#018
2017年 韓国朝鮮文化研究専攻 博士学位取得
株式会社金曜日社長兼『週刊金曜日』発行人
私は1961年に日本で生まれた在日コリアンです。父が在日一世、母が在日二世なので、自分では二・五世ですと言っていますが、北朝鮮や韓国で暮らしたことはなく、完全に日本語ネイティブです。小学校から高校まで朝鮮学校に通い、青山学院大学経済学部経済学科(第二部)卒業後、1986年に朝鮮総聨の機関紙『朝鮮新報』の記者となり、主に韓国・北朝鮮関係の記事を担当しました。2002年9月17日、平壤での金正日・小泉純一郎氏による日朝首脳会談で日本人拉致を北朝鮮が認めたことは、それまでの北朝鮮の「拉致はしていない」という主張をそのまま記事にして伝えてきた私にとって衝撃でした。「拉致は捏造」と書いてきた記者として責任を痛感し、やめるしかないと考えるようになり、2006年に母の看病に専念することを理由に12月20日の45歳の誕生日に退職しました。翌年、母が亡くなり、ジャーリストではなく研究者として北朝鮮をじっくり勉強してみたいと韓国朝鮮文化研究専攻を受験し、入れていただき、9年かかりましたが、博士号をとることができました。『週刊金曜日』の編集長を経て、2024年9月に株式会社金曜日社長兼『週刊金曜日』発行人に就任いたしましたが、この大学院での9年間があったからこそだと思っています。そして、いろいろな意味でのマイノリティであることを強みに生きています。
家庭では日本語で話していましたが、高校までは朝鮮学校に通っていたので、学校の授業はすべて朝鮮語ですし、生徒同士も朝鮮語で話さないといけないので言語や文化的なことは自然に身についた感じです。私たちの時代は、「高校を卒業したら朝鮮大学校に行きましょう」みたいな感じで、日本の大学に行くこと自体を先生方もあまりよく思わない感じだったし、受験できる日本の大学も非常に限られていました。ただ、朝鮮大学校は寮生活なんです。集団生活が大嫌いだったので、それは耐えられないと思って日本の大学を目指しました。日本の通信制の高校に入り直して大学の受験資格をとりました。
大学は、青山学院大学の経済学部経済学科(第二部)です。学費等は自分で全部賄わなければいけなかったので、週5日、昼間はアルバイトをして夜は学校に通う、みたいな生活でした。父は『朝鮮時報』の記者から1986年に亡くなるまで朝鮮総聨の国際局で働いていましたし、母も『朝鮮画報』というグラビア誌に勤めていたこともあってか、私自身も文章を書くのが好きだったですね。子どものころの夢は小説家だったのですが、そこまでの文才はなく、大学時代、朝日新聞の記者だった本多勝一さんの本を読んでいて、すばらしいルポだな、自分もジャーリストになりたい、と思うようになりました。
『朝鮮新報』の記者になり、約20年間勤め、特派員として1996年、2003年に平壤にも滞在しました。ただ、ジャーナリストと言っても『朝鮮新報』は朝鮮総聨の機関紙なので、北朝鮮寄りの論調です。私自身は、北朝鮮のしていることに疑問を感じることもあったのですが、拉致問題が決定的になって、「拉致はあり得ない」と私自身も書いていたこともあり、責任をとってやめるしかないと考えるようになり、退社しました。
母が亡くなったあと、何をしようかと考えていたときに、東京大学に韓国朝鮮を専門に学ぶ韓国朝鮮文化研究室があることを知り、入りたいと思いました。大学で勉強した経済という比較的数値化しやすい領域で、北朝鮮にアプローチできないかと考えたからです。実は、落ちるだろう、と思っていたのですが、入れていただきました。東大は日本で一番の大学です。研究室が赤門総合研究棟にあったので、いつも赤門を通るのですが、安田講堂や図書館や歴史のある古い建物を見て、ここに来ることができて、すごくうれしかったです。修士は歴史文化コース、博士に進学したときは言語社会コースでした。修士課程の指導教官は早乙女雅博先生、博士課程の指導教官は本田洋先生です。
20年間、社会人として仕事をしてから大学院に入り直したので、ずいぶん時間がたってからまた勉強する場に戻ったという感じです。ゼミは厳しくて、文献もたくさん読まなくてはいけません。韓国語はできるのでそれほど難しくなかったのですが、英語はたいへんな思いをしながら勉強しました。発表する機会もけっこうあったのでいつも準備していかないといけない。
実は、大学院入試の面接のとき六反田豊先生から「アカデミズムとジャーナリズムは違うと思いますが、あなたはどう違うと思いますか」と聞かれたことが印象に残っています。もちろん似ているところもありますが、私個人の考えでは、ジャーリストは人の話を紹介したり現場のことを正確に伝える人のこと、アカデミアはそこで終わるだけでなく、分析し、それによって仮説を立て論証していく作業をする人です。その辺の違いが大学院に入ったころの自分にはわかっていなかった。修士のときは「論文調になっていない」とよく指摘されました。
博士号をとるまで、大学院に9年いました。
指導担任の本田先生は、チョー厳しいです。ここまで言うか、くらいのコメントがバーッと返ってきて、序論も9回くらい書き直させられました。だけど、本田先生は私のためにすごく勉強されてアドバイスや、ご自身が納得いくまで指導しようとしてくださった。今となってはあの厳しさがあったからきちんとした文章が書けるようになったと感謝しているのですけどね。
私は、在日コリアンであることを隠さずに生きてきました。朝鮮学校にチマチョゴリの制服を着て通っていましたし、何か言われても別にそれが差別だとあまり思わなかった。ただ、日本社会に入って、少し遠慮がちにされることに、壁をつくられている、と感じたことはありました。別に私の前で北朝鮮の悪口を言ってもかまわないですし、思ったことを言ってくれればいいのです。それは大学時代も同じように感じました。しかし、大学院に入って若い友人たち、年齢的には私の娘みたいな年頃の女の子たちは、私が在日コリアンであることに何の壁もなく付き合ってくれ、私の論文に対してきちんと批判してくれました。私が北朝鮮にフィールドワークに行って、その結果を発表すると、質問やら、厳しい指摘がありました。これはとてもうれしかった。
私は、大学を卒業後、朝鮮新報社という在日コリアンのコミュニティに就職して20年もいたので、一種、温室的な世界で過ごしていたと言えます。日本社会の人たちと接触する機会があまりなかったのですが、大学院時代は私にとっての転換期でした。修士のときには卒業旅行を同じ学年の友達4人と出かけましたし、大学院時代の友人たちとは今も付き合っています。
実は、博士号をとれば大学の教員になれる道があるのではないかと思って、本田先生の厳しい指導に耐えながら学位をとったのですが、いろいろな大学に何回応募しても書類で落とされました。これは年齢的なことももちろんあると思いますが、そもそもポストの数がないということなのですね。大学教員って経験がないと非常勤講師とか正規の専任になれないので、必死にやりましたが、朝鮮語や韓国語の教員のポストはネイティブな人たちがとっていくという感じで、最後は、もう諦めた、という感じでした。
韓国朝鮮文化研究室の事務補佐員として週2回ほど働いていたときに、『週刊金曜日』の前の編集長が「アルバイトで働きませんか」と声をかけてくれて、2017年からアルバイトをして、2018年に編集部員・記者として入社しました。この年に、博士論文をもとにした『麦酒とテポドン』を出版しました。
ちょっとおかしなタイトルですが、北朝鮮というとミサイルとか金正恩が、ということばかり取り上げられますが、私が博士論文を書く過程で見聞きした北朝鮮の人々の暮らしや考え方、経済のことを伝えたいと思ったのです。北朝鮮って意外にビールがおいしいのです。北朝鮮には生ビールはあまりなかったのですが、大同江(テドンガン)ビールの生ビールはおいしい。ビールを飲んでヤンコチ(羊の焼き肉)や平壤冷麺を食べに来てください、と言えば、インバウンドが増えると思うのですね。テポドンは北朝鮮が最初に打ったミサイルの名前です。アメリカと交渉するためにミサイルを打ち上げることは国の政策としてあるのかもしれませんが、それより一般市民の生活のために経済を活性化してほしいと思うのです。この本のあとがきには本田先生への謝辞を書かせていただきました。
『週刊金曜日』では編集長を選挙で民主的に決めようということになり、2021年11月、初めて選挙を通じて、編集長に就任しました。部数がなかなか伸びないことなどもあって、編集長として部員から批判されることもありました。中にはなかなか受け入れ難い批判もあったりしましたが、私も気が強い性格なので、やり合ったりとかね(笑)。ただ、在日コリアンであり女性であるというマイノリティであることを強みに生きてきている、ということは私にとって良かったのではないかと思います。
私にとって、大学院に入ったことは人生の転機になりましたし、本当に良かったと思っています。それは、ジャーナリストとして生きてきたけれども、物事を考えるときにもっと緻密に知識を組み立てる方法を大学院で学び、身につけることができたことだと考えています。これは社会に出たときにとても役に立つ。今、私は編集長を務めていますが、編集長としていろいろな方とお付き合いが幅広くできるのは、やはり大学院に入って9年間学んだからだと思うのです。私は大学院で、年が離れていてもほんとうに隔てなく付き合ってくれる友達をつくれました。大学院って、学問も深められるし、生涯の友達もつくれる、そういうところだと思っています。東大の学食は安くておいしいですし、大学院に入っていいこと、たくさんあります、赤門ラーメンも食べに来てください!
インタビュー日/ 2024.6.28 インタビュアー/ 柳原 孝敦、三枝 暁子、浅野 倫子 文責/ 松井 千津子 写真提供/文 聖姫
1986年3月 青山学院大学2部経済学部経済学科卒業
1986年4月 株式会社朝鮮新報社入社(記者職)
2006年12月 同社退職
2008年4月 東京大学大学院人文社会系研究科修士課程(韓国朝鮮文化研究専攻)入学
2017年7月 東京大学大学院人文社会系研究科修士課程(韓国朝鮮文化研究専攻)博士学位取得
2018年5月 株式会社金曜日に編集部員・記者として入社
#001
森下 佳子さん
野放し状態で「ものの見方を学ぶ」
#002
前田 恭二さん
人間のありようとして美を求める
#003
佐治 ゆかりさん
自分がやりたいことをちゃんとやろう
#004
内田 樹さん
乱世にこそ文学部へ!
#005
羽喰 涼子さん
私は編集者の道を行く
#006
大澤 真幸さん
そして同じ問いに立ち返る
#007
佐藤 祐輔さん
ビジネスにとっていちばん大事なのは
「正義」だと思うんです
#008
畑中 計政さん
先生ってカッコいい
#009
越前 敏弥さん
"翻訳"という仕事にめぐり合う
#010
濱口 竜介さん
やってみる。6割できたらいいと思う
#011
石井 遊佳さん
根源的なものほど一見無用物
#012
岡村 信悟さん
文学部で学んだ比較不可能な価値の共存
#013
想田 和弘さん
観察映画という生き方
#014
徳田 雄人さん
「失敗しない」なんてもったいない
#015
金 そよんさん
答えがないなんて素晴らしい
#016
和田 ありすさん
人文学、社会科学の研究を応援する
ために進んだ道
#017
大島 義史
自転車で未知の世界を走る
#018
文 聖姫
マイノリティのわたしを生きる