文学部とは、人が人について考える場所です。
ここでは、さまざまな人がさまざまな問題に取り組んでいます。
その多様性あふれる世界を、「文学部のひと」として、随時ご紹介します。
編集部が投げかけた質問はきわめてシンプル、
ひとつは「今、あなたは何に夢中ですか?」、
そして、もうひとつは「それを、学生にどのように伝えていますか?」。

塚本 昌則 教授(フランス語フランス文学研究室)

第1の答え

今の若い人たちにとっては地味かもしれませんが、活字の世界です。五十年経ってもそこから抜け出られません。本を不意に手に取って、読みはじめるとやめられない──私の場合、そんな状態になって初めて、文学作品を相手にしている実感があります。文学には、絵や建築のように、外から見て確かめられる形はありませんが、活字のどこかに異界への扉があり、いったんスイッチが入るとあらゆる文字が共鳴装置となってひとつの世界が立ち上がるのです。かならずしもたくさん読むという意味ではなく、あまりにいろいろ思いすぎて、なかなか先に進めないということもよく起こります。

とりわけ熱中しているのは、フランス近代文学に広く見られる「わからない」というテーマです。私の研究しているヴァレリーは、理解できないという状態をしばしば文章の出発点にします。他の星から落ちてきた人のように、身のまわりで起こっていることが何ひとつ理解できない──これがヴァレリーの描く、思考する人の姿です。同時にこの作家にとって、うまく定義された「わからない」という状態は、考えもしなかった細部を精密画のように捉える技術にもなっています。この意味での「愚かさ」は、フロベール、プルースト、クロード・シモン、ジュリアン・グラック等の作家にも見出すことができます。彼らは、この世界を自分とは無縁のものとみなす眼差しをそれぞれ独自の形で持っていて、それがこの世の事象を鮮明で、不思議な形に造形する推進力になっています。語りは流麗な物語の口調とはならず、断片的、間歇的で、反復や矛盾の多いものとなりますが、驚異となった世界を前にぼう然とたたずんでいるという点では一貫しています。

なぜこれらのフランス作家たちは、決定的な知識や思考の体系を追究するのではなく、ひたすら宙吊りの状態にとどまろうとしたのか。いくつかの角度からアプローチしていますが、謎は尽きません。確かなことは、目の前に広がる光景に見とれ、何でもない音に耳をかたむけるこの姿勢には、「明晰さ」と「愚かさ」が表裏一体となっているフランス文学のエッセンスがあるということです。どれほど読んでもさらに読みたいものが見つかるばかりで、文学は底なし沼のようです。

 

第2の答え

結局伝わるのは、テクストを間にはさんで教師と学生が向きあう場があるということだけではないかと思っています。

自分が学部三年生だった頃を考えると、大学に入ってから第三外国語で勉強しただけの言語で、テクストをすらすら読めるようになるとはとても思えませんでした。ただ、よく読める人間が周囲にいる研究室という環境は、外国語の学習にとって大きな利点があります。いずれスイッチが入って読めるようになるというイメージがあるので、運動競技同様、後は身体を動かしてそのイメージを現実化するだけです。その際、偶然出会ったテーマがいかに重要かということも痛感します。進学した年の夏に、ヴァレリーの夢に関する断章が翻訳され、たまたま読んだら、とにかく引きこまれました。結局何年もかけて、写真複製版で二万六千頁の手書きの断章を読むことにもなりました。直接関係のないテクストを読んでいても、ヴァレリーの夢に関する断章で感じたダイナミズムと同じものを見出すことがあります。「わからない」という研究テーマもここから来ています。膨大な文字の世界に入っていく自分なりの切り口を得たということなのでしょう。

そんな世界に迷いこんだのは、知らない言葉で書かれたテクストを読む場というものに不思議な力があったからです。今は教師として、できる限りの準備をして授業にのぞみますが、学生の前で話していると、準備の時には考えもしなかったいろいろなことに気がつきます。とりわけ話していて、何かが足りないと感じるときがチャンスです。学生のほうでも準備してきたものとは違う何かをよく見つけるようです。初修外国語で学んだ言語で書かれたテクストは、曖昧で判断のつかない箇所がたくさんあり、いろいろ仮説を立てながら読み筋を見つける必要があるので、実践のなかで何かを発見することが本当によくあるのです。

特別な共鳴を引き起こすテーマに出会ったら、楽しさは何倍にもなります。結局、学生に伝わるのは、愚直にテクストを読む場所があるということ、そしてたまたまおもしろいと思ったことは、その後もずっとおもしろいということではないでしょうか。

 

 

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