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2017年の世界に向けて――私の文学観 スラヴニコワ、自作とロシアを語る

オリガ・スラヴニコワ氏
(Ольга Славникова  ロシア・ブッカー賞受賞作家)

司会 沼野充義(現代文芸論/スラヴ文学)
コメンテーター 岩本和久(稚内北星学園大学教授)

日時 2009年10月22日(木)
午後5時~7時
場所 東京大学(本郷キャンパス)3号館7階スラヴ文学演習室


主催 東京大学文学部現代文芸論研究室/スラヴ文学研究室
共催 科研費研究「グローバル化時代の文化的アイデンティティと新たな世界文学カノンの形成」
問い合わせ先 現代文芸論研究室 電話・ファックス 03(5841)7955 

 現代ロシア文学の最前線を切り拓いている作家の一人で、ロシア・ブッカー賞受賞作家のオリガ・スラヴニコワさんが、国際交流基金の文化人招聘プログラムで初来日されました。この機会を利用して、彼女自身の文学について、また現代ロシアの文学状況について語っていただきました。


講師プロフィール

 オリガ・スラヴニコワ Ольга Славникова / Olga Slavnikova

 1957年、ウラル地方のスヴェルドロフスク(現エカテリンブルグ)生まれ。ウラル大学ジャーナリスト学部を卒業し、文芸評論家として活躍。長編『犬の大きさになったトンボ』(1996)、『鏡の中でひとり』(1999)、ドイツ映画『グッバイ・レーニン』を先取りしたかのような内容の『不死の人』(2001)などの小説を発表して次第に認められるようになり、近未来小説の大作『2017』でロシア・ブッカー賞と学生ブッカー賞の両方を受賞した。日本語に訳された作品には、短編「モンプレジールの終わり」(岩本和久訳、『神奈川大学評論』62号)と「超特急『ロシアの弾丸』」(沼野恭子訳、『新潮』2009年11月号)がある。


講義の記録

●現代ロシア文学について

 私はエカテリンブルグの出身ですが、かつてスヴェルドロフスクと名のついていたソヴィエト時代には、外国人なんて一人もいないような、完全に閉鎖された地域でした。それがペレストロイカ以降、急激に変わっていった。私の世代の人間は皆、一種のカルチャーショックを受けていたわけです。

 検閲は無くなり、ソヴィエト時代であれば即座に処分されていたであろう文学作品が、次々に書店に並ぶようになりました。国際交流も自由になり、当時ロシアで作家になりたてだった人間にとっては、いかに西欧の読者に好かれる作家になるかということがかなり重要になりました。正直、私も早く有名になりたいとは思いました。しかしちょうどその時私は、「新奇で流行に適うものにかぎってすぐに廃れる」というナボコフの言葉を目にしたのです。実際、そのとおりでした。十年ほど経過してみたときに、よくわかったのです。確かにポストモダニズムは多くの過去を破壊しました。プリゴフにしろソローキンにしろ、それはそれで必要なことだったのでしょう。しかしいつまでも破壊するだけでは行き詰ってしまいます。現代には現代なりのリアリズムが必要です。そんなとき、私たちを取り巻く現実を捉えること、さらに人々が現実をどう捉えているのか理解することが重要になってきます。

 現代の私たちは主に本を読んだりテレビを見たりインターネットを利用したりすることで情報を得ています。直にではなくワンクッション置いた情報を受け取っている。そういう現状を考えるとき、十九世紀のようなリアリズムというのはすでにありえない。

 だからこそ今、そんな現代を映し出す新時代のリアリズム……それを幻想的リアリズムと呼んでも魔術的リアリズムと呼んでもかまわないけれど、新しいリアリズムが必要なのです。

●作家になったいきさつ

 ものを書くということをはじめたのは、かなり若い頃でした。地元の雑誌に掲載された作品もありますが、あの頃の作品は幼いもので、再版するつもりはありません。

 ペレストロイカ以降1990年代、出版界が急激に商業化しました。売れるのは推理小説ばかり、という世情のなか、私は出版のあてもないまま身近なテーマで愛情や友情を軸にした小説を書きましたが、そのうち書くことをやめ、出版社で働いて生計を立てていくことに決めました。1996年頃のことでした。ところがちょうどその頃、多くの作家が書くことをやめ、雑誌に掲載できる小説が全く足りないという事態が発生しました。編集長に「自作でも何でもいいから、とにかく掲載できる作品を集めてくれ」と言われ、私は自分の小説を載せたのです。ブッカー賞をはじめ様々な賞をもらい作家としてこんなに名が知れるようになるとは、全く思っていませんでした。

―会場からの質問に対する回答より抜粋―

●ロシア出版界の現状について

 現在のロシアの出版業界は世界各国とそう変わりません。以前と比べて言えることは、インターネットなどの情報やテレビゲームなどの娯楽が氾濫するなか、本が果たす役割が格段に減少したということです。

 人々の生活も変わりました。仕事が増え余暇が減ったことで本を読む習慣がなくなる人もいるし、逆に突如仕事を失い、再び職を探すために奔走し、本どころではなくなってしまうという人もいます。どちらにせよ就職事情が安定していた頃と違い、落ち着いて本を読むことが難しくなってきています。

 本の単価も高すぎます。ロシア人の平均収入ではなかなか手が出ず、年金生活者ともなると数人で一冊の本を買って回し読みしなくてはならないほどです。

 ペレストロイカ以降の出版社の商業化によって文学自体もかなりの打撃を受けています。売れる本だけが生き残る、という状況のなか、ゴシップ誌や芸能人の書いた本が文学の代用品のように出回っています。

 しかしここ数年で状況は少し変わってきています。といっても、私は作家として自らの経験をもとにそう言っているに過ぎませんが、私の本が売れるようになってきた最近では、まだロシアの読者に望みはあるのかもしれない、と思っています。

読者に求めること

 私の作品を読む人は、想像力のある人であってほしいと思っています。年齢や職業は問いません。そういう意味での読者層というものを意識してその人たちに向かって書くということをしてしまうと、マニュアルに沿って書くみたいになってしまう。私は、そういう書きかたはしませんから。ただし読者は、本に書かれていることをきちんと受け止めて、それを思い描ける人がいい、という希望はあります。文学作品は読者の価値観に直接働きかけます。読者は本に没頭することで、その本に守られている。例えば上司に叱られたとしても、スリの被害にあったとしても、そういうことはそんなに苦にならない。本のなかで起きていることのほうが大切な気がするし、いい本を読むことができるならもうそれでいいと思える。日ごろ身の回りで起きていることなんて、そんなにたいしたことないよ、怖くないよ。そんな風に思える。私の本はそういう読者に恵まれていると思います。(訳:奈倉 有里)