近代日中文化交流史において、明治10年に設置された駐日清国公使館の活動は非常に重要な意味を持っている。歴代公使と公使館スタッフたちは比較的長期に渡り日本に駐在し、日本の広い範囲の人々と広汎な交流を行い、また、日本の学者の協力により様々な学術研究を行った。彼らの日本認識は、その後の中国人の日本観に大きな影響を与え、また、彼らと日本の学者たちとの間の学術交流は、近代日中学術交流の出発点となったのである。しかしながら、今日までの日中交渉史の研究においては、この時期の文化交流の実態に関する研究の蓄積は少なかった。
本稿においては、以上のような問題意識の下、2部に分けて、明治前期における日本人と中国知識人の学術交流に関する事実に焦点を当て、清国公使館の文化活動を中心として、とくに古典籍の蒐集をめぐる歴代公使と公使館スタッフたちの活動や、日本学者との学術交流について考察し、それを通して、当時の日中文化交流の実態を把握するとともに、その社会的、文化的背景を再認識し、さらに日中両国の社会の転換期における伝統的な知識人の精神的変容も探ってみた。
前編においては、幕末以降における日中文化交流の歴史と、その中における駐日公使館の役割について述べた。第1章では、清国公使館の設置及び、公使館員たちと日本人との文化交流の全般的な状況について説明を行った。駐日公使館の設置が、日中関係に与えた画期的な影響と、その設置前後の状況と公使館の役割、、歴代公使と公使館員の経歴の説明、彼らが公務の傍ら行った広汎な文化交流の実態がその主な内容である。特に漢学者・漢詩人との交流、明治漢方復興運動との関わりや、日中交渉に必要な人材を養成するためになされた努力について詳説した。第2章においては、公使館と特に密接な関係を持った日本人の具体例として、4人の知識人に焦点を絞り、交流の具体的な状況を可能な限り究明してみた。
第3章以降においては、後編として、日本に保存されていた古典籍をめぐる日中知識人の交流に焦点を当てた。公使館員は、近代的な外交官としての側面と同時に、伝統的な士大夫としての側面をなお色濃く残していたが、古典籍の蒐集においては、彼らのそのような側面が最もよく現れているため、ここでは、資料の発掘により、その全体像を浮き彫りにした。
何如璋を公使とする初代公使団が日本を訪れた際、彼らに対しては、日本において、中国国内に於いてはすでに散逸した古典籍の発見が期待されていたのであり、古典籍の蒐集は公使館員の個人的・趣味的な行動とは限らず、ある意味では、公使館の公的な文化活動の一部分でもあった。このような、清国公使館の公務としての古典籍の蒐収の代表例として、第5章では足利学校所蔵の『論語義疏』の抄写をめぐる日清両国の交渉の諸相を述べた。今回蒐集できた文書資料からも、清国公使館が外交手段さえも行使して、計画的に古書を集めていたことが窺える。
公使館の古書蒐集活動においては、公使館スタッフはもちろん、視察などのため公使館に短期間滞在した人々も、古書を蒐集していた。第4章においては、第4代の公使・黎庶昌に至る歴代駐日公使と公使館のスタッフたちによる古書蒐集活動について考察した。なお、最も精力的に古書を集めていた公使館随員、楊守敬の活動に関しては、第6章において述べた。
本研究のテーマの性質上、とくに文献学の手法を重視し、研究に当たって、日本・中国・台湾・アメリカにわたる範囲の文献調査を行った。今までに公刊された資料はもちろん、今まで紹介されてこなかった、当時の日中文人の筆談メモや書簡類の調査・整理を心がけ、また、未刊の年譜・日記・公文書などもできる限り利用することに努めた。本研究においては、明治前期の駐日清国公使館の文化活動の研究に対して、新しい知見を提供することにより、その時期の日中学術交流の日本と中国の近代学術史における意義をも、新しい角度から考察することが可能となった。