文学部とは、人が人について考える場所です。
ここでは、さまざまな人がさまざまな問題に取り組んでいます。
その多様性あふれる世界を、「文学部のひと」として、随時ご紹介します。
「ご自身の研究の魅力を学生に伝えてくださいませんか」

高木 和子 教授(国文学研究室)

 なぜか押し入れの上の段に入って角川文庫の芥川を読んでいたのは、いつのことだったでしょうか。父親から奪い取った文春文庫の『竜馬がゆく』を、小学校の休み時間に読んでいたのは確かです。繰り返し読んで新たな伏線を見つけては、大満足でした。
 一人の作家の作品を順に読むスタイルで、当時流行りの星新一や北杜夫を横目に、石坂洋二郎やら新田次郎やら三浦綾子やらを読んだけれど、今は一冊も手元にありません。『限りなく透明に近いブルー』を読んで「う~ん?」となったのは、中学二年生の時です。新潮文庫のホームズやルパンに夢中で、その頃ちょうどブラームスの交響曲がお気に入りだったものだから、今でもブラームスを聴くとホームズの風景が浮かびます。そうそう、『ブラームスはお好き』も読みましたっけ。脈絡のない乱読の中にも、谷崎では『細雪』、川端では『山の音』、三島では『豊饒の海』が好みで、やはり長編を何度も読むのが性に合っていたようでした。
 外国文学の読みやすさや難解さは、原作の力なのか翻訳ゆえなのか、悩ましく思えたから……、というのは言い訳で、本当はただ単に暗記を要する語学や古文が苦手だっただけでしょう、大学で国文学を選んだのは横着と怠惰の産物です。ところが本郷に進学してから圧倒的に面白かったのは、これまで全く関心のなかった『源氏物語』でした。王朝絵巻風の優美な風俗への憧れは当時も今も希薄ですが、すでに研究が成熟していたために、物語を読み解くこと自体を議論できたのが、すこぶる楽しかったのです。それに何といっても文章そのものに読み応えがあって、これは素晴らしいと、いたく魅了されました。
 
  
 成立から千年を過ぎ、その間に不断に研究が重ねられてきた『源氏物語』ですから、「まだ研究することがあるの?」と問われたりします。日本の古典の中では最も研究者人口の多い源氏研究は、あらゆる分野に先駆けて研究手法が試されます。研究上の流行は十年単位くらいで移り変わり、時に批評理論の実験場ともなります。だからといって、借り物の理屈で論じても、まったく楽しくありません。あるいは研究史的に進んだ源氏研究で創られたパラダイムを、『うつほ物語』や『狭衣物語』に援用するのも退屈です。どこかで聞いた論法の、対象を移し替えた二番煎じは、やはり興醒めです。
 結局のところ、自分で向き合う対象から、自力で何らかの論理や本性を掴み取り、その言葉の運動にふさわしい方法を捻りだし、いかにして新たな言葉で表現するか――、課題はそこに尽きます。ほとんどの場合、対象そのものの魅力を超えた説明は困難で、時にその面白さや美しさをぶち壊すだけに終わるのですが、それをも恐れず、既存のパラダイムを知りつつも、その枠組みに収まりきらない新しいものの見方を提案してみたいものです。
 たとえば「身」は、しばしば「心」と二項対立的に理解されますが、実際の文脈では「人」や「世」とも対立的に現れます。「身」という一つの言葉が、時に自らの「心」と向き合い、時に他者である「人」や「世」と対峙する、そして「世」という語もまた伸縮自在に、世間の意にも男女の仲の意にもなる、そんな認識の形が面白いと感じます。
 またたとえば、光源氏がまだ少女の紫の上の「幼き御後見(うしろみ)におぼすべく」、とお世話役を願い出ると、不承知だった少女の祖母も死を目前にして「数まへさせたまへ」、数の内に入れてください、と将来を託します。どちらも結局は「面倒を見る」の意でありながら、互いに自らを卑下して相手に懇願する際には、異なる言葉を用いるのです。
 ささやかな言葉の選択や文脈や話の展開の中に、その時代ならではの発想がある、そうした言葉や筋立てへの理解を一つ一つ積み上げながら、次第に総体的に、当時の人々が物事をいかに捉えていたか、その世界観に接近してみたいのです。
 最近では、データベースが整備され、かつてないほどの多くの資料や事例を瞬時に見られるようになりました。重要度の高い資料と低い資料とが等値に並べられてしまう情報の氾濫の中から本質を掴み取るのは、以前に比べて格段に困難です。そうした現代であればこそむしろ、ただただ繰り返し作品の言葉の連なりを反芻し、文脈を解きほぐしながら、その背後にある思考の形を掴み取るほかありません。
 新しい文献や資料やモノと向き合うことで拓かれる研究に学界の関心が移っている昨今、私はいまだに、『古今集』『伊勢物語』『源氏物語』を素朴に読み続けています。多くの人に味読され、論じ尽くされてきたからこそ無限の解釈の可能性を孕んでいて、何度も咀嚼し直す中に、新たな発見の得難い醍醐味があるはずだから……、いえ、それもこれもただの言い訳で、流行り物をよそに一人で押し入れに引き籠るように何度も読んでは夢想にふけっていた子供の頃から、横着にして、さして成長していないだけなのでしょう。
東京大学・教員紹介ページ
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