文学部とは、人が人について考える場所です。
ここでは、さまざまな人がさまざまな問題に取り組んでいます。
その多様性あふれる世界を、「文学部のひと」として、随時ご紹介します。
編集部が投げかけた質問はきわめてシンプル
「ご自身の研究の魅力を学生に伝えてくださいませんか」。
ここでは、さまざまな人がさまざまな問題に取り組んでいます。
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編集部が投げかけた質問はきわめてシンプル
「ご自身の研究の魅力を学生に伝えてくださいませんか」。
中尾 千鶴 准教授(英語英米文学研究室)
皆さんは英語を学ぶ時、「ああ、英語も日本語みたいに簡単だったらいいのに」と思ったことはありませんか。でも、日本語を学ぶ英語話者はきっと、逆のことを思っているに違いありません。なぜ、人間は自分の母国語に限り、努力もせずに簡単に発話したり理解したりする能力を身に着けることが出来るのでしょうか。アメリカの言語学者ノーム・チョムスキーは、「人間には、自然に無意識的に言語を獲得する能力(普遍文法)が生得的に備わっている」という仮説を提案しました。普遍文法のお陰で、ある一定の年齢までに母語のインプットを得さえすれば、学習や模倣に頼らずとも母語を獲得することが出来るのです。この仮説が正しければ、大人に比べて知能が未発達な幼児が、たった数年の短期間で複雑な文法を身に着けられる理由が説明できます。
この「生得性仮説」を基盤として、では人間の言語にはどのような特徴があるのか、どの言語にも普遍的な特徴は何か、そしてそれぞれの言語に特有の特徴は何か等の言葉の仕組みを探る取り組みが、私の研究している「生成文法理論」です。世界の言語に普遍的な特徴が多く見られるということは、言語能力が人類という種に共通で、生得的であることの証左となり得ます。また、言語変異が無秩序で言語ごとにばらばらな特徴を示すのではなく、変異のパターン分けに規則性があることを示せれば、子供の言語獲得はそのパターン(「パラメータ」と呼ばれます)のいずれかを選択するだけで済むということになり、言語獲得の早さや容易さを説明できることとなります。その為、「言語の普遍性」や「変異の促成」を示すことは、人間の言語の生得性仮説を補強する鍵となります。
私は「英語英米文学科」に所属しており、英語学の授業を担当しています。ですが、「英語学」の分野では、生成文法理論に基づき英語に限らずに様々の言語を扱うことで、人間の言語能力の一端を考察し、言語の奥深さを学んでいます。私自身も、特に日本語と英語の構文比較をメインとして研究をしています。
生成文法理論の面白さは、仮説をデータで実証していく科学的な思考にあると思います。ある例文が容認可能か不可能かという母語話者の判断が、文法における仮説の証拠になったり、反証になったりするのです。
語句の移動を例にとってみましょう。”What did John eat _?”の例文のように、英語において疑問詞whatは目的語位置から文頭に移動します。しかし、”*What did John meet [a girl who ate _]?”(ジョンは何を食べた少女に会いましたか?)が容認不可能であることが示すように、関係節を越えた疑問詞の移動は許されていません。日本語においても、「りんごをジョンが_食べた。」のように、目的語を文頭に移動させる操作は可能です。(英語の疑問詞のように必須の移動ではありません。)そして、この操作においても「*りんごをジョンが[_食べた少女]に会った。」が容認不可能なように、関係節を越えた移動はできません。異なる言語において移動が不可能な環境が共通して見られることは、それが人間に共通した、生得的な言語の知識に基づいているという仮説を補強します。
更に、「関係節を越えた語句の移動は不可能である」などの先行研究における一般化は、別のデータと結びつくことで、また新たな仮説の証拠となります。「ジョンが書いたのはこの本をだ」のような文は、日本語における「分裂文」で、「この本を」という箇所を焦点にとり、強調している構文です。(英語における分裂文”It is this book that John wrote.”と同様のはたらきをしています。)そして、この分裂文は「*ジョンが[書いた人]に会ったのはその本をだ。」のように、関係節内の目的語部分が焦点になれません。分裂文が上記の移動の操作と同じ制約に従っているということは、「分裂文の焦点も元の文からの移動を含んでいる」という仮説の証拠になります。
私は現在、分裂文の言語間変異に興味を持っています。例えば、英語においては”*It is happy that John is _.”のように、形容詞が分裂文の焦点になることはできませんが、母語話者への聞き取りによると、これに対応する例文が悪くない言語(フランス語等)もあるようです。日本語の例を考えてみると、「ジョンがメアリーが世界一美しいと思っている」の「世界一美しい」を強調して「*ジョンがメアリーが_思っているのは世界一美しいだ」は容認不可能なのに対し、「ジョンがメアリーが世界一美しくなったと思っている」の連用形の形容詞「世界一美しく」を焦点にして「ジョンがメアリーが_なったと思っているのは世界一美しくだ」は可能なように思えます。つまり、「ある語句がある言語において分裂文の焦点になれるかどうかはその品詞によって(のみ)決まる」という仮説は棄却できることになりそうです。
このように、先行研究に関連して様々の例文を作り出し、「なぜこの例は良く/悪くなるんだろう?」と不思議なことを見つけるのがとても楽しいです。(母語である日本語のデータを多く扱っているのは、この、自分自身の言語直観をはたらかせられるという良さがあるからです。)そして、それに対して納得のいく仮説を作り上げられた時は、更に楽しいです。この「仮説を立て、実証する」という過程には、文学部の学問でありながらも理系的な面白さがあると思います。逆に、自分の言語直観の及ばない他の言語のデータをネイティブ話者を通じて収集することで、研究者同士の交流も生まれます。それもまた、文法理論研究の醍醐味といえます。
この「生得性仮説」を基盤として、では人間の言語にはどのような特徴があるのか、どの言語にも普遍的な特徴は何か、そしてそれぞれの言語に特有の特徴は何か等の言葉の仕組みを探る取り組みが、私の研究している「生成文法理論」です。世界の言語に普遍的な特徴が多く見られるということは、言語能力が人類という種に共通で、生得的であることの証左となり得ます。また、言語変異が無秩序で言語ごとにばらばらな特徴を示すのではなく、変異のパターン分けに規則性があることを示せれば、子供の言語獲得はそのパターン(「パラメータ」と呼ばれます)のいずれかを選択するだけで済むということになり、言語獲得の早さや容易さを説明できることとなります。その為、「言語の普遍性」や「変異の促成」を示すことは、人間の言語の生得性仮説を補強する鍵となります。
私は「英語英米文学科」に所属しており、英語学の授業を担当しています。ですが、「英語学」の分野では、生成文法理論に基づき英語に限らずに様々の言語を扱うことで、人間の言語能力の一端を考察し、言語の奥深さを学んでいます。私自身も、特に日本語と英語の構文比較をメインとして研究をしています。
生成文法理論の面白さは、仮説をデータで実証していく科学的な思考にあると思います。ある例文が容認可能か不可能かという母語話者の判断が、文法における仮説の証拠になったり、反証になったりするのです。

英語英米文学研究室にて
語句の移動を例にとってみましょう。”What did John eat _?”の例文のように、英語において疑問詞whatは目的語位置から文頭に移動します。しかし、”*What did John meet [a girl who ate _]?”(ジョンは何を食べた少女に会いましたか?)が容認不可能であることが示すように、関係節を越えた疑問詞の移動は許されていません。日本語においても、「りんごをジョンが_食べた。」のように、目的語を文頭に移動させる操作は可能です。(英語の疑問詞のように必須の移動ではありません。)そして、この操作においても「*りんごをジョンが[_食べた少女]に会った。」が容認不可能なように、関係節を越えた移動はできません。異なる言語において移動が不可能な環境が共通して見られることは、それが人間に共通した、生得的な言語の知識に基づいているという仮説を補強します。
更に、「関係節を越えた語句の移動は不可能である」などの先行研究における一般化は、別のデータと結びつくことで、また新たな仮説の証拠となります。「ジョンが書いたのはこの本をだ」のような文は、日本語における「分裂文」で、「この本を」という箇所を焦点にとり、強調している構文です。(英語における分裂文”It is this book that John wrote.”と同様のはたらきをしています。)そして、この分裂文は「*ジョンが[書いた人]に会ったのはその本をだ。」のように、関係節内の目的語部分が焦点になれません。分裂文が上記の移動の操作と同じ制約に従っているということは、「分裂文の焦点も元の文からの移動を含んでいる」という仮説の証拠になります。
私は現在、分裂文の言語間変異に興味を持っています。例えば、英語においては”*It is happy that John is _.”のように、形容詞が分裂文の焦点になることはできませんが、母語話者への聞き取りによると、これに対応する例文が悪くない言語(フランス語等)もあるようです。日本語の例を考えてみると、「ジョンがメアリーが世界一美しいと思っている」の「世界一美しい」を強調して「*ジョンがメアリーが_思っているのは世界一美しいだ」は容認不可能なのに対し、「ジョンがメアリーが世界一美しくなったと思っている」の連用形の形容詞「世界一美しく」を焦点にして「ジョンがメアリーが_なったと思っているのは世界一美しくだ」は可能なように思えます。つまり、「ある語句がある言語において分裂文の焦点になれるかどうかはその品詞によって(のみ)決まる」という仮説は棄却できることになりそうです。
このように、先行研究に関連して様々の例文を作り出し、「なぜこの例は良く/悪くなるんだろう?」と不思議なことを見つけるのがとても楽しいです。(母語である日本語のデータを多く扱っているのは、この、自分自身の言語直観をはたらかせられるという良さがあるからです。)そして、それに対して納得のいく仮説を作り上げられた時は、更に楽しいです。この「仮説を立て、実証する」という過程には、文学部の学問でありながらも理系的な面白さがあると思います。逆に、自分の言語直観の及ばない他の言語のデータをネイティブ話者を通じて収集することで、研究者同士の交流も生まれます。それもまた、文法理論研究の醍醐味といえます。