本論文「江戸後期の宋代史受容――水戸学派を中心に」は、十八世紀末から明治維新にかけての日本、すなわち江戸後期(一七八七~一八六八)という危機の時代において、水戸学派を中心とした知識人たちが中国の宋代史をどのように引照し、山積する政治的・思想的課題に対処しようとしたかを思想史の観点から解明するものである。江戸後期は、ロシアの南下やアヘン戦争といった対外危機(外患)が顕在化すると同時に、徳川体制の制度的疲弊(内憂)が深刻化した時期であった。こうした状況のもと、宋代の歴史は単なる知識ではなく、むしろ当世が直面していた課題を分析し、今後の行動の指針を導き出すための切実な参照枠として機能していた。
 水戸学派(『大日本史』編纂のために置かれた彰考館や、藩校である弘道館の運営に携わった水戸徳川家の家臣の総称)をはじめとする江戸後期の知識人たちは、しばしば当世の状況を宋代の中国に重ね合わせて捉えていた。しかし、歴史を活用する営みは、過去の事例をそのまま現在に当てはめることではなかった。そこには、宋代と当世との差異をどのように処理するか、どこまで両者を重ね合わせ、どこから切り離すかという、思想上の判断が分かちがたく伴っていた。本論文では、宋代史を引照する過程において生じた論理の飛躍や、その飛躍を解決するために生まれた種々の葛藤や努力に照準を合わせる。なお、宋代史は江戸後期において、単に外敵を却けるという攘夷の目的において引照されただけでなく、激しさを増しつつある党派争いへの解決法を探るため、また信憑性が低下しつつあった天人相関論を擁護するためにも引照されていた。その際、攘夷という従来注目されてきた文脈に囚われず、宋代史受容が、江戸後期における党争論や天人関係論の深化に寄与した側面も解明する。
 本論文は、概ね時系列に沿って構成された本文五章と、附録二章からなる。以下、各章の概要を記す。
 第一章「平山行蔵の『復讐』と『攘夷』――江戸後期における宋代史引照の極北」では、兵学者である平山行蔵による南宋史の引照のあり方を論じた。復讐への強い情熱は、平山の思想家としての際立つ特徴である。彼は一方では、南宋の攘夷論を極限まで先鋭化させ、南宋はたとえ国が滅びようとも靖康の変で受けた恥を雪ぐために金王朝に対して即時に復讐を果たすべきだったと強く主張した。その一方で平山は、南宋の主戦派もしばしば用いた『春秋公羊伝』に由来する「九世復讐説」を同時に支持した。ただし、その論証の仕方は特異であり、復讐の時限問題を喪服の期間と切り離し、代わりに「同姓不婚」の論理、すなわち世代を超えて不変なはずである血族の同一性に結びつけるものであった。これにより、復讐の義務は時間の経過によって減衰することのない、絶対的なものとして再定義された。翻って、文化年間の日露紛争に際し、平山は徳川公儀の家臣がロシアに殺害されたことを為政者自身の恥と見なし、妥協を許さない即時復讐を唱えた。しかし、南宋の主戦派が好んで引照する九世復讐説を、平山自身が引照することはなかった。その理由は、当世の日本には、皇帝が捕らえられるといった靖康の変に相当する深刻な事由が見当たらないためであったと考えられる。平山の南宋史引照は、歴史を当世の状況に密着させることが、かえって引照の選択肢を狭める事例として位置づけられる。
 第二章「隔絶すれども棄絶せず――會澤正志齋における宋代史引照の転換と背景」では、水戸学の重鎮として知られる會澤正志齋における宋代史引照の仕方の転換やその原因を分析した。正志齋は当初、南宋の和議を、目先の安寧を求める一時しのぎの典型として批判し、宋代史を反面教師として用いていた。しかし、対外危機の深刻化や日本が蒙りかねない不利益を認識するに至った晩年の『時務策』では、その主張に変化が見られる。宋代の状況と当世の状況をあえて切り離すことで、和親通商を容認する姿勢へと転換したのである。この転換の背景には、西洋の脅威に対する冷徹な認識だけでなく、宋代史に対する独自の引照の仕方も存在したと考えられる。すなわち、正志齋をはじめ、水戸学派はもとより宋代史を攘夷の気運を高めるために引照しており、復讐という義務が生じる根拠までは読み取っていなかった。そのため、川路聖謨や古賀侗庵らは恐らく水戸学派を念頭に置きながら、「当世には西洋に対して復讐すべき事由がない」ことを理由に攘夷論を批判したものの、これは水戸学派の論理を切り崩せるものではなかった。
 第三章「豊田天功『精忠新録』の編集過程――宋代史の編集をめぐる葛藤」では、豊田天功が南宋の主戦派である岳飛にまつわる伝承を『精忠新録』として編纂した過程を辿った。活用する資料は、茨城県立歴史館所蔵の高橋清賀子家文書などに伝存する書簡類である。天功は青山延光や藤田東湖の協力を受けつつ、資料の信憑性を重んじて虚構の混じった小説的な史料を排除するという原則を抱く一方、読者の気を奮い立たせる「振気」を最大の目的として編纂に当たった。編纂過程の復元によって、この両立を図るために凝らされた工夫に加え、宋の高宗に対する激越な批判の展開と、その制御の過程が浮かび上がった。後者は、当時の水戸徳川家当主への批判と受け取られる懸念があったため、身の危険を招きかねない試みであった。このように、本章は、岳飛事跡の蒐集やその考証、さらには高宗批判をめぐる議論まで、様々な編集上の工夫が水戸学派の連携のもとで凝らされた事実を示した。水戸学派は、ただ単に宋代史を受動的に受容していたわけではなく、自ら戦略的な歴史編纂を試みていたことが解明された。
 第四章「『封建世界』における宋代党争論受容――會澤正志齋・国友善庵・藤田東湖の分岐点」では、宋代の党争史や党争論をめぐり、水戸学派に連なる三人がいかに異なる受容の仕方を示したかを分析した。水戸徳川家内部の政争が激化する中、正志齋や善庵は、党派性に肯定的な欧陽脩や朱熹の党争論には与せず、「君子党ならず」という党派性を認めない宋以前の伝統的な党争観を堅持した。他方、両人はともに君子として自任しながら、小人との調停を否定し、「正/邪」に対する君主の判断力の重要性を宋代の党争史から導き出した。正志齋に比べ、善庵と東湖の特徴は、中国の「郡県」制と日本の「封建」制との構造的な相違に着目した点にある。彼らは、世襲に基づく「封建」という日本の国制では、一度党争によって生じた恨みは世代を超えて継承され、家臣団の分裂を招く危険があると指摘した。ただし、その解決策として、善庵は正志齋と同様に門閥教育に期待したのに対して、東湖は「封建」という国制を家臣に強く意識させようとした。こうした東湖の姿勢の背景には、家臣団の内紛が徳川公儀の介入を招くことへの強い危機感があった。本章では、こうした東湖の議論を「儒教の日本化」の一例としてではなく、二千年来の「郡県世界」が抱えてきた宿痾が「封建世界」へ波及することに対する、切実な抵抗の試みとして位置づけた。
 第五章「『丙丁炯戒録』の成立とその波紋――江戸後期の天人関係論において」では、宋代に起源を持つ「丙丁災異説」の受容を扱った。江戸後期の知識人にとって、丙丁災異説は彼らが漠然として抱いている危機感に裏付けを与えるものとして理解された。こうした動向を背景に、塩谷宕陰は日本の丙午・丁未の年に起きた災異を網羅した『丙丁炯戒録』を編纂し、丙丁災異説をもって為政者に「恐懼修省」を促そうとした。他方、天人相関論が洋学の影響によって揺らいでいることを受け、宕陰は『丙丁炯戒録』において、その擁護を試みた。宕陰が展開した議論や、それに対する大橋訥庵の反駁は、奇しくも天人相関論を擁護する方途における二つの極致を示している。本章では、それらの思想史的な価値を発掘した。以上、本論文の第四章と第五章が解明したのは、宋代史受容が江戸後期における党争論や天人関係論を深化させる触媒として機能していた、ということであった。
 附録一「『丙丁録』成立・献上・流伝攷」では、同じく丙午・丁未の年の日本における災異を集成した『丙丁録』を対象とし、その成立背景から徳川将軍家への献上に至る経緯、さらには流伝の状況について、文書資料に基づき考証を行った。附録二「「除奸」と「殉難」の間———豊田天功と吉田松陰における楊継盛受容」では、明の楊継盛の事跡に対して、豊田天功や吉田松陰がいかに対照的な受容の仕方を示したかを解明した。天功は、歴史叙述によって政敵の邪悪さを後世に伝えることを強く望んでいた。そのため、「徹底的な除奸によって殉難する」という楊継盛の事跡を熟知していながらも、天功は「除奸すれども殉難せず」として、忠義を尽くす道として歴史叙述を選んだ。これに対して、吉田松陰をはじめとするいわゆる尊攘志士は、楊継盛の事跡を思念しながら、過激な政治活動によって殉難することへと積極的に邁進した。
 終章では、江戸後期の宋代史受容の特徴を総括し、明治以降の展望を述べた。一部の例外はあるにせよ、宋代史は、近代日本において積極的に引照されなくなったと考えられる。このように、本論文が浮かび上がらせたのは、江戸後期において、当世の状況をどの程度宋代に重ね合わせるかを模索するなかで得られた、数々の貴重な省察である。宋代史は、固定された前例の集積として読まれたのではなく、危機の時代における状況認識や政治判断のために絶えず読み替えられる思想資源であった。本論文は、思想資源としての宋代史が活用される具体的な過程を跡づけることによって、江戸後期における歴史の活用のあり方を思想史の観点から描き出したものである。