私小説作家として出発しながら、幻想的小説を書き継ぐことになった牧野信一。郷里である小田原の光景と、ギリシャ神話をはじめとする外国文学由来のイメージが重なるその特異な作品群、一般に「ギリシャ牧野」と呼称される作品群は、どのような試行錯誤を経て、またどのような方法論で成立したのだろうか。典拠調査を中心として、牧野信一の幻想的小説の成立の経緯、そしてその方法論の解明に努めたのが本研究である。
本研究は、全三部九章で構成されている。第一部に当たる第一章から第三章では、「ギリシャ牧野」以前の作品を取り上げ、幻想的表現が生み出されるにいたる経緯を検討した。
第一章「童話の方法―「嘆きの孔雀」「青白き公園」を中心に―」では、牧野の童話の展開を概括するとともに、読者と作者の関係性を規定し直そうとする「嘆きの孔雀」「青白き公園」の企図を明らかにした。先行研究の蓄積は少ないものの、牧野の童話には、読者と作者の関係性をいかに規定するかという表現上の葛藤が刻み込まれている。特に「青白き公園」には、「私」という一人称で結ばれながら「私」ではない「私」を照らし出していく表現構造が認められる。「私」の複数性を手がかりとして、夢という領域を析出していくこうした表現構造は、後の幻想的小説を予行するものであり、牧野の創作活動における童話の重要性を証し立てているといえよう。
第二章「英語教科書という言語空間―「地球儀」論―」では、父の理想化されたイメージを描いた作品とされる「地球儀」を取り上げ、〈一つの短篇〉における理想の内実を分析した。小説家である〈私〉は過去を回想した〈一つの短篇〉に、主人公〈彼〉が〈ナシヨナル読本〉を読む場面を書き込んでいたという。幼年時代の英語学習がもたらすのは、渡航可能な土地としてのアメリカ像ではなく、英語教科書の延長線上に仮構される観念的な異国(言語としての異国)である。「地球儀」が描いていたのは、理想化された父親像そのものではなく、観念的な異国において父と邂逅するイメージだったのである。
第三章「眼差しとしての共同性―「鱗雲」論―」では、百足凧や凧揚げが〈風習〉とされることの意味に注目し、共同体との絆を結び直そうとする〈私〉の企図を分析した。百足凧の製作は難航し、〈私〉は共同体からの疎隔の意識を募らせることになるが、そうした意識は次第に、憧れの眼差しという共同性に読み換えられていくことになる。糸の切れた凧に追いすがろうとする群衆の眼や、百足凧への執心を抱き続けていたらしい青野家の主人の眼を、〈私〉は自身との紐帯として見出していく。実体的な共同体を観念的な共同性に転換していく「鱗雲」の表現構造には、初期私小説からの脱却と、幻想的小説への移行を読み取ることができるのである。
第二部に当たる第四章から第六章では、幻想的小説の特質を探るために、初期私小説と幻想的小説を通底している問題意識や、外国文学受容の変遷などの観点から考察を試みた。
第四章「牧野信一作品における詩―初期私小説から幻想的小説へ―」では、牧野作品にしばしば見受けられる詩への言及に注目し、初期私小説から幻想的小説への変遷プロセスの内実を明らかにすること目指した。牧野は詩を自己語りの理想的形態と捉えていたが、こうした理解には同時代の散文芸術論争や心境小説論争からの影響が窺える。詩から疎外される表現者の葛藤に焦点を当てていた初期私小説に対し、そうした葛藤を理念に想到するための要件としたのが幻想的小説である。詩(詩人)の位置付けをめぐるこうした逆説は、瓦解することで現実を蚕食していく夢の特質と結び付くことで、幻想的小説の根幹に組み込まれることになるのである。
第五章「死者を幻視すること―「吊籠と月光と」論―」では、〈僕〉が死者を幻視するまでのプロセスを、帰属先を特定できない「声」の生成や、身振り(演技)に刺激された自己増殖の感覚から分析した。「吊籠と月光と」における死者は、幻想文学(幻想小説)でその登場が示唆されるような超自然的存在ではない。あくまでも〈僕〉の言語運用や身体的動作に起因する錯覚、自身の声や身振りが他者に伝播していくような感覚の結果として描かれている。そして、死者が幻視されるそうしたプロセスにこそ、自他の境界を突き崩していく幻想的小説固有の方法が集約されているのである。
第六章「牧野信一の「ファウスト」受容」では、町井正路の翻訳書に依拠した「ファウスト」の受容を通じて、身体を軸とする幻想的表現の新たな方向性が打ち出されていたことを明らかにした。こうした方向性には、「ファウスト」を身体的レベルで深く内面化していくことだけでなく、ゲーテや「ファウスト」との差異を顕在化させることも含まれている。ただし、歌との断絶という形であらわれるそうした差異を、牧野は夢を描くための方法に昇華していった。詩や歌の享受の限界を読み換えていく方法は、「ファウスト」由来の表現が認められる作品だけでなく、牧野の幻想的表現の深化に寄与することになったのである。
第三部に当たる第七章から第九章では、昭和六年から七年という幻想的作風の円熟期に発表された作品を取り上げ、幻想的小説の射程を明らかにすることを試みた。
第七章「「ドン・キホーテ」受容と詩―「ゼーロン」論―」では、ドン・キホーテとの類似性が指摘されていた〈私〉の振る舞いに、とりとめのない自己の生を芸術的形式に昇華しようとする企図があることを指摘した。知人宅を目指す道中、〈私〉は自らの感覚や記憶を歌にしようと試みるが、その試みは駄馬ゼーロンの反抗のためにしばしば途絶する。歌の朗唱が頓挫し続けることの意味はしかし、「ゼーロン」後半部で大きく転換する。歌が未完であることの焦慮を、ありうべき詩を想起するための要件と見なすことで、〈私〉はツルゲーネフの「ハムレットとドン・キホーテ」で示されていたような理想主義的なドン・キホーテ像を体現することになるのである。
第八章「原始イメージの批評性―「バラルダ物語」論―」では、発表当時、時代離れした作風を批判されていた「バラルダ物語」を取り上げる。時代離れという評価は、幻想的小説一般に与えられてきたが、「バラルダ物語」はそうした印象を意図的に作り上げていた。こうした作品の企図を集約しているのが、原始イメージの展開である。「バラルダ物語」では、特定の時代や国に帰属させられない抽象的かつ空想的な原始イメージが、同時代の文化的事象や古典演劇論を踏まえつつ展開されている。そして、こうした原始イメージの展開には、近代人の合理的精神や社会的意識の反映を期待する同時代の文学的傾向への批判が底流しているのである。
第九章「ソフィストの語り―「酒盗人」論」では、さまざまな典拠由来の表現を継ぎはぎし、言葉の脈絡を生み出していくソフィスト的な語りについて考察した。西洋の文物を理想的なものとして位置付ける幻想的小説の表現構造は、プラトンやストア派などの古代ギリシャ哲学、特にイデアという概念を軸に考察が進められてきた。しかし「酒盗人」において〈私〉が自認するのは、哲学者からは偽の知者とされ、虚偽や詭弁と結び付けられていたソフィストである。〈私〉のソフィスト的な語りは、異質な物事を結び合わせるだけでなく、〈私〉のものであるはずの夢を(〈私〉を含む)誰かの夢に転換していく機能を果たしているのである。
本研究は、全三部九章で構成されている。第一部に当たる第一章から第三章では、「ギリシャ牧野」以前の作品を取り上げ、幻想的表現が生み出されるにいたる経緯を検討した。
第一章「童話の方法―「嘆きの孔雀」「青白き公園」を中心に―」では、牧野の童話の展開を概括するとともに、読者と作者の関係性を規定し直そうとする「嘆きの孔雀」「青白き公園」の企図を明らかにした。先行研究の蓄積は少ないものの、牧野の童話には、読者と作者の関係性をいかに規定するかという表現上の葛藤が刻み込まれている。特に「青白き公園」には、「私」という一人称で結ばれながら「私」ではない「私」を照らし出していく表現構造が認められる。「私」の複数性を手がかりとして、夢という領域を析出していくこうした表現構造は、後の幻想的小説を予行するものであり、牧野の創作活動における童話の重要性を証し立てているといえよう。
第二章「英語教科書という言語空間―「地球儀」論―」では、父の理想化されたイメージを描いた作品とされる「地球儀」を取り上げ、〈一つの短篇〉における理想の内実を分析した。小説家である〈私〉は過去を回想した〈一つの短篇〉に、主人公〈彼〉が〈ナシヨナル読本〉を読む場面を書き込んでいたという。幼年時代の英語学習がもたらすのは、渡航可能な土地としてのアメリカ像ではなく、英語教科書の延長線上に仮構される観念的な異国(言語としての異国)である。「地球儀」が描いていたのは、理想化された父親像そのものではなく、観念的な異国において父と邂逅するイメージだったのである。
第三章「眼差しとしての共同性―「鱗雲」論―」では、百足凧や凧揚げが〈風習〉とされることの意味に注目し、共同体との絆を結び直そうとする〈私〉の企図を分析した。百足凧の製作は難航し、〈私〉は共同体からの疎隔の意識を募らせることになるが、そうした意識は次第に、憧れの眼差しという共同性に読み換えられていくことになる。糸の切れた凧に追いすがろうとする群衆の眼や、百足凧への執心を抱き続けていたらしい青野家の主人の眼を、〈私〉は自身との紐帯として見出していく。実体的な共同体を観念的な共同性に転換していく「鱗雲」の表現構造には、初期私小説からの脱却と、幻想的小説への移行を読み取ることができるのである。
第二部に当たる第四章から第六章では、幻想的小説の特質を探るために、初期私小説と幻想的小説を通底している問題意識や、外国文学受容の変遷などの観点から考察を試みた。
第四章「牧野信一作品における詩―初期私小説から幻想的小説へ―」では、牧野作品にしばしば見受けられる詩への言及に注目し、初期私小説から幻想的小説への変遷プロセスの内実を明らかにすること目指した。牧野は詩を自己語りの理想的形態と捉えていたが、こうした理解には同時代の散文芸術論争や心境小説論争からの影響が窺える。詩から疎外される表現者の葛藤に焦点を当てていた初期私小説に対し、そうした葛藤を理念に想到するための要件としたのが幻想的小説である。詩(詩人)の位置付けをめぐるこうした逆説は、瓦解することで現実を蚕食していく夢の特質と結び付くことで、幻想的小説の根幹に組み込まれることになるのである。
第五章「死者を幻視すること―「吊籠と月光と」論―」では、〈僕〉が死者を幻視するまでのプロセスを、帰属先を特定できない「声」の生成や、身振り(演技)に刺激された自己増殖の感覚から分析した。「吊籠と月光と」における死者は、幻想文学(幻想小説)でその登場が示唆されるような超自然的存在ではない。あくまでも〈僕〉の言語運用や身体的動作に起因する錯覚、自身の声や身振りが他者に伝播していくような感覚の結果として描かれている。そして、死者が幻視されるそうしたプロセスにこそ、自他の境界を突き崩していく幻想的小説固有の方法が集約されているのである。
第六章「牧野信一の「ファウスト」受容」では、町井正路の翻訳書に依拠した「ファウスト」の受容を通じて、身体を軸とする幻想的表現の新たな方向性が打ち出されていたことを明らかにした。こうした方向性には、「ファウスト」を身体的レベルで深く内面化していくことだけでなく、ゲーテや「ファウスト」との差異を顕在化させることも含まれている。ただし、歌との断絶という形であらわれるそうした差異を、牧野は夢を描くための方法に昇華していった。詩や歌の享受の限界を読み換えていく方法は、「ファウスト」由来の表現が認められる作品だけでなく、牧野の幻想的表現の深化に寄与することになったのである。
第三部に当たる第七章から第九章では、昭和六年から七年という幻想的作風の円熟期に発表された作品を取り上げ、幻想的小説の射程を明らかにすることを試みた。
第七章「「ドン・キホーテ」受容と詩―「ゼーロン」論―」では、ドン・キホーテとの類似性が指摘されていた〈私〉の振る舞いに、とりとめのない自己の生を芸術的形式に昇華しようとする企図があることを指摘した。知人宅を目指す道中、〈私〉は自らの感覚や記憶を歌にしようと試みるが、その試みは駄馬ゼーロンの反抗のためにしばしば途絶する。歌の朗唱が頓挫し続けることの意味はしかし、「ゼーロン」後半部で大きく転換する。歌が未完であることの焦慮を、ありうべき詩を想起するための要件と見なすことで、〈私〉はツルゲーネフの「ハムレットとドン・キホーテ」で示されていたような理想主義的なドン・キホーテ像を体現することになるのである。
第八章「原始イメージの批評性―「バラルダ物語」論―」では、発表当時、時代離れした作風を批判されていた「バラルダ物語」を取り上げる。時代離れという評価は、幻想的小説一般に与えられてきたが、「バラルダ物語」はそうした印象を意図的に作り上げていた。こうした作品の企図を集約しているのが、原始イメージの展開である。「バラルダ物語」では、特定の時代や国に帰属させられない抽象的かつ空想的な原始イメージが、同時代の文化的事象や古典演劇論を踏まえつつ展開されている。そして、こうした原始イメージの展開には、近代人の合理的精神や社会的意識の反映を期待する同時代の文学的傾向への批判が底流しているのである。
第九章「ソフィストの語り―「酒盗人」論」では、さまざまな典拠由来の表現を継ぎはぎし、言葉の脈絡を生み出していくソフィスト的な語りについて考察した。西洋の文物を理想的なものとして位置付ける幻想的小説の表現構造は、プラトンやストア派などの古代ギリシャ哲学、特にイデアという概念を軸に考察が進められてきた。しかし「酒盗人」において〈私〉が自認するのは、哲学者からは偽の知者とされ、虚偽や詭弁と結び付けられていたソフィストである。〈私〉のソフィスト的な語りは、異質な物事を結び合わせるだけでなく、〈私〉のものであるはずの夢を(〈私〉を含む)誰かの夢に転換していく機能を果たしているのである。