一、研究の目的と問題設定
 本稿は、主として十四世紀江西における朱子学の継承と変容を、元明交代期の知的状況のなかに位置づけて考察するものである。本稿は、朱子学を体系的に学ぶ機会を持てなかった基層儒者・梁寅(1303–1389)を取り上げ、その塾師・館師・幕賓としての活動、金陵滞在期の著作の刊行、晩年の教育活動を検討することを通じて、十四世紀江西の知識社会における朱子学のありかたを問い直す。
 
 先行研究は、師承・家学の系譜を重視するあまり、黄幹(1152–1221)・饒魯(1193–1272)・呉澄(1249–1333)と連なる学問の継承に関心を集中させ、その結果、朱子学が社会の基層へと浸透していく過程の微細な点を見落としてきた。他方、日米両学界の「宋元明移行論(Song-Yuan-Ming transition)」は、国家権力と儒者との関係をめぐる理解を修正し、儒者が国家と交渉しつつ地域社会の運営を担うにいたる過程を鮮やかに描き出してきた。しかしその視線が儒者の社会的機能に向かうあまり、個々の儒者を道学へと向かわせた内面的な志向は、かえって後景に退きがちであった。
 
 この二つの研究脈絡を重ね合わせたとき、そこにはじめて浮かび上がるのは、限られた知識資源のもとで生計の問題を抱えながら、なお個人として道を求めた十四世紀の儒者一人ひとりの姿である。そこで本論は、「宋元明移行論」が所与の前提としてきた思想の「連続性」を、基層の儒者たちが道学を担い、広げていくことによって支えられていたという、もう一つの側面から問い直すことを課題とする。
 
 なお、本稿にいう「基層儒者」とは、成長期に知的資本を欠いた儒者を指す。多くの場合その背景には経済的制約があり、彼らは蔵書を可能にする財力も、科挙受験を続けうる余裕も持たなかった。注意すべきは、本稿の「基層儒者」が、経済的階層を指標とする「下級儒者」と重なりつつも同一ではない点である。また、中央と地方との緊張関係に着目する「地方儒者」や、科挙制度がもたらした社会的階層を前提とする「下第儒者」とは、そもそも依拠する軸を異にする。本稿がこの概念を立てるのは、断片的な知識資源と困難な環境のなかで儒学の知識を徐々に蓄積し、みずからの知的判断を形成していった儒者たちを、その営為において捉えるためである。

二、各章の構成と核心の論点
 本稿の各章は、梁寅の知的形成から晩年の講学に至る過程を、地域的移動と経学的実践の連動として跡づける。
 
 第一章では、若き梁寅がいかにして知的基盤を拡げたのかを、地域社会論と空間認知に基づく移動の視点から跡づける。新喩は「二劉三孔」(北宋の儒者である劉敞(1019-1068)と劉攽(1022-1088)の兄弟、および孔子の子孫である孔文仲(1037-1087)、孔武仲(1042-1097)、孔平仲(1044-1111)の三兄弟を指す)に代表される経学的伝統を擁していたが、元末にはすでに停滞の局面にあった。加えて梁寅は代々農業に従事する家の出身で、家学に依拠することもできず、十七歳にいたってようやく『四書』・『書伝』・『詩伝』・『胡氏春秋伝』を入手し、朱子学系の注釈書を手がかりに学問へ踏み出したと伝えられる。本章は、地域的伝統の停滞、家学の不在、書籍資源の欠乏という重層的制約のもとで、梁寅が「士」としてのアイデンティティを形成した過程を、地理的移動と人的紐帯の構築を通じた動態として捉え返す。梁寅は渝南の蕭寄壺との交流を経て南昌に赴き、滕斌・劉有慶らの紹介で富戸の鄧氏・姜氏の館師となった。この広範な士人交遊圏への足がかりとなり、雇主の蔵書に直接接しうる位置に立ったことで、俯瞰的な経学的視野の獲得を可能にした。蔵書をもたぬ基層儒者が、移動と人的紐帯を通じて、選択的かつ能動的に知へ参入していく経路が、ここに看取される。
 
 第二章では、前章を承けて、環境の転換のなかで梁寅が学術的関心を根づかせ、「正しい朱子学」を模索していった過程を考証する。至正八年(1348)、四十六歳の梁寅は二十年余を過ごした南昌を離れて金陵に赴き、張君済の子の館師を経て、郡博士羅罕の招きで集慶路儒学の司訓を務めた。本章は、金陵滞在期に刊行されたと推定される『策要』を中心に、本文中の引用典拠、巻中の付記、そしてその背後の人的ネットワークという三つの層に即して、テキストの内側から外側へと考察を進める。それによって明らかにしたいのは、金陵という新たな環境のもとで、梁寅の学問的関心がいかに持続し、また変化したのか、という点である。まず、経学関連の記事は、章如愚『群書考索』などの類書を主たる参照として構成されており、その関心は類書・彙編という二次的文献を媒介として形成されたと窺える。次に、付記の礼学的論述には、兪庭椿「冬官未亡説」への批判的応答が伏在し、梁寅は『周礼』を礼制の根本綱領と捉えて「冬官未完成説」を採る。以上を総合すれば、梁寅の朱子学受容は環境・論域・人的紐帯の交錯のなかで再編成されたものであり、経典注釈の学知の連続性もまた、語り直しを通じて達成されたという側面から捉え返しうる。
 
 第三章では、梁寅の「読易」の形態の変容という視点から、晩年に「凝道」を軸へと理解の重心を移したのちの経学的言説を分析する。若年期から中年期にかけての梁寅は、朱熹の古『易』説を模範としてその理論体系の補完に傾注していたが、晩年、知の共同体との交錯を経て、関心は次第に二程の言う「道」の体得へと移行する。それは現実を支える「道」を凝(きわ)めようとする探求の帰結であった。本章は、まず南昌滞在期の注釈著作『周易参義』を取り上げ、次いで『石門先生文集』所収の洪武年間前後の「記」・「序」を時系列に配列し、「読易」言説の変化を思想内容の側から跡づける。さらに呉澄「凝道山房記」・陸文圭「凝道堂記」・貢師泰「勉斎書院記」・胡行簡「読易斎銘」など同時代の関連文献を対照資料とし、梁寅の議論を「凝道」をめぐる同時代的言説圏に位置づける。以上から看取されるのは、梁寅の「読易」が文献内在的な注釈実践から、「凝道」を軸とする修養・講学・共同体の言語の形成へと推移した変化である。
 
 第四章では、晩年に帰郷した梁寅が新喩の知識社会とどのように関わり、『春秋』教育の推進を通じて基層儒者がいかに地方社会に自らの位置を確立したのかを考証する。晩年の梁寅は「行道俟命」を指針とし、二程の言説を基礎に『中庸』を六経の綱領に据えた。『策要』における黎立礼(黎立武(1238–?)の弟)説の引用と新喩の学統認識をあわせ見れば、新喩の知識社会には程門(楊時(1053-1135)・游酢(1053-1123)系)と蒙山書院(黎立武系)の二系譜が並存していたと推論され、梁寅の晩年思想は、黎立武・蒙山書院系の知的記憶と無関係ではなかったと考えられる。また、門人たちが経典に求めたものは一様でなく、その差異は各家族集団の世代構成・経済的条件と一定の関連をもつ。城西周氏・賚塘傅氏・吟峰呉氏のような比較的小規模な家族では、地方社会への参与を意識する文脈で「待用」の理念と『春秋』学習とが結びつけられ、経済的基盤の厚い浯溪傅氏・板城黎氏は、挙業の準備の文脈で梁寅を館師に迎え『易』学を求めた。総じて、十四世紀江西の朱子学は画一的な体系ではなく「文化スペクトラム」の様態を呈し、能動的選別の営みのうちにその開放性と多様性の一端が体現されていた。

 余論では、本稿第一章から第四章にかけて、梁寅を軸に追跡してきた経典解釈的実践の射程を、明初の次世代儒者に限定的に適用する。明代に至り、科挙の出題は朱子学的整合性を共有前提とする段階から、皇帝の意向という経書外部の脈絡をさらにも考量せざるをえない段階へと移行した。それでは、かかる転換のもとで、受験者はいかなる適応を呈したのかを本章の問題設定である。ここには、洪武二十一年(1388)進士・解縉(1368–1415)の答案文を中心的資料に据え、同世代の江西儒者である金幼孚(約1370–?)・呉溥(1363–1426)・彭汝舟(1364–?)・彭汝器(1378–1410)兄弟の事例を対照として援用する。余論は、本論の主対象である梁寅を超えて、十四世紀末から十五世紀初頭にかけての江西儒者が直面した知識環境の変化を展望するものである。

三、結論と研究の意義
 以上の考察が明らかにしたのは、梁寅の経学的営為が、時と処に応じて朱子学を語り直す実践であったことである。元末明初の朱子学は固定的体系の継承ではなく、多様な場で絶えず再文脈化されつづけた知として理解されるべきであり、本稿はこの認識に立って思想史の見取り図を描き直した。
 
 本稿の意義は四点に整理される。一点目は、知識人像の転換である。本稿はエリート層の周縁に位置する基層儒者に焦点を据え、その学知が師承・家学ではなく、断片的資源の綴り合わせによって形成されたことを示した。二点目は、分析装置としての「移動性」の提示である。書籍資源の獲得・人的紐帯の形成・教育の提供・地域社会への参与を横断して学知を再編成する過程として「移動」を規定する。三点目は、方法の帰結である。基層儒者の知識資源は当時すでに断片的であり、彼らが遺した文献もまた、断片的な形で伝存している。本稿はこの二重の断片性を前提に、地域社会論と経典注釈の内在的読解とを往還させ、歴史的情報の断片と経典解釈の断片とを相互に照らし合わせることで、個別資料だけでは捉えがたい知見を引き出した。四点目は、今後の展望である。基層儒者の事例を蓄積して十四世紀の朱子学受容の幅を実証的に測ること、また元末の地域的学統と明初の『四書五経性理大全』などの編纂事業とを接続し、地域の学知が中央の編纂においていかに取捨・再編成されたかを検討することが課題となる。