本論文は、朝鮮時代以来の海面における慣習的な権利・権益が、大韓帝国期を経て日本統治期に至るまでにどのように把握され、変遷していったのかを明らかにしたものである。
先行研究でも、耕作地の所有権に関する議論は進められてきた。すなわち、朝鮮時代にも耕作地の私的所有は発達しており、一部所有権者があいまいな土地を除けば、日本統治期にも民有地などの所有権が認められたというものである。
海面の場合は明確な領域を設定することが困難であるうえ、朝鮮時代には「山林川澤、与民共治」という理念が掲げられており、一物一権的な近代的所有権の概念には当てはまりにくい性質を持っていた。他方で、16世紀末の壬辰戦争以降に本格化した海面折受により、宮房や官衙が漁場をはじめとした海面を実質的に私有する動きが生じた。また、私人間での売買文記も残されており、その性格はどうであれ何らかの権利・権益が生じていたことは間違いない。そして、海面は制度的には不十分ながらも権利・権益が存在するほど利益を生み出すことができたため、非常時には国家財源として期待されるなど、国家政策が反映されやすいものであった。
そのため、本研究では朝鮮時代における海面の権利・権益の実態を明らかにしたうえで、大韓帝国期・日本統治期に至るまでの変化を具体的かつ通時的に検討し、国家政策の変化やそれに伴う地域社会の変容を論じた。そして、そうした変化を読み取ることのできる事例として慶尚南道沿海部における漁業と忠清道泰安・瑞山地域における塩業に注目した。
漁業については、18世紀半ばの均役法の制定により全国の漁税徴収を原則的に均役庁が担当するようになったが、慶尚南道沿海部など地域の実態を見ていくと必ずしも制度通りに進まなかった。同地は水軍の要である統営が置かれ、漁場の利益を主要財源の一つとしていたため、18世紀半ばの均役法により後も、さまざまな形で漁場にかかわる利益を得ることを許されていた。大きく分けると、進上のための漁条・防簾、漁税1万両の分給、右沿漁税のようになるが、進上という明確な用途がある場合には少なくともその存在が疑問視されることはなかった。他方で、後者二つについてはその管理方法はもちろん、存在自体について疑問が投げかけられることもあり、権利・権益として明確なものと認知される可能性が低かった。もっとも、19世紀末に統営が廃止されるまで、こうした権利・権益の在り方が問題となることはほとんどなかった。それは、朝鮮時代に求められたのは、あくまでどの機関が税を徴収し、それがどこの財源となるのか、という観点しか国家的な関心がなかったからである。そのため、規則として定められるのも徴税基準や徴税方法であった。また、漁場における権利・権益が沿海部の人々にいかに大きなものと認識されようと、それを獲得する方法に執籌(抽籤)が用いられていたことから、いまだに個人の権利・権益として発展する段階にはなかったことが推測される。
このように、朝鮮時代には国家レベルでは未成熟ながらも、地域レベルでは次第に慣習的な権利・権益の存在が確認できるようになってきた。他方で、19世紀末にこれまで慶尚南道沿海部の漁税を管理してきた統営が廃止されると、管轄機関が不明確になりさまざまな混乱が生じる。特に、大韓帝国期に入ると皇室への財源集中が進められ、その過程で漁税を含む雑税を皇室の財源にしようとする動きが強まる。そして、大韓帝国期に皇室の財政機関から任命された金鳳洙は、地元漁民らの主張する慣習的な権利・権益(民私条)を否定し、新たに漁業に関する権利・権益を設けようとしたことで、彼らと対立が生じる。それに対し、地元漁民らは長年漁業を行ってきた慣習や以前から伝わる売買文記等を根拠として、自らが漁業を行う場所を民私条と認定してもらえるように努めた。もっとも、売買文記もあくまで私人間でなされたものであるため、慣習的な権利・権益は法認されていなかったともいえる。そのため、両者の争いは容易に解決することがなく、それに対する国王の裁定も必ずしも一貫性のあるものではなかった。このような朝鮮国内における漁場(の利益)に対する権利・権益をめぐる争いは、日本人の登場により状況が変化する。すなわち、日本人実業家香椎源太郎が、義親王宮(李公家)が管轄する慶尚南道の漁場を借用することに成功し、慶尚南道沿海部に進出し、漁場を管理するようになったのである。当初は進上条といわれる限定された漁場のみを管轄するはずだった香椎は、次第にその範囲を広げ、民私条以外の漁場をすべて管轄下に置こうと試みた。これは、同地の官有条・民私条の両方から漁場の徴税を行おうとしていた金鳳洙と正面から利害が衝突する問題だった。結果として、民私条には地元漁民の権利が認められ、進上条と官有条では香椎の権利が認められた。そのため、皇室の財源拡大政策に伴って登場した金鳳洙は何らの持ち分も得られずに日本統治期を迎えることになった。
上記のような大韓帝国期における漁税徴収の混乱を経て、日本統治期には漁場の権利・権益が民私条には認められたために、一度は落ち着くかに見えた。しかし、香椎による漁場の管理は、それまで明確な権利・権益は所持しないながらも慣習的に漁業を行ってきた沿岸部の人々にとって必ずしも好ましいものとはいえず、また漁獲量の急増などに伴って状況も変化してきた。そのため、1920年代には地元漁民らによって、漁場の権利・権益を得ようとする運動が展開された。もっとも、地元漁民といえども、香椎の来韓以前から明確な権利・権益を有していたわけではなかったため、李公家から漁場を借用しているに過ぎない香椎を批判することはできても、自らの権利・権益を主張することは困難だった。また、それまで主流を占めていた伝統的な定置性漁具による漁業から、1920年代以降には漁船の動力化などにより沖合漁業に次第に移行する流れがあり、それに伴って漁業権の性格も変化していた。そのため、そもそも朝鮮時代・大韓帝国期まで遡って自らの権利・権益を主張することは困難であった。そうした中で、自らを「縁故者」と主張したのは、大韓帝国期に徴税官のような性格を持ってこの地に来ていた金鳳洙等に限られ、彼にしてもその縁故が認められることはなかった。
塩田も漁場と同様に、朝鮮時代にはそこに法的な権利・権益を認める規則は存在せず、売買文記も基本的には私人間に交わされるものに限られていた。しかし、製塩の利益は一国の経費を賄うといわれるほど、価値が高いと考えられており、16世紀末以降国家財政が厳しくなると国家の財源にしようとする動きが強まる。そして、16世紀末から17世紀半ばにかけてさまざまな制度が施行された。これら制度は地域を限定して施行されることが多かったが、その中でも注目されたのは忠清道の泰安・瑞山地域である。同地域には製塩に適した海岸と近くには燃料となる松も多く生えており、さらには販売路も確保しやすい地域と認識されていた。そのため、一時は国家財政にも寄与するところがあった。
しかし、当時の製塩業においては燃料の確保がもっとも大きな問題の一つとなっており、製塩への松の使用が制限されるようになると、泰安・瑞山地域の製塩業も縮小していった。このように、製塩においては製塩場所だけでなく、その他さまざまな条件が整わなければならなかったため、製塩場所に何らかの権利・権益が発生する可能性はそれほど高くなかったといえる。このような中で、開港期には泰安の李氏が限られた資本で多くの人々を動員し、製塩業を成功させ富を築いたとされる。しかし、泰安の李氏が代々塩業を行ってきたわけではなかったことからも、製塩業を成功させた人物でさえも、塩田に対する権利・権益は一時的なものであり、それは先祖から譲り受けたものでもなければ、後代に引き継がれるものですらなかったようである。
もっとも、塩田における権利・権益に近しいものは朝鮮時代に存在していた。すなわち、国家の管理が行き届きにくい安眠島のような島においては、同島における収税を行っていた宮房が、製塩による利益も自らの管理下に置くような事例がみられたのである。ただし、こうした事例は明文化されていたわけではなかったため、大韓帝国期に管轄機関の変動が頻繁に起こるようになると、徴税機関や徴税額が定まらず、混乱が生じる。
開港期から日本統治期に至る過程では、中国などからの塩の輸入、官営事業の拡大などにより、泰安・瑞山地域でも行われていた伝統的な製塩は相対的に価値が低下することになった。そして、日本統治期にも製塩地が頻繁に移動するなど、製塩場所に対する権利・権益は近代に至っても一物一権的な近代的所有権とは距離があったといえよう。
以上のように、16世紀末以降、海面の利益にかかわる価値が財源として注目されるなど、何らかの権利・権益が生じる状況にはあった。しかし、そのほとんどは私人間で生じ、国家的に認められない慣習的なものにとどまった。そのため、大韓帝国期以降に管轄機関が変動すると明確な権利・権益を主張できない事例が多く、地域では混乱が生じた。そのため、日本統治期に近代的制度が確立すると、そうした混乱が終息する方向に向かうなど、少なからぬ意義があった。しかし、明文化されていない慣習的な権利・権益まで十分に配慮できていたとは言い難く、日本統治期には漁民らの反発も少なくなかった。
今回本論文で取り上げることのできた事例は朝鮮における近代化の過程を示す一部に過ぎない。しかし、具体的な事例をもとに通時的に説明することで、その一側面を明らかにすることには成果があったといえるだろう。
先行研究でも、耕作地の所有権に関する議論は進められてきた。すなわち、朝鮮時代にも耕作地の私的所有は発達しており、一部所有権者があいまいな土地を除けば、日本統治期にも民有地などの所有権が認められたというものである。
海面の場合は明確な領域を設定することが困難であるうえ、朝鮮時代には「山林川澤、与民共治」という理念が掲げられており、一物一権的な近代的所有権の概念には当てはまりにくい性質を持っていた。他方で、16世紀末の壬辰戦争以降に本格化した海面折受により、宮房や官衙が漁場をはじめとした海面を実質的に私有する動きが生じた。また、私人間での売買文記も残されており、その性格はどうであれ何らかの権利・権益が生じていたことは間違いない。そして、海面は制度的には不十分ながらも権利・権益が存在するほど利益を生み出すことができたため、非常時には国家財源として期待されるなど、国家政策が反映されやすいものであった。
そのため、本研究では朝鮮時代における海面の権利・権益の実態を明らかにしたうえで、大韓帝国期・日本統治期に至るまでの変化を具体的かつ通時的に検討し、国家政策の変化やそれに伴う地域社会の変容を論じた。そして、そうした変化を読み取ることのできる事例として慶尚南道沿海部における漁業と忠清道泰安・瑞山地域における塩業に注目した。
漁業については、18世紀半ばの均役法の制定により全国の漁税徴収を原則的に均役庁が担当するようになったが、慶尚南道沿海部など地域の実態を見ていくと必ずしも制度通りに進まなかった。同地は水軍の要である統営が置かれ、漁場の利益を主要財源の一つとしていたため、18世紀半ばの均役法により後も、さまざまな形で漁場にかかわる利益を得ることを許されていた。大きく分けると、進上のための漁条・防簾、漁税1万両の分給、右沿漁税のようになるが、進上という明確な用途がある場合には少なくともその存在が疑問視されることはなかった。他方で、後者二つについてはその管理方法はもちろん、存在自体について疑問が投げかけられることもあり、権利・権益として明確なものと認知される可能性が低かった。もっとも、19世紀末に統営が廃止されるまで、こうした権利・権益の在り方が問題となることはほとんどなかった。それは、朝鮮時代に求められたのは、あくまでどの機関が税を徴収し、それがどこの財源となるのか、という観点しか国家的な関心がなかったからである。そのため、規則として定められるのも徴税基準や徴税方法であった。また、漁場における権利・権益が沿海部の人々にいかに大きなものと認識されようと、それを獲得する方法に執籌(抽籤)が用いられていたことから、いまだに個人の権利・権益として発展する段階にはなかったことが推測される。
このように、朝鮮時代には国家レベルでは未成熟ながらも、地域レベルでは次第に慣習的な権利・権益の存在が確認できるようになってきた。他方で、19世紀末にこれまで慶尚南道沿海部の漁税を管理してきた統営が廃止されると、管轄機関が不明確になりさまざまな混乱が生じる。特に、大韓帝国期に入ると皇室への財源集中が進められ、その過程で漁税を含む雑税を皇室の財源にしようとする動きが強まる。そして、大韓帝国期に皇室の財政機関から任命された金鳳洙は、地元漁民らの主張する慣習的な権利・権益(民私条)を否定し、新たに漁業に関する権利・権益を設けようとしたことで、彼らと対立が生じる。それに対し、地元漁民らは長年漁業を行ってきた慣習や以前から伝わる売買文記等を根拠として、自らが漁業を行う場所を民私条と認定してもらえるように努めた。もっとも、売買文記もあくまで私人間でなされたものであるため、慣習的な権利・権益は法認されていなかったともいえる。そのため、両者の争いは容易に解決することがなく、それに対する国王の裁定も必ずしも一貫性のあるものではなかった。このような朝鮮国内における漁場(の利益)に対する権利・権益をめぐる争いは、日本人の登場により状況が変化する。すなわち、日本人実業家香椎源太郎が、義親王宮(李公家)が管轄する慶尚南道の漁場を借用することに成功し、慶尚南道沿海部に進出し、漁場を管理するようになったのである。当初は進上条といわれる限定された漁場のみを管轄するはずだった香椎は、次第にその範囲を広げ、民私条以外の漁場をすべて管轄下に置こうと試みた。これは、同地の官有条・民私条の両方から漁場の徴税を行おうとしていた金鳳洙と正面から利害が衝突する問題だった。結果として、民私条には地元漁民の権利が認められ、進上条と官有条では香椎の権利が認められた。そのため、皇室の財源拡大政策に伴って登場した金鳳洙は何らの持ち分も得られずに日本統治期を迎えることになった。
上記のような大韓帝国期における漁税徴収の混乱を経て、日本統治期には漁場の権利・権益が民私条には認められたために、一度は落ち着くかに見えた。しかし、香椎による漁場の管理は、それまで明確な権利・権益は所持しないながらも慣習的に漁業を行ってきた沿岸部の人々にとって必ずしも好ましいものとはいえず、また漁獲量の急増などに伴って状況も変化してきた。そのため、1920年代には地元漁民らによって、漁場の権利・権益を得ようとする運動が展開された。もっとも、地元漁民といえども、香椎の来韓以前から明確な権利・権益を有していたわけではなかったため、李公家から漁場を借用しているに過ぎない香椎を批判することはできても、自らの権利・権益を主張することは困難だった。また、それまで主流を占めていた伝統的な定置性漁具による漁業から、1920年代以降には漁船の動力化などにより沖合漁業に次第に移行する流れがあり、それに伴って漁業権の性格も変化していた。そのため、そもそも朝鮮時代・大韓帝国期まで遡って自らの権利・権益を主張することは困難であった。そうした中で、自らを「縁故者」と主張したのは、大韓帝国期に徴税官のような性格を持ってこの地に来ていた金鳳洙等に限られ、彼にしてもその縁故が認められることはなかった。
塩田も漁場と同様に、朝鮮時代にはそこに法的な権利・権益を認める規則は存在せず、売買文記も基本的には私人間に交わされるものに限られていた。しかし、製塩の利益は一国の経費を賄うといわれるほど、価値が高いと考えられており、16世紀末以降国家財政が厳しくなると国家の財源にしようとする動きが強まる。そして、16世紀末から17世紀半ばにかけてさまざまな制度が施行された。これら制度は地域を限定して施行されることが多かったが、その中でも注目されたのは忠清道の泰安・瑞山地域である。同地域には製塩に適した海岸と近くには燃料となる松も多く生えており、さらには販売路も確保しやすい地域と認識されていた。そのため、一時は国家財政にも寄与するところがあった。
しかし、当時の製塩業においては燃料の確保がもっとも大きな問題の一つとなっており、製塩への松の使用が制限されるようになると、泰安・瑞山地域の製塩業も縮小していった。このように、製塩においては製塩場所だけでなく、その他さまざまな条件が整わなければならなかったため、製塩場所に何らかの権利・権益が発生する可能性はそれほど高くなかったといえる。このような中で、開港期には泰安の李氏が限られた資本で多くの人々を動員し、製塩業を成功させ富を築いたとされる。しかし、泰安の李氏が代々塩業を行ってきたわけではなかったことからも、製塩業を成功させた人物でさえも、塩田に対する権利・権益は一時的なものであり、それは先祖から譲り受けたものでもなければ、後代に引き継がれるものですらなかったようである。
もっとも、塩田における権利・権益に近しいものは朝鮮時代に存在していた。すなわち、国家の管理が行き届きにくい安眠島のような島においては、同島における収税を行っていた宮房が、製塩による利益も自らの管理下に置くような事例がみられたのである。ただし、こうした事例は明文化されていたわけではなかったため、大韓帝国期に管轄機関の変動が頻繁に起こるようになると、徴税機関や徴税額が定まらず、混乱が生じる。
開港期から日本統治期に至る過程では、中国などからの塩の輸入、官営事業の拡大などにより、泰安・瑞山地域でも行われていた伝統的な製塩は相対的に価値が低下することになった。そして、日本統治期にも製塩地が頻繁に移動するなど、製塩場所に対する権利・権益は近代に至っても一物一権的な近代的所有権とは距離があったといえよう。
以上のように、16世紀末以降、海面の利益にかかわる価値が財源として注目されるなど、何らかの権利・権益が生じる状況にはあった。しかし、そのほとんどは私人間で生じ、国家的に認められない慣習的なものにとどまった。そのため、大韓帝国期以降に管轄機関が変動すると明確な権利・権益を主張できない事例が多く、地域では混乱が生じた。そのため、日本統治期に近代的制度が確立すると、そうした混乱が終息する方向に向かうなど、少なからぬ意義があった。しかし、明文化されていない慣習的な権利・権益まで十分に配慮できていたとは言い難く、日本統治期には漁民らの反発も少なくなかった。
今回本論文で取り上げることのできた事例は朝鮮における近代化の過程を示す一部に過ぎない。しかし、具体的な事例をもとに通時的に説明することで、その一側面を明らかにすることには成果があったといえるだろう。