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ベルリンのロシアン・ディスコ:ロシア出身なのに、ドイツで大人気のドイツ語作家、自分についてロシア語で語る

ウラジーミル・カミーナー氏
(Владимир Каминер / Wladimir Kaminer)
 

司会 沼野充義(スラヴ文学/現代文芸論)

日時 2009年11月10日(火)
午後4時50分~6時30分
場所 東京大学(本郷キャンパス)3号館7階スラヴ文学演習室
113-0033 東京都文京区本郷7-3-1

 ヴラジーミル・カミーナー氏は、1967年生まれ、ベルリン在住の、いまやドイツでもっとも人気のある作家の一人です。しかし、同氏は驚くべきことに、ロシア語を母語とするモスクワ生まれのモスクワっ子です。

 

1990年にソ連を離れ、ユダヤ系難民としてベルリンに移住したカミーナー氏は、当初はドイツ語がほとんどできなかったのに、あっと言う間にドイツ語作家としてデビューし、活躍を始めました。最初の短篇集『ロシアン・ディスコ』(2000)はすでに50万部以上売れる大ベストセラーになっています。

ロシア・ソ連文化を背景に持つ「外国人」の視線と、様々な国籍の人々が入り乱れるベルリンの多様性を担うベルリン人の姿勢をあわせもつカミーナー氏のユーモアとアイロニーに満ちた作品は、いまや新しいドイツ語文学として多くのドイツ人読者に受け入れられています。

カミーナー氏は自分にとって新たに習得した言語であるドイツ語のみで創作・朗読を行い、ロシア語では一切作品を書いていませんが、今回の来日にあたって、特別に一度だけ、母語のロシア語で自分と自作について語っていただけることになりました。これはドイツでもまずありそうにない珍しい機会です。

 

主催 東京大学大学院文学部現代文芸論研究室/スラヴ文学研究室

カミーナー作品の邦訳

単行本はまだありませんが、以下の雑誌などに短篇が掲載されています。

  • 浅井晶子訳、『シェーンハウザー・アレー』から3篇(『Deli デリ』Nr. 0 、沖積社、2003年)
  • 増本浩子訳、『ロシアン・ディスコ』から6篇(沼野充義編『ポスト共産主義時代のクロノトポス』東京大学文学部スラヴ文学研究室、2005年11月、所収)
  • 秋草俊一郎・甲斐濯訳、『ロシアン・ディスコ』から3篇(『ユリイカ』2008年3月号)
  • 浅井晶子訳、『僕はベルリン人ではない』より5編+インタビュー(『すばる』2008年4月号)

講義の記録

1980年代から作家になるまでのこと

僕は1980年代軍隊にいたので、ペレストロイカの時代のことはよく知りません。軍隊から戻ってみると、軍隊に入る前の仕事で一緒だった演劇関係の友人達はオランダやオーストリアやデンマークなどに移住していました。僕もドイツを経由してデンマークへ行こうと思い、実際デンマークにも行ったのですがなんだか退屈で、またドイツに戻ってきました。

ベルリンの壁が崩壊した直後の東ベルリンは、すごいところでした。東側にいた人々はきっと近いうちにまた壁がつくられるだろうと思い、壁のない今がチャンスとばかりに西側へと移住していきました。一方西側の各国からは、無政府状態の街に、いままでとは違う人生を実現しようという若者達がたくさんやってきて、からっぽになっていたアパートに住み着き、カフェやバーを開きました。こういった店は単に酒を飲むための店ではなく、それぞれの文化が集う場所となったのです。

僕はそこでロシアでの軍隊生活ほかいろいろなことを語りました。はじめはそういった話を本にする気などまったくありませんでした。でもあるとき、出版社の方に僕の話を本にしないかと薦められました。その時に書いたのが『ロシアン・ディスコ』です。

母国について

僕の生まれ育った国、ソヴィエト連邦はもうありません。住んでいた家はもうないんです。学校はあるけれど、そこではもうあの頃とは全く違う方針に基づいた授業が行われています。だけど生まれ育ったあの国は僕にとって、母親のようなものです。母というのは、その行為いかんによって裁くべき存在ではありません。だからもういない母親であっても、愛するしかない。

セルゲイ・ドヴラートフについて

天才的な作家だと思います。僕はあの人の作品のドイツ語訳出版のために尽力しました。

在独ロシア人のためのロシア語作品を書こうと思ったことはあるか、という質問に答えて

ありません。僕は常に少数派より多数派を意識して小説を書いています。いくらドイツにロシア人がたくさんいるとはいえ、それはあくまでも少数派ですし、それに本を読む人間というのは人口よりもさらにずっと少ないものです。しかも、いくら在独ロシア人でも、本を読む人間であればドイツ語も読めるはずです。そういうことを考慮に入れた上でドイツで小説を書くのであれば、ドイツ語で書くのはごく自然なことでしょう。

露訳が出版され、ロシアでも注目され始めているということについて

僕の小説の露訳はあまりいい翻訳とはいえません。かといって自分で翻訳するということは、それはそれで大変なことなのです。同じ作品を二度も書くだけでもじれったいのに、加えて翻訳者というのは間違うことを許されない厳しい職業です。小説の作者であれば作中で間違ったことを書いても責められないけれど、翻訳者は決して間違えてはいけない。物書きと同程度の文章力にプラスして、原作者の書いたことを忠実に再現しなくてはならないという二重の負担を負うわけですから。僕にとってロシア語は人とコミュニケーションをとるための手段ではありますが、小説を書くための言語ではないんです。

翻訳家が国から月給をもらい、時間やお金を気にせずにじっくりと翻訳に取り組むことが出来たソヴィエト時代の文学作品の翻訳には、大変多くの名訳があります。現代ではまたそういった作品の新訳も出ていますが、その質は決して向上しているとはいえません。

僕が今、ロシアからも注目されているとしたらそれは単に僕が、「外国で成功したロシア人」だからです。実際、現代のロシアには、そういった類のテレビ番組もたくさん存在します。

社会主義の崩壊以降、人々が拠り所にする思想がなくなってしまいました。それでも国民はどこかに拠り所を求める。ところが現代ロシアではそれがなかなかうまくいかないのです。たとえば第二次世界大戦での勝利にしても、それがスターリン時代のことだという時代背景で栄光に影が差してしまうのでしょう。現在のロシアを見ても、やはり人々を団結に導くほどの思想は見当たらない。それで、いま海外で成功しているロシア人を見つけて誇ってやろうというわけです。アルゼンチンでは上等な肉牛を育てているロシア人を見つけ、フランスでは一級ワインを醸造しているロシア人を見つけ、ドイツでは人気作家となっているロシア人である僕を見つけた。こういう例を通じて「ロシア人だって世界でけっこう認められてるんだぞ」ということを証明したいというだけのことだと思います。

(まとめと訳 奈倉有里 スラヴ語スラヴ文学専門分野 修士課程)
講演をするカミーナー氏

カミーナー夫妻と過ごして

齋藤由美子(東京大学大学院人文社会系研究科博士課程)

2009年11月10日の東京大学での講演を機会に、その前後の空いている時間を利用して、カミーナー夫妻が東京を観光することになり、案内役として同行した。夫妻は日本にもともと興味があったという。ようやく念願叶って日本に訪れることができたととても喜んでいた。面白かったのは、カミーナー夫妻がガイドブックを持ってくるとか、あるいは事前に日本について調べていた様子がなかったことである。有名な場所を案内してもその説明を聞くよりは、むしろ偶然目にした通行人の面白い仕草や不可解なことを語る方に夢中になるようだった。

例えばカミーナー氏は、日本語の「はい」という言葉はよく耳にするが、その対の言葉である「いいえ」は聞く機会がないのが不思議だと語る。確かに私自身「いいえ」とはっきり言うことは少ない。文法的にも様々な理由があるだろうが、日本語としてあるのに、ほとんど使わないというのはどうしてなのか、カミーナー氏に指摘されてから気になりだした。

東京大学に先だって11月7日と8日に名古屋市立大学でも国際シンポジウム(『アイデンティティ、移住、越境』、企画は土屋勝彦教授)が開催され、カミーナー氏も招かれた。そこで氏は自身の創作について、誰かから聞いた物語をかばんに詰めて(コピーして)、自分は運ぶだけだと挑発的に述べていた。それだけ聞くと、記者のようにただ情報を伝えるだけであるかのようだ。しかしながら、実際のカミーナー氏は記者とは違い、メモをとるわけでもなく、カメラも持っていなかった。見たり聞いたりしたことをありのまま伝えることに関心はないようである。

名古屋市立大学でのシンポジウムの後、京都にも日帰りの観光に出かけたそうである。「京都はどうでしたか」という質問に、カミーナー夫妻は名古屋から30分で行けるところ、電車を乗り間違えて京都まで2時間もかかってしまったと話していた。実は著書Mein deutsches Dschungelbuch〔『わがドイツ版ジャングルブック』〕のなかでも、カミーナー氏は同じような経験を語っている。この作品のなかでカミーナー氏は朗読会に招かれてドイツの様々な都市をめぐっているが、作品の一番目の旅では、ドイツ語の方言がまったくわからず、一つ手前の駅で降りてしまい、徒歩で目的地に行こうと試みる。このようにカミーナー氏は朗読会で訪れる町そのものよりも、そこへ到着するまでのことをしばしば印象的に描いていて、「駅」は重要な役割を果たしている。

そのせいだろうか、カミーナー夫妻にとって「駅」という言葉は特別なようだ。なんとか京都に到着して寺まで行けたのはよかったのだが、「駅」に戻ろうとしてタクシーの運転手に頼もうとしたら、よりによってその「駅」という日本語だけが持参した辞書にのっていなくて大変困ったと熱心に語ってくれた。カミーナー夫妻が「駅」という言葉をわざわざ日本語で一生懸命探そうとしたことはもちろん、「駅」という基本単語がそれでも見つからなかったことがなんだか可笑しい。

さらにカミーナー夫妻とはドイツ語で話していたので、「駅しかわからないnur Bahnhof verstehen」という言い回しを連想してしまう。第一次世界大戦末期、ドイツ軍の兵士たちは望みのない戦いに疲れ果て、ただドイツへ帰郷することだけを望んだ。彼らにとって駅は帰郷のシンボルになる。ドイツ兵の願いは非常に強く、会話をしようとしても彼らの頭には駅という言葉しかないので、駅しか理解することができなかった。そこからこの言い回しは「まったくわからない」という意味で用いられるようになる。カミーナー夫妻の場合その逆で「駅だけがわからない」という。嘘か本当か、つい笑ってしまうようなエピソードである。このずれた言い回しがどのような意味を持つのか、色々想像してみるのも面白い。

名古屋市立大学での国際シンポジウム「アイデンティティ、移住、越境」
写真は左から、多和田葉子、ヴェルトリープ、エツダマー、カミーナー、ツィラクの各氏