逃走へとずらし、後のユルスナール作品につながる旅立ちのテーマを浮かびあがらせることにこの章の目的がある。
『アレクシ』を発表して作家として本格的に歩み始める1929年、ユルスナールは「ヨーロッパの診断」というエッセイを発表している。これはヴァレリーの「精神の危機」に応答するようにして書かれたものだ。二つのエッセイから透けて見えるのは、ヨーロッパのアイデンティティについて問い直さざるをえない時代が到来したという歴史認識である。第2章では、ヨーロッパの危機という歴史的な文脈を考慮に入れながら『東方綺譚』(1938)に収められた短篇を読み解く。その分析をつうじて、自文化と異文化に注がれたユルスナールのまなざしの特質が明らかになる。
文明論をめぐる考察は第3章に引き継がれる。イタリアを旅した経験の結実した小説『夢の貨幣』(1934)が分析の対象として扱われる。ムッソリーニ暗殺未遂事件を主筋とするこの作品について「ファシズムの膨れあがった見かけに隠された虚ろな現実」を暴いた、と作者は主張するが、それを言葉どおりに受け取るのは難しい。独裁者の暗殺を謀るマルチェッラから、シチリアの旧弊な家庭で育った姉妹ローザとアンジョラ ― 留まる女と出発する女 ― に小説の焦点をずらすことで、その力線を複線化し、読みの可能性を作者の意図から解放することができる。秩序とそれに反する力がいずれかに解消されることなく、拮抗する場として『夢の貨幣』は読まれるのである。そこには混迷する時代のなか、自由を追い求めつつも、帝国的秩序の再興を夢みるという作者のアンビヴァレントな思いが反映されている。
第II部の主眼はユルスナールの代表作『ハドリアヌス帝の回想』(1951)と『黒の過程』(1968)の分析にある。第二次世界大戦の前後から、該博な古典の知識に支えられた彼女の態度は審美的価値と同時に、倫理的価値を持つようになる。古典的教養を持つ作家としてユルスナールはユマニストと呼び習わされてきたが、文献学的関心に留まらず、過去の文化・文学との親交によって培われた精神をもって現代に批判的まなざしを注ぐ点に、彼女のユマニストとしての特色が強く表れている。ただし20世紀の文明の危機を体験したこの作家におけるユマニスムは、人間性という価値を無批判的に受け容れるものでなく、狭く歪められた「人間」という観念を乗り越えるものですらある。ユマニスムの継承と超克という問題について考える過程で、記憶・アイデンティティ・歴史のテーマが表面に浮かびあがる。
第4章は予備的考察に当てられる。『ちいさな人魚』(1942)という戯曲では、アメリカに移住した直後のユルスナールが感じていた異郷の居心地の悪さが作中人物に仮託される。『ハドリアヌス帝の回想』においても同様のプロセスが認められるのだろうか。この問いを追究することで、自己の記憶の忘却がハドリアヌスの記憶へ身を開く契機になるという、ユルスナールの代表作の基本的な発想を明らかにする。
続く第5章は、20世紀前半のヨーロッパにおけるウェルギリウスの受容という問題を取りあげ、同時代の作家と対比させながらユルスナールにおけるユマニスムの持つ現代的意義をあぶりだそうと試みるものである。戦間期のユルスナールは分断が進むヨーロッパ情勢を案じ、帝国的秩序の再興を願っていたが、その思いは戦後、『ハドリアヌス帝の回想』に結晶する。この作品には彼女が価値転覆的なやり方で古典作品を読み直した跡をたどることができ、そのためにこの小説が単なる歴史的学識の産物でなく、現代性を備えた作品として成立しているということを論述する。
ユルスナールにおけるユマニスムをめぐる考察は第6章に引き継がれる。この章では西洋古典学の知見も取り入れながらユルスナールのユマニスムについて多角的に論じる。エルネスト・ルナンが「ギリシャの奇跡」という表現で称えた古代ギリシャの理想、そしてヨーロッパ精神の礎となった古典文化に固執するユマニスムに対する作家の両面的な態度を指摘し、その作品に駆動する詩学に光を当てる。
先行する三つの章では『ハドリアヌス帝の回想』の分析に多くの紙数が割かれるのに対し、第7章は『黒の過程』を中心的に取り扱う。ルネサンス期の錬金術師ゼノンの荷物を持たない旅に並走しながら、「A=A」という同一律の原理に支配された世界から抜けだし、「わたし」が「わたし」でなくなる場所まで歩み続けるという点にこの小説の核心を探る。
第8章では『ハドリアヌス帝の回想』と『黒の過程』以降の作品を隔てる断絶に焦点が当てられる。「不定形」という概念に着目するこの章では、古典主義的美学が『ハドリアヌス帝の回想』の基盤をなしていることを確認した後、その美学から逸脱する『黒の過程』以降の作品では四元素のうちに解体する存在のあり方が描かれることを指摘する。
ユルスナール最後の小説『無名の男』(1982)、および未完のまま残された自伝的三部作『世界の迷路』(1974-1988)の分析には、第III部が割り当てられる。1970年代後半以降、ユルスナールだけでなく、それまで前衛的と見なされていた作家たちを中心に、多くの作家が自伝的作品を書き始めた。「主体への回帰」といわれる時代の流れのなかで、個人の生をその誕生から時系列にしたがって書き記すという伝統的な自伝の書法が刷新される。ユルスナールの作品の特異性は、とりわけ大きな時間のなかに生きる没我的な存在としての「わたし」を描きだすという自己表象の書法にある。
第9章ではユルスナール最後の小説『無名の男』について論じる。無垢な魂のほかはなにも持たずに旅するナタナエルは、ほとんど無人の島にたどり着き、そこで死を迎え、自然と一体化する。従来の読解では人間と自然の調和という主題に焦点が当てられてきたが、近代という歴史的条件が内包する排除の構造に注目することで、ナタナエルの旅が時代に対する批評的意義を持つことを明らかにする。
「ひとつの声の肖像」と形容される『ハドリアヌス帝の回想』と対比することで、『世界の迷路』という作品を紡ぐエクリチュールの特質を解明することを試みるのが第10章である。『世界の迷路』のエクリチュールにおいては切断と縫合という二つの局面が表裏一体をなすことを確認し、この作品が〈書く「わたし」〉と〈書かれる「わたし」〉の縫合という自伝の正統に収まらないことを示す。「コスモビオグラフィー」とも呼ばれる『世界の迷路』は自伝的な試みを中核として持つものの、その企図を大きくはみだすのである。
続く第11章は『世界の迷路』にみられる特異な時間性について解明することを目的としたものであり、特に作品内に見られる歪な時の流れが大局的には古代ギリシャ由来の円環構造へと変容してゆくこと、また作家が家族によって先天的に保証されるアイデンティティを徹底的に破壊し、大いなる時の流れに生きる没我的な存在を探求するということを指摘する。
結論では、記憶・アイデンティティ・歴史の主題に即してユルスナールの作品をもう一度振り返りながら、この作家における文学と旅の関係を改めて考察する。旅とは日常的な「わたし」の死であり、ユルスナールの文学創造においてはまさにこの意味での死が必要とされる。しかし、それは再生のための死だ。「わたし」のアイデンティティを破裂させ、他者の記憶に身を開くこと。人間だけではなく、動物や植物、鉱物の生を「わたし」の生のなかに感得し、複数形の生を生きること。ユルスナールの文学の本質は、しがらみに絡めとられた〈いま-ここ〉を離れて〈他なるもの〉の方へ向かうことにある。この意味で旅は文学であり、文学は旅である。