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ザミャーチンの長編『われら』と現代ロシアのアンチユートピア小説

講師 ボリス・ラーニン博士 (Boris Lanin ロシア教育科学アカデミー高等教育部門・部門長・教授、 神戸大学国際文化学研究科外国人招聘研究者)

Роман Замятина "Мы" и современные русские антиутопии

司会・解説 野中進(埼玉大学准教授・ロシア文学)

講義・討論はロシア語、通訳なし

日時 2009年7月17日(金)
午後4時~6時
場所 東京大学(本郷キャンパス)3号館7階スラヴ文学演習室
共催 東京大学大学院人文社会系研究科・文学部スラヴ語スラヴ文学研究室/現代文芸論研究室


講師プロフィール

ボリス・ラーニン Boris Lanin博士は1961年アゼルバイジャン生まれの文学研究者、批評家、ジャーナリスト。ロシアオープン(自由)大学哲学学部学部長、ロシア教育アカデミー上級研究員、ロシア国立税務アカデミー客員教授を歴任。文学博士。教育博士。

ラーニン氏はロシアにおけるアンチユートピアの問題と、E. ザミャーチンに関する、最先端の研究家の一人。著作に『E. ザミャーチンの小説「われら」(Роман Е. Замятина "Мы")』、『ロシア文学上のアンチユートピア(Русская литературная антиутопия)』があり、特にSFやユートピアとアンチユートピア(V. アクショーノフ、M. ブルガーコフ、F. ベーコン、V. ヴァイノーヴィチ、V. オドエフスキー、E. ザミャーチン等に関して)の研究で数多くの業績を上げられています。また、独自の教育学的示唆に富む文学・批評研究を展開していらっしゃいます。

学術振興会外国人招聘研究者として神戸大学に滞在中のところ、司会には野中進先生(埼玉大学准教授・ロシア文学)をお招きし、東京大学でも特別講義をしていただけることとなりました。


講義の概要

ザミャーチンの『われら』は、非常に中身の詰まった小説であり、1920年当時やそれ以前の文学と並べてみると、ジャンルとして相当に革新的で、ロシア文学ばかりではなく、オーウェルやハクスリーのアンチユートピア(ディストピア)小説にも先行し、世界中の作家たちの間で読みつがれ、多くの作家に影響を及ぼしてきた作品でもあります。今回は、そんなザミャーチンの『われら』と、現代ロシアのアンチユートピア小説を比較し、その共通点や相違点について考えてみましょう。

まず、アンチユートピア小説の特徴をいくつか挙げてみましょう。

一般的に言って、ユートピア小説と根本的に異なる点として挙げられるのは、ユートピア小説が社会思想を重視した、社会哲学と文学の中間的なジャンルとして成り立ってきたのに対し、アンチユートピア小説というのは現実とは異なる何らかの社会を描きながらも、語り手もしくは主人公の体験を中心に、文芸作品としてのこだわりや、筋書きの展開の面白さを重視したジャンルだということです。ザミャーチンを例に見てみると、小説の冒頭でД-530は統一国家を熱烈に愛し、その独特の文体で、国家の一構成員であることを誇りにしていて、だからこそこの手記を書いているという設定の語り手ですが、そのДが、人を恋するようになることで、心を持つ人間となり、そのことが、この話の筋をすごい勢いで展開させていく。こういったところを見ていくと、ここにはロマン主義の伝統が色濃く受け継がれていることに気づきます。読者には、Дの過去についての情報がほとんど与えられません。小説を読む私たちは、Дがどのような環境で育ち、どのような交友関係を持ち、何を見て、どんな風に生きてきたのかわかりませんし、また、ラストで手術を受け、再び心をもたない、国家の一構成員に戻るДには、未来像もありません。過去も未来もない彼はこの手記の中でのみ、恋をし、悩み、心を痛め、迷っている。これは典型的なロマン主義文学の特徴です。

こういったことは、ヴラジーミル・ソローキンの『親衛隊員の日』(訳注)にも、ある程度あてはまります。主人公のコミャーガの過去や未来は読者には明かされず、話はただ一日のことに限られていて、その短い時間の中で、主人公が飛行機やベンツで移動し、様々な犯罪的な冒険をするという筋書きは、アンチユートピア文学の躍動性をよく表しています。また、ソローキンの主人公も独自の文体を持つ「語り手」であり、例えば作中に出てくる預言者の老婆はまたそれらしい話し方をする、といった書き分けもされていて、こういった点も共通すると言っていいでしょう。言ってみるなら、ザミャーチンの主人公が「インテグラル」を建設する側であったなら、ソローキンの主人公はその「インテグラル」を手中に収めた側の人間、とも言えるのではないでしょうか。 ところでもうひとつ、恋愛も、ザミャーチンの小説にとって重要な要素になっていましたが、こちらのほうは現代のどういったアンチユートピア小説に受け継がれているのでしょうか。

Д.ブイコフの『Ж.Д.』(ジェー・デー)(タイトルになっているこの略語はユダヤ民族に対する蔑称を省略し象徴化したものでもあると同時に、作中の説明にもあるように、「鉄道」の略語でもあり、その他様々な解釈が用意されていて、一見あまり関係なさそうな「ジヴァゴ・ドクトル」という解釈も、パステルナークについての著書もあるブイコフにとっては、実は重要なものです)では、ロシアの先住の民族とはどの民族であるか、という問題にかなり焦点が当てられ、その紛争が描かれますが〔ЖДはロシアに対し自らが先住民族であると主張〕、そのなかで、主要登場人物の一人〔ヴォーロホフ〕は、ЖДの女性〔ジェーニカ〕に恋をし、異民族としての主張を強くもつ彼女との関わりを通し、悩み、葛藤する様子が、この話を押し進める重要な要素になっています。ここにはやはり、アンチユートピアにおける心の存在という、ザミャーチンの小説の核心ともなっていた伝統が、生きているのではないでしょうか。

20世紀末から21世紀初頭にかけてのロシア文学において、アンチユートピア文学は新たな展開を見せいています(ソ連崩壊以降のこのジャンルの作品を「ポスト・アンチユートピア」と名づけているロシアの研究者もいるほどですが、それは少し言いすぎというか、文学のジャンルとしては、やはりアンチユートピアという枠から出るものではないでしょう)。

ソ連時代、公には読んだり書いたり出来なかったとはいえ、ひそかに読みつがれ、書きつがれてきたアンチユートピア小説は、1990年代後半のロシア出版界では、ほとんど息を潜めたかに見えました。1990年代は、もちろん、社会性のある議論が堂々と出来るようになった時代でもあります。つまり、言論の自由な場ではアンチユートピア小説があまり書かれなかった。ところが、21世紀に入りロシアの言論界は少なからぬ変容を見せ、現時点では、社会のいろんな場で、そういった議論が出来なくなってきています。そんな中で、アンチユートピア小説が、また新たに息づいているのでしょう。

*訳注『親衛隊の日』 原題は、"День опричника""。これは近未来における親衛隊員の一日を描いた作品なので、「親衛隊員の一日」のことだと理解できるが、原題はロシア語としては「親衛隊員の(記念)日」という含みを持った言い方。


講義を終えて

今回の講義、また質疑応答では、このほかにも様々な作品の名前が挙がり、ラーニン博士は、ザミャーチンの『われら』に見られる多くの要素が、後に、多くのアンチユートピア小説において受け継がれていること、また、現代のアンチユートピア小説がより大衆化し、文芸作品としての作者のこだわりが薄れる一方、社会全般の議論や時事的な問題を即座に反映していることなどについて語られました。

Д.ブイコフの『Ж.Д.』は、戦争を題材にしたリアリズム的散文小説の要素も多く引き継いだ長編小説ですが(ラーニン博士は、タイトル解釈の一つである「鉄道」がもうひとつのテーマで、作中でそれは「どこにも到達しない」鉄道、として語られ、作中の民族紛争が「戦争のための戦争」であること、「出口のない人生」を表すものであるということについても言及されました)、この作品は、「民族意識を逆なでするようなことばかり書いたと言われるに違いない作品になったことをご了承いただきたい」という前書きをつけた上で、作中では「イリヤ・ムーロメツはユダヤ人だった」、「ロシア人はチェチェン人に近い人種だ」、等々の登場人物たちの奔放な台詞から、「そもそも、どの種族が『ルース』と呼ばれていたのかなんて、解明されていない。いくつもの種族が、そう呼ばれていたんだ」といった主張まで、「民族」に関する様々な言葉が飛び交い、ジェーニカに恋をしたヴォーロホフは「いったい僕たちは、対立しあう二つの民族であることを忘れて、どちらの民族が優れているかなんて考えることをやめて、ただ二人でいることはできないんだろうか」という葛藤を抱えます。

講義でも指摘のあった現代ロシアの状況を考慮に入れてこのような作品を読んでいると、いま、現代の文学作品に投影される、現実社会の切迫した問題も、浮き彫りになってくるのかもしれません。

(講義の概要・感想 奈倉有里 スラヴ語スラヴ文学専門分野修士課程)