近代韓国の植民地状況は魯迅に対する独自の読み方を可能にしたが、終戦以来長い間韓国人の脳裏から魯迅はほとんど忘却させられた。一九四〇年、毛沢東主義の文学的象徴として規定された魯迅は、冷戦が終結するまで韓国では触れてはならぬ存在として忘却が強いられたのである。
今日魯迅は自由に語られるようになり、中国文学に限らず韓国における人文社会科学一般の批評空間で好んで引き合いに出される存在となったが、こうした現象は半世紀あまりの空白を越え見事によみがえったものというべきである。植民地時代を生きた韓国人たちは、すでに自らの社会的・文学的コンテクストの中で魯迅を読む伝統を築いていたからである。本稿が目指すのは、一九一〇年代末始まった韓国新文化運動から植民地解放に至る、近代韓国における魯迅の受容とその文学的な再生産の様相を探ることである。
半封建・半植民地状況の現実と至難な戦いを続けた魯迅の苦悩とその文学的な表現に、植民地韓国の知識人たちは訴えかけられるものを見い出していた。中でも注目すべき点は、魯迅の創り出した文学的形象‘阿Q’が植民地を生きる卑屈な自画像と重ね合わせられながら韓国人にさらに説得力と実感を呼び起こしたことである。一九二〇年代以来、韓国の近代的な活字メディアに登場した魯迅は、一九三〇年代以来いっそう硬直化していく植民地体制の下でさらに熱い共感をもって読まれていく。いよいよ近代韓国において魯迅の‘阿Q’は一つの文学的コードとして流通し、魯迅文学における諸形象は‘阿Q的人間’と‘非阿Q的人間’として理解されるようになるのである。

‘阿Q’の文学的再生産の痕跡を、まず韓国近代文学史における最大の作家李光洙から見い出すことができる。李光洙がその後期に当る一九三〇年代後半以来作品の傾向に明らかな変化を見せていることは周知の事実だが、従来なされてきた説明に加え、本稿ではその変化の背後に魯迅の影が見え隠れしていることを指摘したい。李光洙は植民地民衆の姿から‘阿Q’を見い出し、自ら‘朝鮮の阿鬼’を描きたかったと語ったところの「万爺の死」を執筆するに至る。李光洙は始めて生涯とりつかれていた啓蒙者としての使命感、同胞に対する‘教師意識’から放たれ、阿Q的知識人の自画像に出会っていくのである。
魯迅の文学的再生産は、植民地末期さらに金史良によって一層深みをもって受け継がれたものと見られる。金史良の作品から、‘内鮮一体’を強いられる植民地末期の閉塞状況の中で高度に内面化した抵抗性を見い出すことができる。金史良は「光りの中に」で一九四〇年芥川賞の最終候補として注目を浴びて以来、多数の作品を日本語で発表したが、彼の関心事はあくまでも虐げられた同族の現実と生き方であり、苦悩に満ちた植民地知識人の自意識と内面世界であった。
一方、一九四一年発表された金史良の短編「Q伯爵」は、留置場でただ‘Q伯爵’と呼ばれていた、名無しの一韓国人高等ルンペンの話である。‘Q伯爵’は‘親日派’、中でも当時植民地住民のほんの一握りに過ぎない特権階層の出身でありながら、気違いじみたバカな真似をする留置場の常連だが、思想犯で捕まるべくその嫌疑がかけられそうなことをわざと仕出かす自称アナキスト‘Q伯爵’は、滑稽味を漂わせながらも悲愴感あふれる形象でもある。‘Q伯爵’は植民地現実への深い絶望ややり切れぬ気持ちを、三〇年代以来急増した経済難民の群れに混じって汽車に乗ることや、酔いつぶれることで紛らわせている。満州へ流れ込む移住民たちと共に難民列車に乗り込み、彼らとせめて情緒的なつながりを保とうとするのである。彼らと‘同じ方向に向いて走つている感じ’だけで‘救われる気持ちになる’とつぶやく‘Q伯爵’は、無気力と絶望に打ちのめされた普遍的な植民地知識人の姿に他なるまい。これは、李光洙が植民地民衆の姿に‘朝鮮の阿鬼’を見ていたように、三〇年代以来韓国知識人の間ですでに一つの文学記号として流通していた‘阿Q’を‘余計者的な植民地知識人像’として生まれ変わらせたものといえよう。金史良と魯迅の描いた二人の‘Q’はそれぞれ身分こそ大きく異なるものの、緻密に計算された一種の文学的装置なのは疑えまい。
魯迅の文学的な再生産が行われる土台と背景を探るため、第一部ではまず近代韓国における活字メディアの状況、そしてそのメディアにおける魯迅の捉え方を丁来東、申彦俊、李陸史三人を手がかりにして見ておく。

終戦と独立とともに始まった冷戦という新しい閉塞状況のもと近代以来の伝統はほぼ途絶え、‘韓国人の魯迅読み’は韓半島を離れたところ、つまり日本の地で‘在日’として生きる人々によって受け継がれていくことになる。金史良の直系を自任する在日コリアン作家たちは、祖国の政治状況に直接には拘束されず、そして戦後日本の開かれた魯迅論の中で魯迅を読み続けていくことができたのであろう。一方、二つの祖国どちらにも自分を帰属させることができず、一種の精神的亡命生活を強いられたともいえる在日コリアン知識人たちが、‘在日を生きる’中で味わえねばならなかった彼らなりの疎外体験を通して、また新しい阿Q像を創っていったと見られる点は興味深い。このことは一応本稿の扱う時代範囲外のものなので本論では論じず、今後の課題として終章で一例を挙げるに留めておくことにする。