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チェーホフとロシア演劇の現在

講師
演出家ユーリイ・ポグレブニチコ(Юрий Погребничко)氏

テーマ  チェーホフとロシア演劇の現在
日時 2004年5月18日(金)午後5時~6時30分
場所 東京大学(本郷キャンパス)
司会・解説 楯岡求美(神戸大学助教授・ロシア演劇)
文学部3号館7階西洋近代文学・スラヴ文学演習室
(講義・討論はロシア語、通訳なし。ポグレブニチコ氏演出作品の一部のヴィデオ上 映あり)

 ユーリイ・ポグレブニチコ氏(1939年生)は、現代モスクワを代表する演出家の一人。現在、モスクワ市立「スタニスラフスキーの家の近くの劇場」(旧称「クラスナヤ・プレスニャ劇場」)主席演出家として活躍し、2003年にはロシア国家賞および、ロシア国家演劇賞ゴールデン・マスク賞(小劇場部門)の栄誉に輝いています。代表的な演出作品に、チェーホフ『三人姉妹』、『かもめ』『桜の園』、オストロフスキー『森林』、ゴーゴリ『結婚』ヴァンピーロフ『長男』『7月の別れ』、シェークスピア『ハムレット』などがあり、特にチェーホフ作品の独創的な解釈で知られています。

 今回は、日本ユーラシア協会大阪府連合会主催のチェーホフ没後百年記念シンポジウム『現代に生きるチェーホフ』のため、国際交流基金の助成を受けて初来日することになり、この機会を利用して東京でも同氏を囲む会を開けることになりました。 司会・紹介は、ロシア演劇を専門とする楯岡求美さんにお願いしました。東京大学文学部スラヴ文学研究室の紀要『SLAVISTIKA』XIII(1998年3月刊)238-243ページには、楯岡さんによる論文「ポグレブニチコ演出チェーホフの『かもめ』について」が掲載されています。以下にこの講義の解説にかえて、楯岡さんが群像社『群』第24号(2004年7月15日刊)に掲載した文章の一部を再録いたします。再録を許可された群像社(ホームページhttp://www.gunzosha.com/)に感謝いたします。
(沼野充義記)
*  *  *  *

チェーホフの現代性とロシア演劇のアヴァンギャルド
―モスクワから演出家ユーリイ・ポグレブニチコを迎えて―

(群像社『群』第24号より抄録)
楯岡 求美(神戸大学・ロシア演劇)

 初演から100年以上がたった今でも、チェーホフの諸戯曲がこれほどまでに魅力的なのはなぜなのだろう。オーソドックスな演出はもちろん、前衛的な演出、現代化や日本に舞台を移しての翻案上演など、どのようなアプローチにも可能性が開かれている。

 その謎に迫ろうと、劇作家別役実とモスクワの演出家ユーリイ・ポグレブニチコを招き、チェーホフ没100年を記念してシンポジウム『現代に生きるチェーホフ』(2004年5月15日、ユーラシア協会大阪府連主催、於:大阪国際交流センター)が行われた。また、5月18日にはポグレブニチコと研究者及び学生・大学院生との懇談会が東大文学部スラヴ文学研究室にて開かれた。

 ポグレブニチコは、80年代終わりからモスクワの小劇場「スタニスラフスキーの家のそばの劇場」(通称Около)を率いる演出家である。文字どおり、スタニスラフスキーの家の裏手にあり(副ホールはスタニスラフスキー家の厩があったところとのこと)、80人も入ればいっぱいになる小さな空間、剥き出しのレンガ壁を白ペンキで塗っただけの(「床」と形容したほうが良いような)殺風景な舞台は、俳優が四歩も下がれば壁にぶつかる。チェーホフ、ゴーゴリ、ヴァンピーロフといったロシアのものからハムレット、ピンターなどいろいろに演出している。テクストを自在に裁断し、ソ連時代の民衆歌をちりばめる。ばかげた言葉あそびによって意味はずらされる。時には原型をとどめないぐらいに解体する演出に混迷しながらも、すべてが凝縮された時空間におかしみと感動を得る。困惑した批評家がしばしば「禅」や「随筆」といった東洋の神秘に喩える。形容しがたい独自の演出で、ヴァラエティーに富むロシア演劇界においてもひときわ異彩をはなつ存在である。

 彼にとってチェーホフ作品は特別な位置を占めている。劇団の旗揚げ公演の『かもめ』にはじまり、『三人姉妹』、『桜の園』、チェーホフの全作品からコラージュした『聖母の肖像』を演出し、目下『ワーニャおじさん』を稽古中とのこと。しかしそれだけではない。『ハムレット』のオフィーリアの墓でヴェルシーニンが「死」について語り、ヴァンピーロフの『長男』をベースとした『放浪者たちと騎士たち』では、『三人姉妹』のイリーナの名の日の祝いの場面が入り混じり、父親役はしばしばヴェルシーニンに早変わりし、『長男』の登場人物たちを観客代わりにソリョーヌィがレールモントフの『孤独な帆船』を朗読したりする。まるで芝居のいたるところがチェーホフに侵食されているといったふうなのだ。

 講演では、チェーホフが世界的に偉大な作家である根拠として、「死」「自殺」「自分が誰かというアイデンティティ」の問題を扱っていることを挙げた。そしてその古典的な喜劇ではなく、チェーホフ流に変形させた喜劇という独自の演劇様式があり、どの作品にもパロディー化された「教師」や「医者」が登場すると指摘。教師といってもセレブリャコフは芸術の薀蓄を書き散らすが芸術がわかっていないし、その多くは一体なにを教えているのかもわからない。『桜の園』では本人が永遠の学生で、死んだ子供の家庭教師、つまり生徒が死んで先生だけが生き残ってしまっている。『三人姉妹』のチェブトゥィキンは「みんなは自分のことを医者だというが、何も覚えていない」という。喜劇である。

 ポグレブニチコの関心は、チェーホフ戯曲で扱われるアイデンティティの問題にあるようだ。彼の演劇的関心はもっぱら俳優にある。そして俳優の課題とは、舞台上で「自分自身が存在していることを実感」し、その存在感を観客に伝えることにあるという。人間として、自分が存在していることを確信することは難しい。古来、哲学の中心的テーマである。そして、とりわけロシアにおいては「自分は誰か」という究極の問いにこだわらざるをえないという。それに付随して発せられるのが「自分は何のために生きているのか」という問いである。

 たとえば、登場人物の関係性や直接的な引用など、『ハムレット』の影響が色濃い『かもめ』を例にポグレブニチコは次のように説明する。トレープレフはハムレットであるが、その状況はかなり変えられている。オフィーリアであるニーナは王であるはずの人間の愛人となり、トレープレフは決闘を申し込むが、相手は自分を王だと思っていない上に「すべての人に場所は足りている」と言われ、トレープレフは方向感覚を失う。つまり、王もいず、空間も境界が確定せず、闘いもない。つまり勝利もなければ敗北もなく、何もないところでアイデンティティはない。自分はハムレットではなく、他の誰でもない、その不確定性ゆえにトレープレフは自殺しようとするのである。

 ポグレブニチコが言うように「自分は誰か」という問いは人間が抱える宿命的な問いである。自分はどこから来て、何のために生きて、どこへ行くのか。それはチェーホフの四大戯曲に共通する悩みであり、時代や生活環境の変化に関わらず、人々を不安に陥れる。チェーホフの作品は、確かに19世紀半ばから20世紀初頭を時代背景とした、恋愛や日々の仕事などの具体的な生活描写でありながら、不思議と時代の制限を感じさせない。描かれている人間関係が抽象的にモデル化されていて、人間は結局千年たっても相変わらずそんな風に悩みながら暮らしていたのだろうと思わされてしまう。チェーホフの現代性とは、人間存在の本質を見据える普遍性ではないだろうか。(後略)(文中敬称略)

ユーリイ・ポグレブニチコ氏