本論文は、三つの対象を扱う。第一は、19世紀前半のアイルランド農村の社会経済的な姿であり(第1章)、第二は、1820年代の前半にアイルランドの南部で発生した大規模な農村騒擾である「ロッカイト運動」であり(第2章)、第三は、19世紀初めの約30年間における、ブリテンによるアイルランド農村の統治の基本的なパターンである(第3章)。
第1章の中心をなす議論は、19世紀前半のアイルランド農業は、全体として市場向け生産を拡大し、そのうちとくに穀作のしめる比重が増えたことが、大量の農村貧民を生み出し、同時に農村騒擾を頻発させることとなった、とするものである。
第2章では、ロッカイト運動の具体的な様相を追う。この運動はアイルランド南西部のリムリック州に見られたいくつかの地域的な対立を発端としているが、その背後には、ダブリンの政治結社が地下組織を浸透させていた事実があった。そのため、ロッカイト運動は急速に各地に拡大し、活発な騒擾を引き起こす。最も激しい騒擾が発生したのは、リムリック州とコーク州であり、とくにコーク州においては、白昼に数千人の農民が軍隊と正面から交戦する事態が発生している。こうした動きが鎮圧された後にも、宣誓にもとづく秘密結社による地下組織を発達させ、前例のない激しさにおいて放火を頻発し、蜂起を実現するために集金して武器を製造していた。同時に、単なる農村騒擾とは異なり、社会変革を志向する政治観念をも持つにいたっていたのである。
第3章では、ロッカイト運動に代表される、アイルランドの農村騒擾と、そして深刻化しつつあった農村の貧困に対する国家の対応を検討する。19世紀のアイルランドは連合王国の一部であったが、世紀最初の30年間に政権の座にあったトーリーの騒擾に対する基本的な姿勢は、力で鎮圧することにあった。このため、19世紀初めのアイルランドでは、警察の導入に示されるように、国家の強制力と監視は格段に強化されることとなる。この一方で、貧困に対しては、解決するための何ら実効ある措置は導入されなかった。それは、当時の支配的な思想であったポリティカル・エコノミーにおいて、貧富の差は根本的には解消され得ない、と考えられたからであると同時に、「過度の」貧困のもたらす害悪の解決は、モラルの領域に求められるべきである、と考えられたからである。