本研究では、網膜における情報伝達を理解するために、双極細胞がどのように伝達物質を放出するのかを検討した。
第1章では、研究の背景とこれまでに行われた研究を概観した。網膜は視覚の最も初期を担う神経組織であり、コントラストの増強や運動方向の検出といった基礎的な情報処理が行われる。一般の神経細胞は、興奮すると活動電位を発生し、これが引き金となって軸索終末部にカルシウム・イオン(Ca2+)が流入し、終末部に集積しているシナプス小胞が細胞膜に融合することによって中身の伝達物質が細胞外に放出(開口放出)されて、次の神経細胞に情報が伝達される。しかし、網膜において視細胞から入力を受ける双極細胞は、一般の神経細胞とは異なり、活動電位を発生せずに光刺激に対して緩電位応答を発生する。そこで、本研究では、双極細胞が緩電位によって伝達物質の放出を制御する仕組みを神経科学的実験によって解析することを目的とした。
第2章では、双極細胞からの伝達物質(グルタミン酸)放出の時間的な特性を調べた。キンギョ網膜から単離した双極細胞軸索終末部にホールセル・クランプ法を適用し、双極細胞のCa2+電流とシナプス小胞の細胞膜への融合に伴う膜容量の増大を測定した。同時に、双極細胞から放出されたグルタミン酸をアメリカナマズ網膜の水平細胞に存在するグルタミン酸受容体を利用することによってバイオアッセイした。双極細胞を脱分極すると水平細胞の応答は約1msの遅延で生じたので、双極細胞からのグルタミン酸放出は活動電位を発生する神経細胞と同じくらい速いことがわかった。脱分極パルスの持続時間が1s以内の場合、グルタミン酸の放出は一過性であり、速い成分と遅い成分が認められた。いずれの成分でも双極細胞の膜容量変化量と水平細胞のグルタミン酸応答の相関が非常に高かったので、脱分極中には開口放出のみでエンドサイトーシス(細胞膜に融合したシナプス小胞膜の細胞質中への取り込み)はほとんど生じないと考えられる。
双極細胞に5s以上の脱分極パルスを与えると、水平細胞では一過性の応答に引き続き持続的な応答が観察された。この持続性のグルタミン酸放出は20s間も脱分極し続けても枯渇することがなかった。双極細胞に5s以上の脱分極パルスを与えると、膜容量変化量がグルタミン酸応答を下回るようになったので、持続性にグルタミン酸が放出される場合には脱分極中に開口放出のみならずエンドサイトーシスも生じている可能性が高い。
第3章では、プロテイン・キナーゼC(PKC)が伝達物質放出をどのように調節しているのかを検討した。双極細胞のPKCを活性化するとグルタミン酸放出量が増大することを既に報告したが、その詳細な機構は不明であった。そこで、双極細胞に膜容量測定法を適用し、ダブル・パルスを与えることによって放出可能なシナプス小胞数(プール・サイズ)と刺激によって放出されるシナプス小胞の割合(放出確率)を推定し、PKCの活性化によってどちらの要因が変化するのかを検討した。PKCを活性化するフォルボール・エステルを投与するとプール・サイズが増大した。放出確率も増えたがPKCの活性化とは無関係であった。PKCを活性化すると一過性の放出のうち遅い成分はプール・サイズが増大したが、速い成分はその影響を受けなかった。したがって、双極細胞のPKCを活性化させるとグルタミン酸の放出が増強したのは、遅い成分のプール・サイズが増大したためであることがわかった。
第4章では、PKCの活性化によって双極細胞のシナプス小胞の配置にどのような形態的変化が生じるのかを電子顕微鏡を用いて検討した。双極細胞のシナプス小胞はリボンと呼ばれる構造に集積しているが、リボンの大きさやその周りのシナプス小胞の密度はPKCを活性化させても変化しなかった。一方、シナプス部位から約500nm離れた領域の細胞膜ではドックされている(細胞膜と接している)シナプス小胞の数がPKCの活性化によって増大することがわかった。この領域はCa2+チャネルから離れている可能性が高いので、一過性の放出における遅い成分とは、脱分極時にCa2+濃度が十分に上昇しない領域におけるゆっくりとしたシナプス小胞の開口放出であると考えられる。
第5章では、本研究で得られた知見を総合的に考察した。双極細胞はグルタミン酸放出の三つの成分を用いて、緩電位という膜電位の変化をシナプス後細胞に効果的に伝達していると考えられる。