ノルマン・コンクエスト(1066)以降ヘンリー2世期(1154~89)までのイングランド史は、対外的には「アングロ=ノルマン王国」「アンジュー帝国」と研究史上呼称される、国王が大陸側にも所領を保有するなど、支配層の次元での大陸との密接な関係、また国内的には同時期の他の西欧地域と比較して集権性の強い行政府主導の統治体制によって特徴づけられる。リチャード1世(在位1189~99)、ジョン(在位1199~1216)期について従来の研究では、イングランド政治の面では、前代を引き継ぐ形で行政長官(chiefjusticiar)を中心とした行政府主導の統治体制が継続したと捉えられてきた。他方、ジョン治世初期(1204年)にイングランドはカペー朝フランスの軍事攻勢により大陸所領のほとんどを失うこととなるが、その要因について最近の研究では、イングランド財政の総量的分析に基づいて、イングランドがカペー朝に対して軍事財政上劣っていたためとしている。しかし、当時のイングランド行財政の、カペー朝含む他の西欧諸国と比較しての整備の度合いの高さと符合する説明はなされていないのが実状である。本論文では、イングランド領主層に着目してその政治や行財政面での動向を考察し、従来の研究を批判的に検討する形でリチャード・ジョン期の位置づけを改めて試みた。
論文の第2部では、特にリチャード1世期を中心に、統治体制を分析した。まず行政長官職の性質を分析し、国王自身の意思の国内への伝達が困難な状況のもとで、彼が必ずしも自らの「代理」たる一人の人物に「行政長官」職の権威のみで行政を委任せず、複数の人間が共同で関わる形での国政運営も想定していたととれることを明らかにし、そのうえで行政長官・行政府主導の統治体制が引き継がれていたとする従来の見解への疑問を提示した。そのうえで、特にリチャードの治世前半には彼の方針から発する「集団統治」の形がとられ、その中で諸侯など臣民側の国政参加の動きもまたみられる状況を明らかにし、この時期が臣民側の国政参加の動きという13世紀以降のイングランド政治史の流れの一つの原点となった可能性を仮説として提示した。
第3部では、第2部に従い、諸侯含む領主層の行財政面での動向をより実体的に捉えることとし、軍事財政に関わり領主層を負担者とする、軍役代納金(scutage)の徴収状況を様々な点から分析した。行政府側からの分析では、リチャード期には州長官(sheriff)を徴税官として起用するなどの施策は特に大陸所領防衛を目的とする課税には効果をあげていないこと、他方ジョン期には州長官政策はより効果的に行われ、彼らが関与する範囲については徴税の効果を挙げていることを明らかにした。反面、負担者たる領主層側からの分析では次のことが明らかとなった。イングランド領主層は、総体として、大陸所領防衛のための財政負担に対しては冷淡であり、担税意思は低く、行政府側の政策努力にもかかわらず納税の成績も挙がらなかった。また大陸との密接な関係を維持する中核となるべき、大陸・イングランド双方に所領を保有する領主に限っても、国王に対する財政負担には消極的で、特に大陸に基盤を持たず彼らの支持を必要としたジョンの治世にはパトロネジを得て負担を免れようとする傾向が強くなり、ジョンの軍事財政政策の遂行をむしろ妨げる結果につながったと考えられる。
以上の検討に基づき、本論文では以下のように結論する。リチャード・ジョン期はイングランド政治の面では、従来の研究のように行政府主導の統治体制が維持された時期として単純には捉えられず、13世紀以降の臣民側が参加する統治体制の嚆矢が現れた時期として捉えることも可能である。また大陸所領の喪失の要因としては、従来の研究での見解に加えて、大陸に地盤を持たないジョンが王位を継承したこと、イングランド領主層が総体として大陸所領防衛のための財政負担に対し冷淡であったことを挙げることが、新たにできると思われる。