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リトアニアの歴史・文化・音楽

ヴィータウスタス・バルカウスカス氏特別講義

2005年5月27日 東京大学文学部3号館7階スラヴ文学演習室

 今日の講義を「ルクス・エクス・オリエンテ」Lux ex orienteというラテン語の格言から始めたいと思います。「光は東方から」という意味です。実際これは、ヨーロッパ人にとって非常に正しい言葉です。日本は我々の東方にあるからです。そして、日本は「日いずる国」と呼ばれています。太陽や光というのは、最もすばらしいものです。生命も、世界も、その他あらゆるものも、太陽や光がなければ存在しません。私は光や太陽が大好きです。その気持ちを言葉だけでなく別の形で、今日の講義の最後に証明しようと思います。先ほど紹介があったように、私の妻の名はスヴェトラーナです。スヴェトラーナの「スヴェト」はロシア語で光を意味します。真ん中の「ラ」は、シンフォニー・オーケストラ全体の核となる音であり、語尾の「ナ」も元気が出るようなよい音です。だから私たちは出会ったのだと思います。

 地理の話を少ししますと、皆さんはすでに、リトアニアがバルト海に面していることはご存知でしょう。南からリトアニア、ラトビア、エストニアでバルト三国。わが国には、海岸線は百キロメートルほどしかありません。鉱物資源では、金はありませんが琥珀があります。琥珀のほうが金より値打ちがあります。何千年も前の生物が化石となって溶け込んでいるからです。面積は日本の六分の一、人口は三十六分の一です。東京の人口と比べるとビリニュスは二十四分の一です。リトアニアには、二千八百三十四の湖沼があります。川が多く、最も高い山でも標高三百メートル以下です。森林が非常に多く、国土の三分の一を占めています。年間の最高気温はプラス三十度、最低気温はマイナス三十度で、平均気温はプラス七度。ですから、日本はリトアニアより少し暖かいですが、大体同じような気温帯ではないでしょうか。ただし、日本のほうが日照が多いですね。私たち夫婦は、初来日して人々からも自然からも美しさや暖かさを感じ、非常に嬉しく思っています。私は、これまでにリトアニアで二度小さな地震を体験しましたが、ほとんど揺れを感じなかったので、忘れてしまいました。

 ここで少し、リトアニアの風景をご覧ください。(DVDを見せながら)これはビリニュスの旧市街です。リトアニアを空から撮影した映像です。ハノーバー万博のリトアニア・パビリオンで上映されていたリトアニアの紹介ビデオで、万博の映像コンテストで第四位を受賞しました。バックに流れているのは、リトアニアの古謡です。これは、トラカイ城といって昔、リトアニアの王たちが住んでいた城跡です。これはバルト海。次は秋の森林風景です。リトアニアは森や小さな湖沼が非常にたくさんあり、それがミニチュアのようにコンパクトにまとまっていて、とても居心地よく美しいところです。宗教はカトリックで、これはカウナスの近くにある修道院です。これは、ビリニュスにある、ソ連時代に爆破され、今では再建された「三つの十字架」教会です。ビリニュスには非常に多くのカトリック教会があり、いくつあるのかわからないほどです。おそらく百以上あるでしょう。カトリック教会以外にもロシア正教会やシナゴーグもあります。ビリニュスは長い間、国際都市でした。これは旧市街です。(DVD終わり)

 次に、リトアニアの歴史について、ごく簡単にお話します。四年後の2009年に、リトアニアは建国一千年を祝います。しかし、一千年というのは形式上で、実際にははるかに長い歴史があります。文書に残された最古の記録が一千年前のものだ、ということです。中世、14世紀末から15世紀初頭には、リトアニアはバルト海から黒海までをカバーする非常に大きな帝国でした。キエフも含めた多くのロシア領がこの帝国に併合されていました。しかし、それは占領ではなく、ロシア女性がリトアニアの公に嫁いだりするような、かなり緩やかなものでした。14世紀末、リトアニアの公ヨガイラがポーランド国王になります。その後、リトアニア・ポーランド連合が成立し、350年続きます。リトアニアの最盛期は15世紀初頭でした。リトアニアは、地理的にはドイツとロシアにはさまれていました。そして、リトアニアの公たちは、常にドイツの十字軍と戦っており、最大の勝利をおさめたのは1410年のことです。リトアニア・ポーランド・タタール・ロシアの連合軍が、十字軍に勝利したのです。そのとき連合軍を率いたのが、リトアニア人のヴィータウタスでした。この偉大な公の没後五百年記念の年に生まれた男の子はみな、ヴィータウタスと名づけられました。私もこの名前を貰いました。ヴィータウタスは、非常に美しいリトアニアの名前です。その、連合軍が大勝利した戦いを「ジャルギリス(緑の森)の戦い」と呼ぶのですが、リトアニアで非常に有名なバスケットボール・チームも、この戦いにちなんで「ジャルギリス」といいます。(訳注:この戦いは日本ではドイツ語地名から「タンネンベルクの戦い」と普通呼ばれる。ポーランド語では「グルンワルトの戦い」となる)。

 その後、帝政ロシアの支配が125年間続きます。もちろんリトアニアとポーランドは分割され、リトアニアはロシア領となり、リトアニア語も禁止されました。

 1940年にソ連による占領が始まりました。これについてはいろいろ語られているので、私はほんの少ししか触れません。50年間のソ連による占領の間に、リトアニアは多くを失いました。鉄のカーテンで西欧と遮断され、ソ連以外の世界との接触を失っていました。リトアニアには、ソ連による迫害で被害者の出なかった家庭はないくらいです。多くの子供や老人までシベリアに送られ、私の父もシベリアの監獄で亡くなりました。非常に多くの知識人が1940年の占領直後に投獄され、そうした粛清は第二次大戦後も続いたのです。当時はスターリン独裁で、初期が特に大変でした。1945年以降、十年間パルチザンによる独立戦争が続けられましたが、成果なしに終わりました。その後は徐々に楽になり、フルシチョフ、ブレジネフ、そしてとうとうゴルバチョフが登場します。そして1990年、リトアニアは奇跡的に独立を勝ち取るのです。

 1990年の独立革命は、「歌う革命」と呼ばれました。武器を持たず、戦闘もなく革命は行われました。30人か40人くらいの死者が出たと思いますが、これは比較的少数です。特に印象的だったのは、独ソがリトアニア東部の分割を決めた、モロトフ・リッペントロップ条約(訳注:独ソ不可侵条約。同時に、バルト諸国とポーランドにおける勢力範囲を定める秘密議定書が調印された)調印50周年に抗議して1989年に行われた「人間の鎖」です。「サユディス」という改革運動組織のイニシアチブで、ソ連領におかれることに抗議するためだけに、ビリニュスと、数百キロも離れたエストニアの首都タリンを、何千人もの人々が手をつないで結んだのです。非常に美しいデモでした。ビリニュス、リガ、タリンを数百キロにわたって結んだのです。それら三都市を結ぶ街道の眺めはすばらしいものでした。このとき私はオーストラリアのシドニーに旅行中でしたが、そこでも、リトアニアがソ連から独立できないことに抗議して、非常に多くの黒い風船が空に放たれました。

 オーストラリアには、リトアニアからの移民が非常にたくさんいますが、一番多いのは米国です。シカゴにはリトアニア人居住区があり、リトアニア語で上演するオペラ劇場まであります。1944年から45年にかけて、非常に多くのリトアニア人が米国、南米、英国など、海外に亡命しました。

 1940年、私は9歳でした。当時リトアニアは、二つの大戦のはざまの22年間、独立国だったのですが、私の住むカウナスは「小パリ」と呼ばれ華やいでいました。そのころのことをよく覚えています。ソ連軍が侵攻すると、ソ連将校の妻たちは、カウナスで売られていたネグリジェを舞踏会用のドレスだと思って買い、それを着て劇場に行ったりしました(笑)。当時ソ連とリトアニアの文化は、それほど大きくかけ離れていたのです。その後リトアニアはソ連の支配下におかれ、スターリン、弾圧、一つの真実、一党独裁の時代が続きます。

 しかし、有難いことに、リトアニアが独立して15年が経ち、海外にも自由に行けるようになりました。ソ連時代私が日本に来ることは、考えられませんでした。演奏家ではなく作曲家ですし、共産党員でもありませんから、渡航は禁じられていたのです。

 ここで少し、文学についてお話します。最初のリトアニア語で書かれた本が印刷されたのは16世紀のことです。「カテキシス」、つまり教理問答集です。17世紀には、サルビブリュスという大学教授で詩人がラテン語で詩を書きました。ビリニュス大学は、東欧で最も古い大学の一つで、今年で創立426年になります。1979年に私は、この大学の創立400年を記念して、第三交響曲を書きました。しかし、ソ連当局はビリニュス代の創立記念行事を行うことに反対でした。モスクワ大学のほうがはるかに歴史が浅かったからです。ですから、創立記念行事はひっそりと行われました。リトアニア語で書かれた最初の文学の作者は、18世紀のドネライティスで、叙事詩です。

 (一部をリトアニア語で朗読) リトアニア語は非常に古く豊かな言語で、印欧語族の中で最も古いバルト語派にラトビア語とともに属しています。サンスクリット語に非常に近く、例えば「夜」という語はサンスクリット語でもリトアニア語でも「ノクティス」です。また、リトアニア語で「ディエバス ダーリ ダンティス ドウオス イル ドウオノス(神は歯とパンを与えたもうた)」という文章は、非常に興味深いことですが、サンスクリット語でもほとんど同じです。

 もう一人挙げたいのは、リトアニアとポーランドの詩人アダム・ミツキエヴィチです。彼は代表作で「おおリトアニア、わが祖国よ!」と謳っているとおり、リトアニアで生まれ育ち、ポーランド語で書いた詩人です。ロマン主義の19世紀の詩人です。そして、20世紀に入って有名な詩人マイロニスがおり、さらには非常に興味深い、哲学者で詩人で外交官のユルギス・バルトルシャイティスがいます。彼はロシア語とリトアニア語両方で書きました。同姓同名で美術史家の息子と並んで、リトアニアでは非常に有名です。

 リトアニアの非常に多くの知識人―詩人や作家や作曲家や画家―が第二次大戦後の1945年に海外へ亡命しました。現在海外在住のリトアニア人は約百万人で、リトアニア国内在住のリトアニア人三百五十万人の約三分の一にあたります。ここで、やはり非常に有名な亡命詩人アイスティスの抒情詩を朗読します。 (朗読) リトアニアの自然の美しさを歌った抒情詩です。もう一人、私が子供のころから親しんだベルナルド・ブラジュジョーニスという亡命詩人がいます。面白おかしいのだけれど恐ろしい子供向けの詩を書きました。 (朗読) 静かな森から一人の恐ろしい男が現れて悪い子供たちを脅かす、という意味の詩です。

 次に、画家についてお話したいと思います。18世紀に、ビリニュスのカトリックの大聖堂を設計したグチャリチュスという建築家で画家がいました。彼がビリニュス郊外に建てた教会の写真が、この写真集に載っているので、後で見てください。

次に、チュルリョーニス。彼のことがどのくらい知られているかわかりませんが、リトアニア独立直後の1992年に、東京で彼の作品展があったと聞いています。今年生誕130周年です。彼は、画家であると同時に、リトアニア初の職業作曲家でした。画家としては、彼はパイオニアではなかったかもしれません。19世紀には、帝政ロシアの支配下であったにもかかわらず、かなり多くの興味深い画家がいましたし、文学や演劇が盛んになり始めた時期でしたから。しかし、プロの作曲家としては第一号です。ここにチュルリョーニスのアルバムがあるので、関心のある方はご覧ください。画家としては、彼は非常にユニークです。ポスト印象派であり、象徴主義者でしたが、一匹狼でした。ワルシャワで学んだ後、ペテルブルグでレーリッヒやビリービンと共に創作をしました。1911年に亡くなっています。私にとっては、彼は作曲家としてよりも画家として興味深い存在です。ともかく、彼は職業作曲家第一号で、1900年に『森にて』という交響詩を書きました。長い曲ですが、一部をお聴かせしたいと思います。 (『森にて』を聴く) 美しいロマンティックな音楽ですが、もちろんドビッシーでもスクリャービンでもありません。ピアノ曲も非常に多く書いています。リトアニア独立の立役者であり、「歌う革命」の主導者でもあったランズベルギス元リトアニア最高会議議長が、チュルリョーニス研究の第一人者です。

 ここで、リトアニアの古謡をお聴かせしたいと思います。リトアニアのフォークロアは、非常に歴史が古く、美しくて叙情歌が多いです。この曲には多声が使われています。「ステルティネス(調和)」といい、二つか三つのグループがカノンのように少しずつ遅れて同一モチーフを繰り返して歌います。(聴く) 

 次に聴いていただくのは「アタリヤ」という若者のフォーク・グループの曲で、民謡をジャズ風にアレンジしています。 (聴く) 次は、リトアニアの後輩作曲家ベルナウスカスの作品です。彼は、『TALKING』と名づけられた交響曲で、昨年五月東京で行われた武満徹国際音楽コンクールで三位に輝いたのですが、これからお聴かせするのは、電子音楽と自然音であるソプラノを組み合わせた非常に面白い『LET』という新作の一部です。(聴く)

 そして、講義の締めくくりに、最初に申し上げたとおり、私がいかに太陽を愛しているかを音楽によって示したいと思います。エストニアの町でエストニアのオーケストラによる演奏を録音した『太陽』という八分間の交響詩です。(聴く) 

 時間が足りないので最後まで聞くことはできないのですが、聴いてくださって有難うございました。明日と明後日のコンサートに来ていただければ非常に嬉しいです。今井信子さんの演奏による『二つのモノローグ』と『ヴァイオリンとヴィオラのための二重協奏曲』が演奏されます。

 『二重協奏曲』は、1940年、カウナスで日本の領事として約一万人もの人々にリトアニアからモスクワ・日本経由で国外に出るためのビザを出し、命を救った杉原千畝夫妻に捧げた作品です。救われたのは主に虐殺を逃れたユダヤ人でしたが、日本とドイツは当時同盟国でしたから、杉原たちは自らの命をも危険にさらしたことになります。私は、彼の人道的行為に大変感銘を受けました。この曲は、ある意味私にとって「日本の曲」です。第二部では『さくら』という歌のモチーフを非常にユニークなやり方で使っています。桜といえば、日本からリトアニアに180本の桜の苗が贈られ、ビリニュスに植えられています。ビリニュスには「杉原」通りもあります。ヴィオラ奏者の今井信子さん、杉原領事、彼らに捧げた曲、そして桜・・・すべてがこの作品にこめられているのです。

 今井さんには、明日演奏される『二つのモノローグ』という作品を捧げました。彼女は並外れてすばらしい演奏者です。『モノローグ』は自分自身との対話ですから、演奏者の心が非常に重要です。『二重協奏曲』を演奏するのは桐朋音大の若い学生たちです。私は昨日第一回のリハーサルを聞いてきましたが、すばらしく、エネルギッシュで、魂がこめられ、プロフェッショナルで、責任感にあふれ、気分の乗った演奏に感動し、非常に嬉しく思いました。今日二回目のリハーサルがあり、明後日コンサートです。私にとっては、自分の作品が演奏者たちに気に入ってもらえた、ということがとても重要です。

 (質問)リトアニアの作曲家というとチュルリョーニスが代表的ですが、彼の作品には民族色が感じられないように思います。例えばロシア国民楽派のように、フォークロアの要素を取り込んでいる作曲家はいなかったのですか?

 ロシア国民楽派は19世紀で、今は21世紀です。講義では時間の関係で触れませんでしたが、第二次大戦開戦前に、非常に多くの興味深い作曲家が米国など国外へ亡命しました。彼らは当初肉体労働に明け暮れ、作曲家として活躍できずに消えてしまいました。 また、ソ連時代は、民族的なモチーフを使うよう特別に命令されており、少々人為的でした。私はリトアニア人ですが、必ずしもフォークロア的なモチーフを使わずとも、演奏者や聞く耳を持った聴衆に気に入ってもらえる作品は書ける、と考えています。チュルリョーニスには、第二交響詩『海』や、いくつかの交響画やソナタなど、フォークロア・モチーフを使った作品があります。私もフォークロア・モチーフを使った作品を書いています。例えば、『三つのアスペクト』という作品では、牧歌を基礎にしていますし「ステルティネス」も使いました。しかし、一度きりです。フォークロアはフォークロアであって、職業音楽は様々な音楽を取り込みはしても、それをことさらに見せることはすべきではないと思います。

 リトアニアでは合唱文化が盛んで、チュルリョーニスも民族的なモチーフを使った合唱曲を書いていますし、宗教曲も才能豊かな作曲家たちによって書かれています。しかし、彼らはリトアニア国内にとどまり、世界に出て行くことはありませんでした。このように、多くの作曲家が民族音楽を用いてきましたが、その解釈は作曲家によって違います。

 (質問)リトアニア人の自意識では、文化的にはリトアニアは完全に西欧に属しているのですか、それとも西欧とロシアの間の第三の場所を探しているのでしょうか?

 文化的にはやはり西欧です。なぜなら、ソ連時代もリトアニアはソ連の西に位置していましたし、ビリニュスから22キロメートル離れた地点にヨーロッパの地理的中心があります。もちろん実際の中心はパリ、ベルリン、ロンドン、ローマなどでしょうけれど。リトアニアには、戦前まで非常に高い文化がありましたが、非常に多くが失われました。言語的には印欧語族に、文化的にもヨーロッパに属しています。リトアニア人の自意識は今難しい状況にありますが、独立から15年を経て、今は西欧を目指して進んでいます。全世界と交流できることが、私たちにとっては非常に重要です。(講義はロシア語で行われた。通訳・テキスト編集 今田和美)