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境界を越える感情(18世紀末~19世紀初頭のロシア貴族の感情世界のヨーロッパ化)

講師 アンドレイ・ゾーリン
(Andrei Zorin オックスフォード大学教授、日本学術振興会外国人招聘研究者)
 
Чувства поверх границ (Европейзация эмоционального мира русского
дворянина в конце XVIII начале XIX века)

司会 沼野充義(東京大学教授・ロシア・ポーランド文学)

日時 2009年10月17日(土)
午後4時~6時
場所 東京大学(本郷キャンパス)3号館7階スラヴ文学演習室
共催 東京大学大学院人文社会系研究科・文学部スラヴ語スラヴ文学研究室/現代文芸論研究室


講師プロフィール

アンドレイ・ゾーリン博士 Andrei Zorin 1958年、モスクワ生まれ。モスクワ大学卒業。ロシア国立人文大学教授、スタンフォード大学客員教授、ハーヴァード大学客員教授、ニューヨーク大学客員教授、ミシガン大学アナバー校舎客員教授などを経て、2004年より現職。文学博士。18~19世紀前半のロシア文学、ロシア史を主たる専門領域とし、主著"Кормя двуглавого орла: Литература и государственная идеология в России в последней трети XVIII- первой трети XIX века"(モスクワ、2001)をはじめ、数多くの著作があります。現代ロシア文学・文化に関する発言も多く、また、"Новое литературное обозрение"誌、"Slavic Review"誌、"Cahiers de Monde Russe"誌といった各国の学術誌や、叢書"Библиотека поэта"などの編集委員をこれまでに務めています。

日本学術振興会外国人招聘研究者として来日中のところを、千葉大学の鳥山祐介先生のご尽力により、東京大学でも講演をしていただけることとなりました。


講義の概要

本日の講義は「十八世紀末から十九世紀初頭におけるロシア貴族の感性の西欧化」と題していますが、ここで私が「感性」という言葉を用いる際に意図しているのは、あくまでも文化を介して知識人が会得していった、物事に対する「感じ方」であり、そこから引き出される「感情」のことです。

時代の大きな流れとしては、十八世紀後半に西欧の生活習慣や日用品が入ってきて、それから徐々に彼らの内面世界が、思想だけではなく物事に対する感じ方も含めて西欧化していく。スターンをはじめとする西欧の文学作品が教科書のように熱心に読まれ、翻訳され、ロシアの文学作品に取り入れられていく過程で、当時のロシアの知識人は西欧から感性を学んでいたわけです。

具体例としてまずН.М.カラムジンの『ロシア人旅行者の手紙』を挙げてみましょう。1789-1790年に西欧を訪れたカラムジンは、この作品でカントをはじめとする著名人との交流やルソーの墓を訪れたことなどを詳しく語ります。しかし何より大切なのはこの本が、そういった様々な物事を西欧の人間はどう感じるのか、それがわかるように書かれていたということです。

この話の中には語り手が異郷の地でふと淋しさに襲われる場面がありますが、続くデッセンの宿では思いがけない温かさに包まれます。アメリカ人とフランス人とロシア人がそれぞれスターンの『センチメンタル・ジャーニー』を念頭においた会話を交わすことで容易に心を通わせるのです。語り手は故郷の友人達に向かい、「異郷の地で心のふるさとを見出した私を、どうか責めないでほしい」と呼びかけます。

物事を感じとるとき、我々はある一定の型に当てはめて感じています。その型が一致するとき、人と人は国境や民族などの境界を越えて同じ感動を味わうことが出来る。西欧の人々はルソーの『新エロイーズ』やゲーテの『若きウェルテルの悩み』で愛し方を学び、ジェームス・トムソンのように自然に親しみ、トマス・グレイに倣って墓地を訪れていました。ロシアではアンドレイ・トゥルゲーネフが、『ウェルテル』の本文と白紙のページを交互に綴じ、白いページに自分の気持ちを書き込み、自分がどれだけ正確に物事を感じとれているのか確認するという作業を行っています。もちろんトゥルゲーネフ自身、自分の人生に起きていることまで計画通りに進めることはできませんから、あくまでもこれは自らの心の内で起きていることを確認していく作業になる。

カラムジンは「本を読んでは少し休んで、自分の感じたことを本に描かれた感情と比べて、また本を読む」というやり方で西欧の文学作品に倣い、感じ方を学んでいく。まるで楽器を調律するように、自分の気持ちを調律しているわけです。そうすることで世界が少し違ったものに見えてくる。これについてカラムジンは、「ランベールやトムソンを読むと世界がよりよく見える」、「木々の影はいつもより鮮やかに見え、小川のせせらぎはいつもより優しく聴こえる」と詩に詠っています。

ところで最近の研究の中には、「感性と言語」という切り口で、その人が何を感じているかということとその人の母国語を結び付けて考えるものがあります。例えばポーランドのアンナ・ヴェジビツカは、各言語における感情を表す言葉にはそれぞれ特色があるとし、例えばロシア語のтоскаは、英語やドイツ語のそれに相当する言葉とどのように異なるのか、といった視点での研究をしています。しかし、何かを感じるということとその背景となっている状況理解との結びつきを重視するとき、そこに若干の問題が浮上します。

例えば私がこれまで挙げてきた例においては、文学を介して、愛すること、悲しむこと、感じとること等の定型がロシアの知識人層に受け入れられていった。そのときに重要だったのは母国語が何語であるかということよりも、物事に対する理解の仕方であったはずです。当時のロシアの知識人層の第二言語とも言うべき言語はもちろんフランス語でしたが、彼らはフランス文学のみならずドイツ文学をはじめとする様々な西欧文学から、そういった理解の仕方、感じ方自体の規範を得ているわけです。

人間は物事に直面し、そこから何かを感じとり、なんらかの感情を抱くようになります。そういった精神的作業を行うとき、人はまず自分に起こった出来事をそれまでに見聞きして知っている状況にあてはめてみて、自分の置かれた状況をそれと照らし合わせて総合的に判断し、それに見合う感情を引き出している。そこで大切になってくるのは、その人がその物事を何と照らし合わせ、どのような感性の規範をもとに感情を引き出しているのかということです。

「愛」「情熱」「感動」といった言葉に対応する語は各言語にありますが、その言葉だけで伝わる意味内容は非常に少ない。それどころか、そういった言葉を使うことで伝わるものも伝わらなくなってしまうことさえあるのです。

ミッシェル・ロザルドの言うように、ある人がどうしてそういう行動をとるのか理解したいと思ったら、日ごろから抱いていた「人間の心はこういうものである」というような思い込みを捨て、相手の用いている言葉なら言葉という記号が、その人の世界観と感受性を通して出てきた何らかの意図の表れであるということを認識し、そこに焦点を合わせるしかないのでしょう。

十八世紀末のロシア人旅行者は西欧を巡り、西欧の感性を体現していきます。彼の故郷で作品を読んだ多くの読者が、心を動かされ、感謝の気持ちを抱いたのもごく自然なことだったと言えます。

(訳:奈倉 有里)