文学部卒業インタビュー #010

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濱口 竜介さん

濱口 竜介さん

濱口 竜介さん

2003年 文学部美学芸術学専修課程卒業 映画監督

大学に入ったとき、自分というのはほんとうに何も知らずにここまで来てしまったんだな、周りは優秀な人たちばかりだな、と思ったんですけど、実際、その感覚は全然間違っていなくて、10年、15年たって、やはり「すごい」と思っていた人たちが社会的に頭角を現していくことを見るのですが、僕自身はまったく優秀ではなかったですね。ただ、僕がずっと思っていたのは、とにかくやってみればいいんじゃないか、6割でいいんじゃないか、と。今回は6割できた。次、挑戦して、また6割くらいなんですけど、その6割の幅がどんどん大きくなっていく。結果的には当初できないと思っていたこともできるようになっている感覚があって、自分が必要以上に考えることのない人間でよかったな、少なくとも、それによってここまで進んでくることができた、と思っています。 もちろん、「映画」という仕事を選んだのですから、人に見せられるという及第点は出さないといけないと思うのですが、基本的に映画作りは現実を相手にする以上、思い通りにはいかないものだ、という感覚があります。ただ、思い通りにいかないということで、ほんとうに頭のいい人はすぐにやめてしまうのではないだろうか、と思うときもあるんですね。だから、「思い通りにいかない」ということを大前提にしてやることは、とても大事なことなのではないだろうか。そして、そのときに、自分のことをあまり頭がいいと思っていないほうがずっと楽だろうという気はします。そうすると、今の環境にいられることにある種の感謝の念も湧いてくるんです。

  • 「イヤじゃないものを選ぶ」

    父親が仕事の関係で2年ごとに転勤していたので、高校に入るまでの小学校、中学校は転校ばかりで、まあ、たいへんと言えばたいへんでしたね。小学校のときは勉強がそれなりにできたので、「ぽっちゃりした子が転校してきたけど、実は頭がいいみたい。本人曰く、2年くらいしかここにはいないらしいよ」という感じでクラスの中である種のキャラづけがされ、別にイヤな思いをしたとかいうことはほぼないんですけど、場所が変わるので、全国どこに行っても変わらないようなもの、漫画とかテレビとかゲームとかが生活の中心でした。それに、昼休みにサッカーでディフェンダーとかやって股抜きされるよりは、図書館にいるほうがずっと好きでしたね。
    東大を受けたのは、単に父も兄も東大だったんです。同じ家庭にいると、特に兄との間にそこまで学力差があるというふうには思えなかった(笑)。それであまり多くを考えずに受けたんですけど、兄は現役で行って、僕は1年目、落ちたんです。「やっぱり、あの当時の学力で受かるはずがなかったな」と浪人中に勉強したときに思いました。
    東大は最初から文科Ⅲ類志望です。積極的な理由というものがあまりなくて申し訳ないのですが、法律にも経済にも興味はないということは自分の性質としてはっきりわかっていたし、理科系のものは苦手である。僕の選択の基準は常に「イヤじゃないことを選ぶ」です。逆に言うと、すごくイヤだなと思うことがものすごくたくさんあるんですけどね。この世の中で必ずしも役に立つと明確に見なされてはいないだろうが、自分にとってはそれなりに重要だ、と感じられるものができるのがそこである、ということだったんだと思います。

「今まで生きてきたところと全然違う場所に来てしまった」

僕が入学した1998年は蓮實重彦先生が総長です。今考えるとものすごく恥ずかしいんですけど、僕は“蓮實重彦”というお名前も知らない状態で、あのものすごく長い式辞を聞いて眠りこけるというような(笑)。それが一番最初の、あ、全然違うところに来てしまった、という感じがした初日だった気がします。 文Ⅲに入ったときの印象というといろいろあるんですが、単純に言うと「世の中にはこんなに頭のいい人がたくさんいるんだな」ということを、大学の5年間をかけて知っていくという感じだったと思います。どちらかというと、おののきましたよ(笑)。映画研究会に入ったんですが、ヴィム・ヴェンダース(*1)とか、ビクトル・エリセ(*2)とか、皆が当然のように知っている映画監督の名前を、僕は全然、知らないわけです。なんで十八、九でそんなことを知っているんだろうと。先輩方はおそらく蓮實先生の映画論を受けていた最後の世代だと思うのですが、ある種の抑圧というか、プレッシャーを感じつつも、すごくカッコいいなと思い、サークルに入り浸っていましたね。
そして、自分の興味のフォーカスが基本的にほぼ映画だけに向いていくということを感じたので、美学芸術学研究室なら映画の勉強ができるのではないかと思い、進みました。サークルからも同期で3、4人行ったんですが、実は、その当時、映画の授業は一切なかったんです(笑)。あくまで卒論のテーマとして映画が選べるというだけであって、あとは美学全般の話であるとか、音楽の話が多かったですね。
佐々木健一先生のディドロやポール・ヴァレリーの原典を精読するというゼミはよく覚えています。僕は1、2年の第二外国語は中国語だったんですが、フランス語、ドイツ語ができないと話にならないよ、と言われ、慌ててフランス語を2年の後半から勉強しました。ですから、授業を聞いていても最初はチンプンカンプンだったんですが、ゆっくりゆっくり進んでいくというか、1パラグラフか2パラグラフに1時間使う。一つの言葉、一つの単語に対して、このような解釈もありえるし、別の解釈もありえる、でも、この言葉の語源はラテン語のこれであるから、このような含意もあるのではないか、というようなことをひたすらやっていく。僕が当時それをちゃんと理解していたかは心もとないんですが、こんなテキストの読み方があるのか、ということを驚きと共に受け止めた感じがあります。テキストというものは音読をするのとそう変わらない速度で読むものだと思っていたけれど、このような立ちどまり方があるのか、ということを教えていただいた。

それと、美学芸術学研究室では、当時、木村建哉先生が助手をされていて、自主的に映画ゼミを開いて、卒論を映画で書く人たちをフォローアップしてくださっていましたね。僕はアカデミックな道には進まなかったんですけれど、アカデミックなアプローチというのはこういうものであるということや、そこにいる人たちの居ずまいというか、この奥には何かがあるのだ、ということを示してくれる、とても濃密な時間を過ごせた気がします。ですから、僕の映画監督としての出発点は美学芸術学研究室時代にあると言っていいと思います。木村先生の自主ゼミも大きかったし、映画というのはこのようにして「観る」ものだということを知りました。「観る」ことを通じて、「つくる」サイクルを繰り返すことができた文学部時代だったので、完全に自分の土台だと思います。
実は、4年生のときに、映画監督になるといってもどうすればいいかわからないし、就職もピンとこないしという迷いの中で大学院の試験を受け、「君は十分なものを備えていない」とかなり直接的に言われて、「まったくそうだと思います」ということで諦め、留年しました。卒論は「ジョン・カサヴェテスの時間と空間」(*3)です。「カサヴェテス2000」という特集があって、『ハズバンズ』『ミニー&モスコウィッツ』『愛の奇跡』など、それまであまり観ることができなかった映画を観て、あ、こんな映画が世の中に存在するのか、と。4年のときに書いたものを留年したのでブラッシュアップして提出したんですが、それが研究室の紀要に載せてもらえたんです。すごくうれしかった。自分としては「この研究室の紀要に載せてもらえるようなものを書くことができたのか」ということは誇らしいというか、この先生方が読んで、これは自分たちのある種、歴史の一部として加えても構わないと思ってもらえたというのはすごくありがたかったと思っています。それと、映画研究会の卒業制作というわけではないのですが、一つのけじめとして『何食わぬ顔』という映画をつくりました。今でもたまに上映したりすることがありますが、自分の中では、人に見せてもいいかなと思える最初のものです。
僕はドイツ語をとっていなかったのですが、あるとき、藤田一美先生に呼ばれ、「君は映画が撮りたいのか」という話になって、「そうです」「じゃ、どうするんだ?」「どうしたらいいか、ちょっとわからないんです」という話をしていたら、「僕が美学の卒業生で映画監督になった人間を知っているから、その人に紹介状を書いてあげる。助監督をやってみてはどうか」と、卒業後、助監督としてつかせてもらうということが決まった、という感じでした。いい先生でした。 藤田先生に紹介していただいた監督のもとで助監督をしたんですが、僕はあまり助監督として優秀ではないというか、現場のスピードや文化とか、そういうものも含めてついていけず、全然うまくいかなかったんですね。それで助監督も2現場くらいでやめて、そのあとどうしようかなと思っていたときに、東京藝術大学大学院の映像研究科がちょうどできたので、結局、大学院に行くことになりました。ただ、それも第1期の試験は落ちているんです。僕、一回は落ちる、みたいなことをひたすら繰り返しているんです(笑)。

  • 「映画監督の仕事」

    今、映画監督をしています。現場でひたすらOKか、NGかを出すという仕事なのですが、そのときの判断基準がだんだん細かくなってきているような感覚が自分ではあって、最初はこの人の「顔」があればいいというか、カメラに愛されやすい顔と自分が感じる人をキャスティングしていたのですが、そのうちに「声」のほうがより多くのことを伝えてしまうものかもしれないと思うようになりました。なので、演技としてとか、声楽的に優れているとかいうことではなく、セリフを言ってもこの人の声はほんとうのことを言っているように聞こえる人をキャスティングするようにしています。今やっていることがフィクションであるにもかかわらず“ほんとう”に見えたら、それはけっこうすごいことである、と思ってるんですが、そういう声の人を選ぶようになりました。そして、自分がOKだと思えるような「顔」「声」「動き」をどうやったら引き起こすことができるのだろうかということを今やっているし、そのための自分のツールとして「言葉」を扱っている。ある「言葉」ではそれは起きないし、ある「言葉」を言い合うような役者たちがいればそれが起きたりするという感じがあるので、それを自分の興味の主たる対象にしています。

「私にとっての“テキスト”」

僕は演出をするときには、常に“テキスト”というものを使うようにしているのですが、書かれてあるセリフを覚えて、それをものすごく普通に言ってもらうということをしていて、しかもそれが話し言葉のように聞こえるということをしようとしている。即興ではたどり着けない“演技”というものが存在していて、それはテキストを通過しないと現れてこないと思っているのです。
テキストに書かれることによって言葉というのは一度死んでしまうようなところがあるけれど、テキストを書く際には何度も書き直すという過程が発生します。これは違う、と思ったものを何度も何度も書き直していく。そうすると、ある種、しゃべり言葉ということではないけれども、なにか精練された言葉というものが残っていく。それは、今、この瞬間というだけではなく、「時間を重ねた言葉」というものが残っていっているのだと思うのです。そのテキストを役者の人に自分のからだを通して表現してもらうというようなことをしていると思います。佐々木健一先生の授業を「テキストを立ち止まりながら読んでいくものだ」と言いましたが、テキストにはそういう時間を貯蔵するような力というものがあるような気がしています。文学部というのは、そういうテキストに出会う場なんじゃないでしょうか。

(注)
(*1) ヴィム・ヴェンダース
ドイツの映画監督。1945年生まれ。『都会のアリス』(1974年)、『さすらい』(1976年)などの作品によりニュー・ジャーマン・シネマの旗手として注目を浴び、『パリ、テキサス』(1984年)、『ベルリン 天使の詩』(1987年)で世界的な成功を収めた。

(*2)ビクトル・エリセ
スペインの映画監督。1940年生まれ。きわめて寡作な監督で、長編作品は『ミツバチのささやき』(1973年)、『エル・スール』(1982年)、『マルメロの陽光』(1992年)の三本のみだが、国際的に高い評価を受けている。

(*3) ジョン・カサヴェテス
アメリカの映画監督。1929年生まれ、1989年没。ハリウッドで俳優として活躍しながら自主的な映画製作に情熱を注ぎ、『ハズバンズ』(1970年)、『オープニング・ナイト』(1977年)、『ラブ・ストリームス』(1984年)などを監督。即興による鮮烈な撮影スタイルによってのちの映画人たちに影響を及ぼした。

インタビュー日/ 2017.12.13 インタビュアー/ 野崎 歓 文責/ 松井 千津子 写真/ 藤山 佳那

追記:2022年に濱口さんの監督・脚本による映画『ドライブ・マイ・カー』が第94回アカデミー賞国際長編映画賞を受賞されました。

PROFILE

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濱口 竜介さん

濱口 竜介 (はまぐち りゅうすけ) さん

1978年、神奈川県生まれ。東京大学文学部卒業後、助監督や経済番組のADを経て、東京藝術大学大学院映像研究科に入学。2008年、修了制作『PASSION』が国内外の映画祭に出品され高い評価を得る。その後も、東日本大震災の被災者へのインタビューから成る『なみのおと』『なみのこえ』、4時間を越える長編『親密さ』(2012)など、地域やジャンルをまたいだ精力的な制作活動を続けている。『ハッピーアワー』(2015)でシンガポール国際映画祭最優秀監督賞、文部科学大臣芸術選奨新人賞を受賞。最新作『寝ても覚めても』はカンヌ国際映画祭コンペティション部門正式出品、2018年9月公開予定。

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