文学部で学ぶとは

ひとは、生まれ、与えられた時のあいだを生き、やがて年老いて、たとえば病をえて、この世界から立ちさってゆきます。ひとはみな、かぎられた時の幅のなかで生を紡いでいる。その意味で人間とは、なによりも時間的にかぎられた存在、つかの間の時という有限性に取りつかれた存在です。

人間はまただれであれ、現在に生きるしかすべがない存在です。いま・ここ以外に、ひとの生きる場所はほかにない。べつの場所を夢みることがあったとしても、ひとがそれを手にすることはありません。それでは人間はただ一定の時間のうちに封じこめられ、現在のただなかに囚われているだけの存在なのでしょうか。

たとえば、こんなことを考えてみましょう。素数が無限に存在することは、古くから知られていました。ユークリッドの『原論』のなかに美しい証明が見られます。その証明に私たちは、いま・ここでふれることができる。これは、それだけでも、信じられないくらい素晴しいことではないでしょうか。私たちひとりひとりが、じぶんに与えられた現在において、時の流れを超えたなにごとかにふれているのです。

文学部は、思想文化、歴史文化、言語文化、行動文化という四つの学科からなっています。四つの学科はいずれも置き換えのきかないこの現在と、「いま・ここ」という限定された時空を超えたものとの両者にかかわっています。もちろんそのかかわりかたはさまざまで、現在とそれを超越したものとの、どちらに主要な関心をいだくかをめぐって、彩りもことなってゆくことになります。

かわることがないのは、いま・ここで、現在を超えるものとかかわろうとする姿勢です。古いテクストにふれるとき私たちは、いま・ここを超えでようとしています。現在にはぞくしていないテクストを織りあげ、承けついできた者たちが、時のかなたから私たちに呼びかけてくるからです。いま・ここで問われているさまざまな問題を、たとえば人間の行動という観点から根本的に考えようとする場合にも、私たちは現在を越える視点を必要とします。目のまえにひろがる現実のただなかに埋もれているかぎりでは、現代のすがたについてすら、それを充分にとらえることができないからです。

たんに時の流れをさかのぼってゆくことが、問題なのではありません。現在の延長上に未来を先取りすることだけが求められているわけでもないでしょう。時間をただ引きのばしてゆくことは、いずれにしても、いま・ここの延長上に世界を見とおすことにすぎません。それは、じぶんがたまたま生まれおちた時代のなかで自足してしまうことに繋がっています。

求められているのはなんでしょうか。それはたぶん、現在のただなかにとどまりながら、過去からの声に耳をすませて、未来への兆しを見てとることでしょう。それこそが、人間が時間をなにほどか超越してゆく途でもあるように思います。

永遠とはなんなのか、ほんとうはだれも知ってはいません。ただ、人間はむかしから、時間を無限に延長することではなく、現在に対していわば垂直に立ちつづけることを永遠の似像と考えてきました。文学部の学問はすべて、過去からの語りかけを聞きとり、未来への兆候に身をひらこうとするものです。しかもいま・ここにおいて耳をすませ、目を見ひらこうとするいとなみなのです。その意味で、文学部の学問とは、時間的な存在である人間が、時の流れを超えて、永遠を垣間見ようとするこころみにほかなりません。時間にぞくする存在である人間が、しかし時間を超えようとする、この魅力的ないとなみに参加してみませんか。

文学部長・研究科長(2015-2017) 熊野 純彦