「真理」を証していた神の死により、様々な多元性はその収斂の焦点を失う。諸宗教を巡る特殊と普遍の交錯と、宗教と科学の対立に象徴される、多様な人間知の対立という二種の多元性の前景化を前に、「宗教」は理念としての再定位を迫られている。こうした課題に対し、プラグマティズムの系譜においては真理自体をプラグマティックな様相の下に捉えかえすことで、近代において二項的に引き裂かれた人間像の統合と、多元的並立の確保とが志向された。しかし、絶対的ともいえる真理要求を内包する宗教を、自然化した位相に捉え返すデューイに対しては還元主義との批判がなされ、また、真理領域の二元的画定によってその自立性を確保しようとしたジェイムズに対しては、プラグマティズムの不徹底も指摘される。
プラグマティズムの「徹底化」を自認するリチャード・ローティにおいては、本質的に偶然的な言語的営為という観点から反表象主義・反本質主義・反基礎付け主義として再定式化され、それは宗教にも敷延される。その宗教論は、(1)行為習慣としての信念観とその多様性、(2)「認識/非認識」二元論の破棄、(3)共生の理念としての公私の区別と、宗教の私化、(4)普遍絶対的な「真理」概念の捨象、(5)ユダヤ-キリスト教の伝統を継ぐ「愛としての宗教」観、という「五命題」に要約される。ここでは宗教という言説は従来の「真」としての自己規定から離れていく。そして予見や制御を志向する科学とは異なり、宗教は生の充実を目的とするもので、「詩」との類比においても描かれる。
ローティの構想は公私、二つの位相に分けられる。公的には、一元的収束を前提としない多元的共存が求められる。そしてメタ的言説を放棄しつつも、リベラリズムをなお、「その根拠への問い」自体を無効化するような地点において公的原理として保持する。「宗教の私化」も、多元的共生を維持するための最低限の要請であるとともに、その最大限の自由を確保するものでもあった。こうした公的な「強い要請」に対して、「愛としての宗教」像はそのプラグマティズム宗教哲学の帰趨であり、「弱い要請」に止まろうが、なお、近代的諸理念への批判を踏まえた内在的再規定として無視しえない可能性を湛える。
そこでは、「宗教/科学」といった、人間知の諸言説間の葛藤に際して、「認識/非認識」という二元的真理観を批判しつつ、両者の違いを「目的」の相違にすぎぬとして対立的な把握自体を斥ける。しかしまた、全体論的な信念体系中に宗教言説を位置づけるにあたり、なお他の言説との整合性も問題となる。この時ローティは、全体論的真理観を維持しつつも、宗教的信念の正当化を他の信念にではなく、その実践の相に求める。同時に信念体系として定位してきた宗教観にも再考を促していく。
しかし諸宗教間の葛藤を前にする時、ローティの前提とする公私の区別自体もが問われる。ローティは一元的収束という理念を放棄しつつも同時に、特殊的存在のアプリオリな正当性をも認めない。そして共生の希求は、「今、ここ」という限定的始点からの「収斂を求めぬ対話」として描かれる。また、その概念枠批判は、共約不可能性に訴える自存性・正当性の主張にも疑問を投げかける。
しかし、それには公私の流動性や本質的相関性という批判もされている。あえてローティがこの区分を維持するのは、公私の一致を原理的に求めないことにもあった。ただこの場合、言説が孕む政治性への透徹した眼差しが要され、その批判するフーコーやデリダらと補完的な様相をも帯びる。
また、宗教とリベラリズムとの両立可能性、あるいは本質的な偶然性の認識と、「究極的」とされる宗教へのコミットメントの両立可能性も問われている。それに対してローティは分裂した人間像に基づき、「自己の偶然性の認識」に立つ「アイロニスト」のコミットメントの在り方を描いていく。さらに偶然性の自戒と究極への志向の揺れを「二つの詩」の間における嗜好の問題とすることで、問題の解消を図る。ただし、もはやその到達点は実体的に前提化できず、「虚焦点」として描かれることにもなる。
ローティの「エスノセントリズム」では、キリスト教、リベラリズム、アメリカ社会とは矛盾なく描くことができた。こうした「僥倖」に恵まれない時、なおその射程が及びうるかは自明ではない。しかし、現実における重層性の認識を踏まえる時、リベラリズムの理念、そしてまた「愛としての宗教」を広く分かちあえる希望も残される。