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贈り物としてのモノ、モノとしての贈り物―モノたちをめぐるハルムスのテキスト

講師 ベルリン自由大学教授
ゲオルク・ヴィッテ氏(Professor Georg Witte

 

(Вещь как подарок, подарок как вещь. Тексты Даниила Хармса о "предметах" и "вещах".) 講義はロシア語、通訳なし。

日時 2005年11月18日(金)午後3時30分~5時
場所 東京大学(本郷キャンパス)文学部3号館7階スラヴ文学演習室

日本学術振興会 人文・社会科学振興のためのプロジェクト・研究グループ「越境と多文化」の招待で来日されたベルリン自由大学ヴィッテ教授に、特別講演をお願いしました。同教授が特に専門的に詳しい分野から、1920年代末に活躍したロシア・アバンギャルドの最後の光芒を放つ不条理文学グループ「オベリウ」の代表者であるハルムスの詩学についてお話しいただきました。なお、この講演会は東京大学文学部スラヴ文学研究室のほか、以下の二つの組織の共催により行われました。協力してくださった皆様に感謝いたします。

  • 日本学術振興会 人文・社会科学振興のためのプロジェクト・研究領域 V「伝統と越境」・研究グループ「越境と多文化」(代表:神戸大学・楯岡求美)
  • サントリー文化財団助成「ポスト共産主義時代のロシア東欧文化」研究会
講演するゲオルク・ヴィッテ教授(左)

特別講演聴講記

「裸のハルムス」を求めて

李東哲
(東京大学大学院人文社会系研究科博士課程、スラヴ文学専攻)

専門が「スラヴ文学」であるにもかかわらず、スラヴの文化圏ではない「日本」をメインの留学先として選択してきた私(ちなみに私の国籍は韓国です)にとって、季節ごとに(ひょっとすると毎月?)世界中からの著名なスラヴィストたちがゲスト・レクチャとして続々研究室を訪れてくることは、思いもよらぬ「贈り物」である。「日本」にいながら、世界を垣間見る貴重な機会である。

特に、今回のヴィッテ氏の講演は、私の専門的関心分野であるダニール・ハルムスについてのものであり、しかも、ヴィッテ氏は、ハルムスを含めロシア・アヴァンギャルド研究がもっとも進んでいるといわれるドイツからのゲストである。ヴィッテ氏の在職するベルリン自由大学だけでない。ベルリン郊外のポツダム大学も、例えば、スラヴの演劇・ドラマ・映画を、「バラガーン」をキーワドとして新しく解き明かそうとする斬新な論文が数多く掲載されている雑誌『BALAGAN.SLAVISCHES DRAMA、THEATER UND KINO』で有名である。ドイツ語が下手でありながら、いつもドイツに注目している、私である。

ハルムスを始めとするオベリウ関係の研究者たちは、これまで結構日本を訪れている。私が日本にやってくる随分前、オベリウの最初の英語訳者として世界的に有名なジョージ・ギビアン(George Gibian)が来日していた。私はその時の氏の写真をすでに韓国でみたことがある。今年は、ロシア出身のメイラフ(Mikhail Meilakh)氏による「ハルムスの交友関係」についての講演(2005年7月15日の特別講演)と今回のヴィッテ氏による「ハルムスにおけるモノ」についての講演が相次いだ。東京大学スラヴ文学研究室から、日本における「ハルムス・ブーム」の再来を決定づけたような感じである。このブームの反響からすると、日本におけるオベリウやハルムスに関する研究も、「そろそろ本格的な成果を見るべき時期」(沼野先生の言葉です)ではないかと、私も強く思う。

ヴィッテ氏の講演は、ゴーゴリ(1809-52)の『死せる魂』(第1部1841年)のなかの引用から始まった。その引用とは、チチコフが死んだ農奴を買い求め、様々な貴族の領地を訪ね回るなか、特別な意味もないまま、あらゆるモノを集めておく不思議な地主のプリューシュキンの家にたどり着いた時の、その家の応接間の情景が描かれた部分である。ゴーゴリの自然主義の白眉といってもよいその描写からは、ハエのようにばたばた死んでいく農奴たちと同じく、すでに死んでいるモノの無意味さが読みとれる。死んだモノに埋れて、自らも死んでいく地主のプリューシュキンは、モノと人間の関係のアレゴリーそのものである。このような「モノの無意味」に対する思想は、「無対象絵画」で有名なマレーヴィチ(1887-1964)にも継がれる。マレーヴィチにとってすべてのモノは神に近づくための道具に過ぎず、したがって、人類によるすべての建造物は、結局は「バビロンの塔」に他ならない。神が存在しなければ、モノも存在しないのである。

モノに対するこのような考え方が言語・哲学的に展開されたのが、シュペート(Gustav Shpet)とローセフ(Aleksei Losev)である。シュペートは、「モノ」(現実)と「対象」(理想)を分けて、「対象」を把握する手段としての「ことば」の機能を重視する。もし、「ことば」によって「対象」が了解されなければ、「対象」として全一化されている「モノ」たちは直ちに砂の粒のようにばらばらになって、掌から落ち去るのである。「ことば」がモノの意味を保持する砦になるのである。一方、ローセフによると、モノを「認識」することは、モノを「他在」(モノにとっての他在は、私でもある)として「転置」することであり、モノと他在を同一視することでもある。「認識」がモノの意味の要になる。

ハルムスにとって、モノの意味はどのようなものなのか。それについて、ヴィッテ氏は、「完全な贈り物」に対するハルムス特有の逆説を引用し、「裸の体」にとってはすべての飾り物が完全な贈り物になること、また、誰にとっても無用なモノが逆に完全な贈り物になるといったハルムスの話を取り上げた。ハルムスにとってのモノの意味とは、モノ自体にあるのではなく、そのモノにさらされる「人間の条件」にあるといえる。以上が、今回のヴィッテ氏による講演の粗筋であるが、ハルムスにおけるモノと主体の関係についての、理論的な根拠がしっかり提示されてある、説得力のある内容であった。

確かに、ハルムスにとって、シュペートのいう「ことば」とローセフのいう「認識」が、もはやモノの意味を担保する機能を失っていることは事実である。ハルムスのテキストにおいて、「ことば」によるコミュニケーションは間断なく欠落するし、「認識」の方は、論理性の欠如によって、しばしば反論理の世界へ読者を誘うのである。このような状況で、「ことば」や「認識」の代わりに、いつもモノたちと「衝突」する「人間の条件」とはなにか。ハルムスにとってそれは、ヴィッテ氏の示唆とおり、裸の体に違いない。認識の主体が裸であるからこそ、モノが見えてくる(あるいは、モノが意味を持つ)というのは、ハルムスが強く共鳴していた、ロシア・フォルマリズムの「異化」に他ならない。しかし、ハルムスはある意味でフォルマリズムを超えていた。フォルマリズムが専ら「ことば」によって「モノ(ことばとしてのモノ)」の異化を追及していたとすると、ハルムスの異化は「ことば」にも「認識(論理)」にも頼らぬ、もっと徹底的なものである。彼の詩学は、その創作原理であるバラガーンと同じく、「裸の身体」をもって世界を異化する作業であったといえるのではないだろうか。(2006年2月6日記)