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ジョン・エルズワース氏特別講義 『炎の天使』―ブリューソフの小説とプロコフィエフによるオペラ化をめぐって、およびエカテリーナ・ヤング氏特別講義 ドヴラートフと『都会派』の文学

マンチェスター大学教授 John Elsworth
『炎の天使』―ブリューソフの小説と
プロコフィエフによるオペラ化をめぐって
マンチェスター大学講師 Jekaterina Young
ドヴラートフと『都会派』の文学

 

2004年6月1日(火) 午後4時~6時
東京大学文学部3号館7階 スラヴ文学・西洋近代文学演習室

今回、私たちの研究室にお越しくださったのは、マンチェスター大学教授のジョン・エルズワース博士と、同じくマンチェスター大学講師のエカテリーナ・ヤング氏のお二人。

エルズワース博士は、20世紀ロシア文学、特にアンドレイ・ベールイの研究で知られる英国ロシア文学界の重鎮であり、ヤング氏は、ロシア出身のロシア文学研究者で、現代文学、亡命文学、特にドヴラートフの研究を専門とされています。

エルズワース博士の講義は、ベールイと同じくロシアシンボリズムの中心人物である、ヴァレーリー・ブリューソフの代表作『炎の天使』の、プロコフィエフによるオペラ化についてでした。

プロコフィエフのオペラ『炎の天使』といえば、全幕を通じて登場するオドロオドロシイ悪霊たちの姿もさることながら、最後に修道女たちが悪霊にとりつかれ、全裸になって踊り狂うという強烈なオペラです。私は偶然にも10年ほど前にサンクト・ペテルブルグのマリンスキー劇場でこのオペラを鑑賞した幸運な人間ですが、見たときは荘厳な劇場の舞台で繰り広げられる凄まじいシーンに大きな衝撃を受けました。その後、日本でもこのオペラは上演されましたが、問題のシーンをめぐって物議をかもしたことも記憶に新しいことと思います。

ちなみに、ブリューソフのこの小説はプロコフィエフのおかげでかなり有名になりましたが、いまだに日本語訳はありません。講義の中で、エルズワース博士も触れてくださいましたが、話は16世紀のドイツ、ある宿屋で(下心があって騎士らしくない)騎士のループレヒトは悪霊に悩まされる女レナータに出会います。レナータはループレヒトに身の上話を聞かせます。それは、レナータは小さい頃マディエリという炎の天使(実は悪魔)といつも一緒に遊んでいたけれど、彼女が大きくなったとき、炎の天使はこんどは人間となって戻ってくると言って消えてしまった。その後、彼女は、炎の天使と同じ黄金の髪と青い目をもつハインリヒ伯爵を炎の天使だと信じたが、伯爵もまた彼女のもとから去ってしまったというものでした。ループレヒトはレナータを助けて、ハインリヒ伯爵を探す旅に出ます。途中、当時実在の神秘思想家アグリッパ・ネッテスハイムが登場したり、ハインリヒ伯爵と再会したりと紆余曲折を経て、結局、最後にレナータは魔女として宗教裁判にかけられ、十字架に磔のうえ火あぶりの刑を宣告されるという話です。

エルズワース博士の講義は、新しい資料を基にしたものでした。モスクワのアーカイヴで発見された、プロコフィエフの所有していた、1909年出版の『炎の天使』第二版。また、ロンドンのアーカイヴにある、最初のオペラのバージョン(未公開)。さらに、パリ在住の孫によって2002年に出版された、ちょうどオペラを作曲していた時期のプロコフィエフの日記。これらを題材に、1920年代に彼がこの小説をオペラ化した詳細な経緯について話されました。

まず、1919年にプロコフィエフがこの小説に対する最初の感想をアメリカで書きとめたことに始まり、1927年8月に完成させるまでの経過を、年を追って説明していただきました。

その後、ループレヒトの語りの形式で書かれた小説を、ドラマチックなオペラに変換する際に、プロコフィエフの施した選択や簡略化、題材の書きかえについて論じられました。特に興味深かったのは、長編小説をオペラにするために多くの割愛や省略をしているが、プロコフィエフはミステリアスな登場人物によって醸し出されるオカルト的な雰囲気を重視し、非常にドラマチックな部分を割愛してでもそれがただのマジックやサーカスのようになってしまうことを避けようとしたこと、プロコフィエフは「ミステリアスな恐怖」をオペラに与えようとしたということでした。

そして最後に、この小説をオペラ化しようと考えた1919年のプロコフィエフが、当時のスピリチュアリズムに興味を持っていたということに言及されました。1924年にブリューソフが死に、その脳が天才の脳として取り出され、研究のためにスライスされたなどという、小説の作者の皮肉な運命がプロコフィエフに大きな印象を与えたというお話も興味深いものでした。

次に、講義をしてくださったエカテリーナ・ヤング氏は、セルゲイ・ドヴラートフの研究がご専門で、1998年5月にサンクト・ペテルブルグで行われた第一回国際ドヴラートフ研究会でも報告をされています。沼野充義先生と私も参加させていただいたので、今回はヤング氏との6年ぶりの再会となりました。

さて、ヤング氏の講義のテーマは、エルズワース博士の講義から一変して、現代文学です。セルゲイ・ドヴラートフも若かりし頃所属したことのある、レニングラードの文学サークル『都会派』についてで、かなり専門的な内容と言えます。ちなみに『都会派 (Gorozhane)』は『都会人』という訳で紹介されていることもあります。お話は、日本では全く無名ともいえるこのグループの4人の主要メンバー(ボリス・ヴァフチン、ウラジーミル・グービン、イーゴリ・エフィーモフ、ウラジーミル・マラムジン)に関する伝記的な事実が中心でした。ドヴラートフの作品は実生活を題材に取ったものが多く、彼らの名前もアネクドートなどに頻繁に出てきたので、その名前はよく目にしていましたが、詳しい彼ら自身のプロフィールをほとんど知らなかったので、私にとって今回の講義は有意義なものでした。

講義はまず、彼らが活動した60年代の概観から始まり、スターリン批判の第20回共産党大会が文学の発展にも大きな役割を果たしたこと、「雪解け」によるヘミングウェイ、レマルク、トーマス・マン、サンテグジュペリなどの翻訳文学の興隆、エフトゥシェンコ、ヴォズネセンスキー、アクショーノフなど『若い文学』が台頭し、世界や人間の価値観を再構築したことに触れられました。そして60年代にはレニングラードにたくさんの文学サークルが存在しており、その一つが『都会派』であったということです。

同時期に農村を描いた農村派という文学潮流がありましたが、『都会派』の文学はちょうどそれに対峙しているかのようです。当時トワルドフスキーが編集長をしていた『ノーヴィ・ミール』には農村文学ばかりが掲載され、都市文学はほとんど載らなかったという指摘は興味深いものでした。これに関して「もしもイワン・デニーソヴィチが労働者だったら、小説は決して世に出なかっただろう。」「どんなに素晴らしくともトワルドフスキーは都市文学を採らない。『ノーヴィイ・ミール』では農民が力をもっている」というマクシーモフの指摘が引用されました。

そして、1965年に『都会派』が発表した最初の作品集に掲載された作品について、また、4人の代表的な作品、ヴァフチンの『ある完全に幸福な農村』、グービンの『別惑星からきたジェニカ』、エフィーモフの『見世物(ロマン)』、マラムジンの『イワン・ペトローヴィッチの結婚話』について簡単な概要と分析を紹介していただきました。彼らの簡単なプロフィールと作品リストをまとめたレジュメを配布していただきましたので、興味のある者には大きな助けになると思います。

ヤング氏は、『都会派』自身の次の言葉を引用して講義を締めくくられました。

「我々が新しく発見したものはなにもない。我々はただ、現代がどこか普遍的な芸術史の方向へ転げ落ちないように、引きちぎられてしまった多くの伝統の糸を結びあわせたいだけだ」

講義終了後、東大赤門前の「こだわり屋」で懇親会が催されました。エルズワース先生、ヤング先生を囲んで、沼野先生とともに15名ほどの学生も参加して、両先生と歓談する機会を得ました。「イギリスでもロシア文学を専門とするものは変わり者とみられるのか?」「他言語で話すと人格は変わるか?」など面白い話題が尽きませんでした。

(スラヴ語スラヴ文学博士課程 守屋 愛 記)
エカテリーナ・ヤング氏とジョン・エルズワース博士