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途中下車の人生――レニングラードからザルツブルクまで――

ウラジーミル・ヴェルトリープ氏
(Владимир Вертлиб / Vladimir Vertlib)

司会 ヴァレリー・グレチコ Валерий Гречко(東京大学文学部講師)
コメンテーター 沼野充義

日時 2009年11月13日(金)
午後1時30分~3時
場所 東京大学(本郷キャンパス)3号館7階 スラヴ文学演習室
113-0033 東京都文京区本郷7-3-1

 ヴラジーミル・ヴェルトリープ(フェアトリープ)氏は、オーストリア文学を代表するドイツ語作家の一人ですが、母語はロシア語です。今回は特別にロシア語で、自分について、また自分の作品について語っていただきました。

Владимир Вертлиб / Vladimir Vertlib プロフィール 1966年レニングラード生まれで5歳のとき、ユダヤ系ソ連市民として一家で移住し、その後、定住の地を求めてイスラエル、ウィーン、イタリア、オランダ、アメリカなどの国を目まぐるしく転々としてきた。その驚くべき遍歴は、自伝的小説『途中下車の人生』Zwischenstationen (1999,ウィーン・ミュンヘン。ロシア語訳はОстановки в пути, 2009, ペテルブルク)に克明につづられている。

 

その他の代表的な作品にDas besondere Gedächtnis der Rosa Masur(『ローザ・マズアの特別な記憶』長編、 2001年)、Letzter Wunsch, Roman(『最後の望み』 長編、2003年)、Mein erster Mörder(『私の最初の殺人者』短篇集、 2006 年)など。オーストリア文学賞、シャミッソー賞、アントン・ヴィルドガンス文学賞など、重要な文学賞を次々に受賞し、現在、最も注目されるオーストリア作家の一人。

主催 東京大学大学院人文社会系研究科・文学部スラヴ語スラヴ文学研究室/現代文芸論研究室


講義の記録

『途中下車の人生』朗読と解説

私は1966年にレニングラードに生まれ、イスラエル、アメリカ、オーストリアなどの国々に住みました。ロシア語は母国語ですが、アメリカの小学校に入学し英語で授業を受け、その後はオーストリアでドイツ語を主に使うようになり、現在ではドイツ語が自分にとっての主要言語であると感じています。

『途中下車の人生』をはじめ私の書いた多くの作品は自伝的要素が強いのですが、もちろん小説中のできごとすべてが事実に即しているわけではありません。

『途中下車の人生』からの断片

主人公は14歳、ロシアからアメリカに移住してきたユダヤ系家族の子です。この子の親は正式な職をもって連邦に認められた滞在者ではないため、なくてはならないはずのSocial Security numberすなわち社会保障番号を持っていません。

さて、読書好きなこの少年は、あるときボストン図書館を訪れました。劇場のように壮大でたくさんの本がそろった図書館に感動した少年は、図書館の利用者カードを作ってもらおうとしますが、そのためには社会保障番号と親の承諾サインが必要であると知り、愕然とします。ところが少年が「出直します」と言って立ち去ろうとしたところ、図書館員の女性は「覚えていないのなら社会保障番号は次回でもいいわよ」と言って少年の臨時貸し出しカードを作り、通常通りの三週間期限で本を貸してくれることになりました。少年は帰りのバスでも本の入った袋を撫でてみながら本を借りることが出来た喜びに浸ります。

三週間後、再び図書館にやってきた少年は本だけをこっそり返却しにきますが、彼のことを覚えていた図書館員に呼び止められ、社会保障番号を聞かれます。少年は両親の生年月日を足し算して作った架空の社会保障番号を書き込みました。それから顔写真を渡し、正式な黄色の利用者カードを手に入れました。

その夜、少年は眠れませんでした。社会保障番号偽造の罪で逮捕されたらどうしようと考えると、いまにも玄関のドアを開けて警察が入ってくるような気がしました。「そんなことになったら両親はすぐにこの国を追われるだろうし、僕はひとりで牢屋に入ることになるんだ。」少年は自動車の音が聞こえるたびに、ついに警察が来たか、と怯えていました。

そんな不安を抱えたまま数ヶ月が過ぎ、少年は図書館に通い続け、次から次へと本を読んでいきました。

しかしついに不法滞在であることが発覚し、一家がアメリカを追われるときがやってきます。出国の前日、少年は最後の本を返却しに図書館に行きました。

図書館員は少年を呼び止め、最近、年に一度の利用者データの点検が行われたこと、少年の社会保障番号が間違っていることを告げます。

少年の脳裏にはまた牢屋がよぎりますが、図書館員は「あなたの書いたのは、1899年生まれのおばあさんの社会保障番号よ」とからかい、帰りがけに「次回はちゃんと社会保障カードを持ってきてね」、と念を押します。

「はい。次に来るときに必ず持ってきます。」

少年は答えました。

作品について

この少年の感じ方や周囲に対する接し方は、私の少年時代そのものです。この作品が自伝的であるというのはそういう意味でのことです。話の筋は考えて作ったところが多い。当時の思い出や自分の気持ちの動きをもとに、それに見合うストーリーを探しました。最初はそうやって短編をいくつか書いていたのですが、組み合わせて長編小説に作り直してみたらどうかという助言を受け、そうしてみて出来たのが『途中下車の人生』です。

質問と回答

 父親に日記を見られ内容を咎められたことがきっかけで、父親に見られる用の日記と自分用の日記、それから「もしこんなことがあったら」という仮定の日記と、三冊の日記をつけるようになり、それが作家になるきっかけにもなった、という話について

あれはアメリカに住んでいた14~15歳の頃のことです。ただし三冊というのはちょっとした誇張で、実際は父親用と自分用の二冊が基本でした。その自分用のほうに、現状理解の続きのような形で、空想をつづり始めたのです。例えば、あの人はなんであんなに僕たちに冷たいんだろう、とかそういう理由を具体的に考えているうちに、気がついたら物語を創作していました。

そうして考え出された物語には、そのときの自分の気持ちやその場の雰囲気が克明に記されています。そういう意味で結果的に創作のほうが、ただ事実を並べるよりずっと真実に近くなるのです。

面白いことにアメリカで日記をつけ始めた頃はロシア語で書いていましたが、オーストリアに移住してからは英語で書くようになりました。そして本になったのはドイツ語なんです。

 それぞれの言語で記憶された思い出と、それが記録された作品について

アメリカでの記憶、特に誰かと交わした会話は英語で記憶に残っていることもあります。アメリカを舞台に話を考えていると英語でフレーズが浮かぶこともあります。けれどドイツ語で本を書くとき、それらの英語をドイツ語に翻訳しているわけではありません。私自身、本を書く過程で頭の中に起きていることをすべて自分で把握しているわけでもないので説明のしようがない部分もあるのですが、ただ、アメリカを舞台にして書いている場合、英語の言い回しだとかニュアンスとかは無意識にその部分のドイツ語に現れている可能性は充分にあると思います。

(まとめと訳 奈倉有里 スラヴ語スラヴ文学専門分野 修士課程)

講演をするヴェルトリープ氏(右)と司会のグレチコ氏(左)

ヴラジーミル・ヴェルトリープ
国際シンポジウムと東京案内を終えて

井上 暁子 (東京大学大学院総合文化研究科博士課程)

2009年11月、名古屋市立大学で2日間にわたり、ドイツ語を執筆言語とする(ないし執筆言語のひとつとする)作家5人を招いて、国際シンポジウム「アイデンティティ、移住、越境」が開かれた(主催は土屋勝彦教授を代表者とする科研費研究グループ)。パネリストのひとり、ヴラジーミル・ヴェルトリープ氏は、現代オーストリア文学を代表するロシア系ユダヤ人作家で、現在はザルツブルクに暮らしている。

ヴェルトリープ氏にとって「移住」は、物心ついた時にもう始まっていた。一家は1971年、彼が5歳の時、ソ連からイスラエルへ移住し、その後オランダ、イタリア、アメリカ合衆国など世界各地を転々とした挙句、1981年オーストリアに腰を落ち着けた。大学卒業後、本格的な創作活動に入った彼は、1995年『国外追放』でデビューし、その後『途中下車の人生』(1999)、『ローザ・マズアの特別な記憶』(2001)、『最後の望み』(2003)、『私の最初の殺人者』(2006)、『12日目の朝に』(2009)といった小説を発表している。

ヴェルトリープ氏は、作家自身の背景や移住体験を文学に取り込む一方で、宿命・民族・歴史・ヨーロッパ・個人の尊厳といったテーマと、正面から向き合ってきた作家である。彼の描きだす登場人物は、旧ソ連出身のユダヤ移民、ゲルマンとユダヤの血をひくチェコ人の父親をもつ女性、正統派ユダヤ人とみなされないが故に、ユダヤ人墓地への埋葬を拒絶された父をもつ男などで、いずれも過酷な現実の犠牲者である。それらの人々は、政治と運命に弄ばれるうちに、歴史の暗部にはまり込み、そこから抜け出すことができなくなっている。

ヴェルトリープ氏は、彼らにしばしば、自身や親の人生を回想する「語り部」としての役割を担わせている。氏によれば、「回想」のプロセスは、省略や解釈、記憶の悪戯に満ちていて、後から新たに「作り直す」行為である。皮肉・ユーモア・知性を織り交ぜた、簡潔かつ平明な文体で、氏は、登場人物の自伝的要素をリアリズムではなく、フィクションへ導いていく。「フィクションとしての自伝」は、彼の創作を特徴づける要素のひとつである。

作品における「自伝的要素」の扱いと並んで重要なのは、ヴェルトリープ氏が、背景や生い立ちに基づく尺度で測られることから、自由になろうとする作家である、という点だ。「ユダヤ系ドイツ語作家」「ユダヤ系ロシア人作家」「ロシア=オーストリア=ユダヤ作家」など、彼の氏名の前は様々な「前置き」がつけられてきた。それらの「前置き」のうち、どれが自分を、政治的社会的に「異質な存在」として定義づけ、どれが作品の文学性に対する、正当な評価を阻むのか。自分自身は、他人からどのように呼ばれたいと望んでいるのか。自分自身は、自身の文学をどう定義するのか。彼の創作は、外的・内的定義をめぐるそれらの問いと、切っても切れない関係にある。

名古屋のシンポジウムでも、ヴェルトリープ氏の報告は、「移民作家」に対する「名付け行為」の話から始まった。彼にとって、それは、単なる分類や定義以上の意味を持っている。というのも、名付けられることによって、自身にも作品にも、「異質性」のレッテルが貼られかねないからである。

シンポジウムで行われた彼の報告によれば、彼にとって「〈異質性〉そのものは、それほど重要なことではない。一番大切なのは、ワクワクさせる物語を生み出すこと。誰もが持っている情緒、思想、問題を描くこと。読者が自分自身を投影できるような作品を描くこと」である、という。

さらに彼は、「〈異質である〉と認識される過程と、〈自分は一体、何者か〉という問いへの取り組みは、アンビバレントな関係にある。それは、幼少の頃から、私にとって至極当たり前の状況だった。」と続け、「しかも、そうしたアンビバレンスは、私の文学に、大きなチャンスを与えてくれるものだった」と述べた。

報告の中で触れられた、もうひとつのテーマは、「混成語」としてのドイツ語使用であった。ヴェルトリープ氏にとって、ドイツ語はロシア語に次ぐ「第二の母語」だが、彼のドイツ語には、オーストリア方言独特の言い回しや、ロシア語のイディオムが入り込んでくる。彼はこの点について、「自分がドイツ語に対して持っている微妙な距離感は、言葉を新しい文脈に置いたり、新たに定義づけたりするチャンスでもある。私は、文章を壊したりつなげたりしながら、言語の新しい側面を照らし出し、移住の〈精神的な傷〉を、作家として、正確に表現しなければならない。それを表すのにふさわしい言い回しを、見つけなければならない」と述べていた。

「移民作家」の文学における混成語の使用は、とくに1990年代以降、研究者の間で精力的に論じられてきたテーマであり、言語の詩的効果や異化効果という観点から考察されることが多い。しかし、私が興味深く思ったのは、ヴェルトリープ氏が、ドイツ語に対してもっている距離を「チャンス」と呼びながらも、混成語使用の根底にあるのは、言語の異化に対する飽くなき欲求である、とは言わず、「移住の〈精神的な傷〉」と言ったことであった。

シンポジウムの後、私が彼に向かって、「移民ないし移民を背景とする作家の中には、〈ドイツ語作家〉以外の呼び名を好まない作家が多いが、あなたはどうか」と尋ねると、彼は、「定義されること、特定のグループに分類されることに、私は慣れている。人間であれば、そういったことを一切排除して生きていくわけにもいかない」と答えた。

もちろん混成語を使用する目的は、簡単に解明できるものではないし、「移住の〈精神的な傷〉」については、作品を通して論じられる必要があるだろう。しかし、ヴェルトリープ氏の指摘が、今日ドイツ語との距離を武器に執筆する作家の言葉として、貴重なものであることは間違いない。彼の言葉からは、様々な「定義」に晒される状況を、「移民作家」にとって避けがたいものとして受け入れながら、それを文学表現へ昇華させようとする作家自身の姿が浮かび上がるだけでなく、1990年代、ドイツ語で書き始めたスラヴ系作家特有の創作態度が垣間見える。

名古屋のシンポジウムを終えたあと、ヴェルトリープ氏は、東京大学で行われる講演・朗読会のため、一泊二日で東京を訪れた。「面白い建物が見たい、博物館や美術館を訪問するのでなく、街を歩きたい」という彼の希望に従い、私は、東京国際フォーラム、銀座にある世界最大級の玩具店「博品館TOY PARK」、築地市場、渋谷のスクランブル交差点、代官山の日本手ぬぐい専門店、歌舞伎座などへ案内した。

氏は、渋谷の街をゆく若者のファッションにも、銀座のきらびやかなに街並みにも、伝統的な柄の日本手ぬぐいにも、カラフルなサンリオのキャラクターにも、興味津々であった。東京国際フォーラムのガラスの吹き抜け天井や、築地で聞こえる威勢の良い掛け声や、渋谷のスクランブル交差点は特に気に入ったようだったが、ヤマト運輸のロゴマークが黒猫の親子である理由にも大笑いしていた。

渋谷スペイン坂の喫茶店で一休みしていた時、彼はふと、「この街で、僕は、本当の意味で『余所者』になる。だって、僕のことを知る人はいないから」と言った。普段、様々な「名付け行為」に晒される彼にとって、「異質な存在」になる機会は、案外少ないのかもしれない、と私は思った。「旅行者としてここにいる自分に乾杯!」――「余所者」は愉快そうにそう告げると、立ち上がり、スクランブル交差点の方角に向って歩き出した。

名古屋市立大学のシンポジウムで発言するヴェルトリープ氏