本稿は、現代の日本の畜産業において重要な生産施設である「牧場」が、明治期の日本において成立した過程を、官業払下げ研究の視角を用いつつ明らかにするものである。近世の日本には、天然の林野に動物を半野生状態で生育させる家畜生産施設、「牧」が存在した。「牧」は明治初年に廃止されたが、一方で同時期には、家畜専用の飼料である牧草を、人工的に生産して家畜を飼養する欧米の畜産業の情報が伝来し、その移植が試みられた。欧米からの移植技術に基づく「牧場」は明治末年に、宮内省下総御料牧場および三菱・岩崎家が経営する小岩井農場という2つの大規模「牧場」において、一定の技術的な完成をみた。
明治期における大規模「牧場」の成立過程は、「華族農場」研究として旗手勲が論じている。しかし、旗手は明治期の日本の「牧場」が一様に欧米の家畜飼養技術の移植を目指していたことを前提としていたが、実際には明治期の「牧場」では、近世日本の家畜飼養技術の活用が様々な形で試みられており、移植技術の定着は自明の過程ではない。また、近世の「牧」は、家畜生産の施設であるのと同時に周辺村々の住民が入会採草や薪炭生産に利用する空間でもあり、様々な主体の権利が重層的に存在する場所であった。それに対して欧米移植技術に基づく「牧場」は、家畜飼養以外の用途がない牧草の栽培地を設けるために、林野を他者の利用を排除した形で占有する必要があった。先行研究では、「牧場」を建設した個人・企業が広大な林野を占有できた理由・過程は明らかではない。
このように、「牧場」の成立には、技術移植と特定の個人・企業への所有権移転という2つの重要な要素があることから、本稿ではそれを、同様の要素を持つ工場・鉱山の払下げと類似した現象と捉え、官業払下げ研究の視角を援用しつつ近世後期から明治末年までの過程を論じた。すなわち、第1~2章では徳川幕府直轄「牧」であった小金・佐倉牧が明治初年に廃止される過程を論じ、ついで第3~4章において、佐倉牧の跡地に建設された官営「牧場」(下総牧羊場→下総種畜場→下総御料牧場)が開設・経営・一部払下げされる過程を、第5~6章において、下総御料牧場に影響を受けながら民間で欧米技術の移植に成功した小岩井農場の、用地取得・開設・経営の過程を論じた。
小金・佐倉牧では近世を通じて、「牧」内の土地を民間に払下げて新田開発を行おうとする計画が存在したものの、「牧」を全面的に廃止・払下げする政策は実現しなかった。ところが明治維新後には、明治2年3月という早い段階で「牧」を全面的に払下げる「開墾」事業の実施が決定している。第1~2章では、「牧」の払下げを行うためには、幕府(明治政府)当局が①「牧」が生産する家畜である野馬の生育を管理する権限、②「牧」周辺の幕領(政府直轄領)の領地支配権、③「牧」周辺の林野を幕領(政府直轄領)・私領を問わず処分する権限、の3つの権限を一手に持つ必要があることを指摘し、権限の異動と、土地利用に対する当局者の価値観の変遷からこの過程を説明した。
享保期の代官小宮山昌世は、野馬管理、幕領支配、幕領・私領を超えて「牧」周辺の林野を処分する権限を包括する強力な一手処分権を得て、新田開発奨励政策を実施した。小宮山自身は農地中心の開発を志向していたが、その政策は「牧」周辺の樹林地化・林産物生産の発展を促進した。寛政期には野馬管理の権限を一手に集中する部局「野馬方」が創設されたが、野馬方に「牧」周辺の林野の一手処分権は与えられなかった。また享保期の開発終了後、村々の「百姓相続」と野馬生育の維持が幕府当局の基本方針となり、採草・放牧地を減少させる新田開発は困難になった。そのため野馬方は、当時周辺地域で勃興しつつあった雑木林での製炭に着目し、「牧」内での雑木林造林を行った。
幕末には、洋式陸軍の建設が急務となる中で、幕府騎兵が「牧」の野馬管理を所管し、「牧」に西洋の飼養技術を導入して洋式陸軍への軍馬供給施設とすることが構想された。ついで、幕府の関東広域行政の強化が図られる中で、関東在方掛に野馬管理、幕領支配、「牧」周辺の林野の一手処分権が集約された。関東在方掛は開港後の茶桑栽培の発展により、村々の「百姓相続」・野馬生育の利害を侵害することなく、小規模・悪条件の土地の開発で利益を生み出すことが可能になった、という認識のもと、「牧」周辺での新田開発奨励政策を実施した。しかし最幕末の流動的な人事の中で、騎兵や関東在方掛の支配は短期間で終わり、村々の「百姓相続」と野馬生育を維持する原則により「牧」の現状が維持されたまま明治政府に引き継ぐこととなった。
徳川幕府崩壊後、「牧」を所管した明治政府の鎮将府会計局には、民間から「牧」の廃止・全面開発の企画が持ち込まれた。旧幕吏の知見を重視する判事江藤新平のもとで、引き続き「牧」の野馬管理に従事していた旧勘定方官吏・牧士らはその企画を退け、村々の「百姓相続」・野馬生育の維持を前提とする幕末の新田開発奨励政策の続行を目指した。しかし明治元年後半に「牧」の野馬管理が会計官の牧畜行政の管下に置かれると、牧畜を優先する会計官当局の方針により「牧」の開発は中止された。
他方で脱籍士族の取締が政治的な課題となっていた東京府では、東京の人口減少に否定的な江藤新平が明治2年2月に佐賀へ帰藩すると、小金・佐倉牧を廃止して府下の「窮民」を入植・開墾させる事業が急速に具体化した。東京府は明治2年3月に「牧」周辺の林野の一手処分権を獲得して事業を始動させた。事業実施の決定に主導的な役割を果たした東京府知事大木喬任は、旧幕府の原則であった村々の「百姓相続」・野馬生育の維持に代わり、各個人が資力に応じて土地の払下げを受けて自己の利益のために開墾を行うことを肯定する、「人々之望ニ任」せる原則を掲げていた。政府当局者が制度としての近代的土地所有権の必要性を意識する前に、近代的土地所有権なしには遂行できないような政策がすでに開始されていたのが、「牧」の廃止・開墾事業の特徴である。
明治政府が羊毛・毛織物の輸入防遏に高い関心を持っていたことを背景に、D.W.アップ=ジョーンズという外国人が政府に持ち込んだ企画に基づいて、明治8年に下総牧羊場が設置された。第3章ではこの過程を検討し、下総牧羊場が官設の形を取りつつ実態は政府と外国人の共同営利事業であったこと、しかし収益化に失敗し、明治11年には純粋な官設官営事業に移行したことを明らかにした。下総牧羊場は旧佐倉牧開墾地の一部を買収して設置されており、牧草を栽培して家畜を飼養する、という欧米の発想が日本に持ち込まれたことで、開墾のために林野から排除される側であった牧畜が、他の利用を排除して林野に専用の施設を持つことが可能になったといえる。
個人・企業が、「牧場」建設に必要な大面積の林野を占有する、最有力の手段は政府からの土地の払下げを受けることである。明治期の家畜飼養においては、入手手段が限られる欧米の品種や農機具、技術情報もしばしば政府からの供与が必要であり、明治期の「牧場」は払下げと密接に結びついた事業であった。官業払下げ研究において、小林正彬は払下げを受ける企業側の能力に注目する必要性を提起した。他方で谷川みらいは、払下げ先の決定の過程は複雑であり、政府が必ずしも合理的に払受け人の能力を評価して決定を行ったわけではないことを明らかにしている。
こうした研究動向を踏まえ、第4~6章では払下げを行った政府側の意思決定過程と、払受け人の側の能力の両方を検討することで、日本で牧草栽培による家畜飼養が実現する過程を検討した。下総牧羊場の後身である下総種畜場では、明治13年の「工場払下概則」に準拠して一部区画の払下げが実施された。しかし、払下げ後の牧羊事業の持続を重視する牧畜行政当局と、財政収支の改善を重視する政府上層部の意見が食い違う中で、意思決定が遅延し、多くの払受け出願者が中途で撤退した。また払下げ後の自由な経営を制約する払下げ条件が付された結果、払受けを実現した者も事業を継続することができなかった。
小岩井農場は、鉄道庁長官井上勝が日本鉄道線の建設を通じて築いた岩手県庁・盛岡政財界との協力関係を背景に、明治24年に岩手県下の官有地の払下げを受けて開設した。井上の農場は桑や漆の栽培と、野草を飼料とする在来技術による家畜飼養を中心としたものであったが、経営不振を受けて農場を引き継いだ岩崎家は、欧米技術移植による「牧場」への転換を目指した。岩崎家の「牧場」経営は、土地取得後の経営の自由度を確保しつつ、下総御料牧場から技術者を招いて行われた。しかし御料牧場出身者による技術移植がただちに成功したわけではなく、明治39年に三菱合資会社本社地所係が農場事業を直轄する体制に改められ、ボトムアップによる現場の作業者の知見の汲み上げが行われたことで、初めて牧草栽培による家畜飼養の技術が確立した。
以上の検討により、本稿では以下のことを明らかにした。第一に、近世近代移行期の土地所有に関する議論では、地租改正に代表される制度の改変が画期として注目されることが多かったが、本稿では家畜生産をめぐって、制度の改正に先行する形で、特定の個人・企業に大土地の占有を認める恣意的な政治判断が積み重ねられていたことを示した。第二に、払下げ事業においてどのような場合に技術移植が成功するのかという観点からは、政府の設定する払下げ条件と払受け人の能力がともに重要であること、自然条件への対応が必要な農業・牧畜において、トップダウンでの技術導入だけでなく、現場との意思の共有が重要であることを示した。
明治期における大規模「牧場」の成立過程は、「華族農場」研究として旗手勲が論じている。しかし、旗手は明治期の日本の「牧場」が一様に欧米の家畜飼養技術の移植を目指していたことを前提としていたが、実際には明治期の「牧場」では、近世日本の家畜飼養技術の活用が様々な形で試みられており、移植技術の定着は自明の過程ではない。また、近世の「牧」は、家畜生産の施設であるのと同時に周辺村々の住民が入会採草や薪炭生産に利用する空間でもあり、様々な主体の権利が重層的に存在する場所であった。それに対して欧米移植技術に基づく「牧場」は、家畜飼養以外の用途がない牧草の栽培地を設けるために、林野を他者の利用を排除した形で占有する必要があった。先行研究では、「牧場」を建設した個人・企業が広大な林野を占有できた理由・過程は明らかではない。
このように、「牧場」の成立には、技術移植と特定の個人・企業への所有権移転という2つの重要な要素があることから、本稿ではそれを、同様の要素を持つ工場・鉱山の払下げと類似した現象と捉え、官業払下げ研究の視角を援用しつつ近世後期から明治末年までの過程を論じた。すなわち、第1~2章では徳川幕府直轄「牧」であった小金・佐倉牧が明治初年に廃止される過程を論じ、ついで第3~4章において、佐倉牧の跡地に建設された官営「牧場」(下総牧羊場→下総種畜場→下総御料牧場)が開設・経営・一部払下げされる過程を、第5~6章において、下総御料牧場に影響を受けながら民間で欧米技術の移植に成功した小岩井農場の、用地取得・開設・経営の過程を論じた。
小金・佐倉牧では近世を通じて、「牧」内の土地を民間に払下げて新田開発を行おうとする計画が存在したものの、「牧」を全面的に廃止・払下げする政策は実現しなかった。ところが明治維新後には、明治2年3月という早い段階で「牧」を全面的に払下げる「開墾」事業の実施が決定している。第1~2章では、「牧」の払下げを行うためには、幕府(明治政府)当局が①「牧」が生産する家畜である野馬の生育を管理する権限、②「牧」周辺の幕領(政府直轄領)の領地支配権、③「牧」周辺の林野を幕領(政府直轄領)・私領を問わず処分する権限、の3つの権限を一手に持つ必要があることを指摘し、権限の異動と、土地利用に対する当局者の価値観の変遷からこの過程を説明した。
享保期の代官小宮山昌世は、野馬管理、幕領支配、幕領・私領を超えて「牧」周辺の林野を処分する権限を包括する強力な一手処分権を得て、新田開発奨励政策を実施した。小宮山自身は農地中心の開発を志向していたが、その政策は「牧」周辺の樹林地化・林産物生産の発展を促進した。寛政期には野馬管理の権限を一手に集中する部局「野馬方」が創設されたが、野馬方に「牧」周辺の林野の一手処分権は与えられなかった。また享保期の開発終了後、村々の「百姓相続」と野馬生育の維持が幕府当局の基本方針となり、採草・放牧地を減少させる新田開発は困難になった。そのため野馬方は、当時周辺地域で勃興しつつあった雑木林での製炭に着目し、「牧」内での雑木林造林を行った。
幕末には、洋式陸軍の建設が急務となる中で、幕府騎兵が「牧」の野馬管理を所管し、「牧」に西洋の飼養技術を導入して洋式陸軍への軍馬供給施設とすることが構想された。ついで、幕府の関東広域行政の強化が図られる中で、関東在方掛に野馬管理、幕領支配、「牧」周辺の林野の一手処分権が集約された。関東在方掛は開港後の茶桑栽培の発展により、村々の「百姓相続」・野馬生育の利害を侵害することなく、小規模・悪条件の土地の開発で利益を生み出すことが可能になった、という認識のもと、「牧」周辺での新田開発奨励政策を実施した。しかし最幕末の流動的な人事の中で、騎兵や関東在方掛の支配は短期間で終わり、村々の「百姓相続」と野馬生育を維持する原則により「牧」の現状が維持されたまま明治政府に引き継ぐこととなった。
徳川幕府崩壊後、「牧」を所管した明治政府の鎮将府会計局には、民間から「牧」の廃止・全面開発の企画が持ち込まれた。旧幕吏の知見を重視する判事江藤新平のもとで、引き続き「牧」の野馬管理に従事していた旧勘定方官吏・牧士らはその企画を退け、村々の「百姓相続」・野馬生育の維持を前提とする幕末の新田開発奨励政策の続行を目指した。しかし明治元年後半に「牧」の野馬管理が会計官の牧畜行政の管下に置かれると、牧畜を優先する会計官当局の方針により「牧」の開発は中止された。
他方で脱籍士族の取締が政治的な課題となっていた東京府では、東京の人口減少に否定的な江藤新平が明治2年2月に佐賀へ帰藩すると、小金・佐倉牧を廃止して府下の「窮民」を入植・開墾させる事業が急速に具体化した。東京府は明治2年3月に「牧」周辺の林野の一手処分権を獲得して事業を始動させた。事業実施の決定に主導的な役割を果たした東京府知事大木喬任は、旧幕府の原則であった村々の「百姓相続」・野馬生育の維持に代わり、各個人が資力に応じて土地の払下げを受けて自己の利益のために開墾を行うことを肯定する、「人々之望ニ任」せる原則を掲げていた。政府当局者が制度としての近代的土地所有権の必要性を意識する前に、近代的土地所有権なしには遂行できないような政策がすでに開始されていたのが、「牧」の廃止・開墾事業の特徴である。
明治政府が羊毛・毛織物の輸入防遏に高い関心を持っていたことを背景に、D.W.アップ=ジョーンズという外国人が政府に持ち込んだ企画に基づいて、明治8年に下総牧羊場が設置された。第3章ではこの過程を検討し、下総牧羊場が官設の形を取りつつ実態は政府と外国人の共同営利事業であったこと、しかし収益化に失敗し、明治11年には純粋な官設官営事業に移行したことを明らかにした。下総牧羊場は旧佐倉牧開墾地の一部を買収して設置されており、牧草を栽培して家畜を飼養する、という欧米の発想が日本に持ち込まれたことで、開墾のために林野から排除される側であった牧畜が、他の利用を排除して林野に専用の施設を持つことが可能になったといえる。
個人・企業が、「牧場」建設に必要な大面積の林野を占有する、最有力の手段は政府からの土地の払下げを受けることである。明治期の家畜飼養においては、入手手段が限られる欧米の品種や農機具、技術情報もしばしば政府からの供与が必要であり、明治期の「牧場」は払下げと密接に結びついた事業であった。官業払下げ研究において、小林正彬は払下げを受ける企業側の能力に注目する必要性を提起した。他方で谷川みらいは、払下げ先の決定の過程は複雑であり、政府が必ずしも合理的に払受け人の能力を評価して決定を行ったわけではないことを明らかにしている。
こうした研究動向を踏まえ、第4~6章では払下げを行った政府側の意思決定過程と、払受け人の側の能力の両方を検討することで、日本で牧草栽培による家畜飼養が実現する過程を検討した。下総牧羊場の後身である下総種畜場では、明治13年の「工場払下概則」に準拠して一部区画の払下げが実施された。しかし、払下げ後の牧羊事業の持続を重視する牧畜行政当局と、財政収支の改善を重視する政府上層部の意見が食い違う中で、意思決定が遅延し、多くの払受け出願者が中途で撤退した。また払下げ後の自由な経営を制約する払下げ条件が付された結果、払受けを実現した者も事業を継続することができなかった。
小岩井農場は、鉄道庁長官井上勝が日本鉄道線の建設を通じて築いた岩手県庁・盛岡政財界との協力関係を背景に、明治24年に岩手県下の官有地の払下げを受けて開設した。井上の農場は桑や漆の栽培と、野草を飼料とする在来技術による家畜飼養を中心としたものであったが、経営不振を受けて農場を引き継いだ岩崎家は、欧米技術移植による「牧場」への転換を目指した。岩崎家の「牧場」経営は、土地取得後の経営の自由度を確保しつつ、下総御料牧場から技術者を招いて行われた。しかし御料牧場出身者による技術移植がただちに成功したわけではなく、明治39年に三菱合資会社本社地所係が農場事業を直轄する体制に改められ、ボトムアップによる現場の作業者の知見の汲み上げが行われたことで、初めて牧草栽培による家畜飼養の技術が確立した。
以上の検討により、本稿では以下のことを明らかにした。第一に、近世近代移行期の土地所有に関する議論では、地租改正に代表される制度の改変が画期として注目されることが多かったが、本稿では家畜生産をめぐって、制度の改正に先行する形で、特定の個人・企業に大土地の占有を認める恣意的な政治判断が積み重ねられていたことを示した。第二に、払下げ事業においてどのような場合に技術移植が成功するのかという観点からは、政府の設定する払下げ条件と払受け人の能力がともに重要であること、自然条件への対応が必要な農業・牧畜において、トップダウンでの技術導入だけでなく、現場との意思の共有が重要であることを示した。