『ソシオロゴス』アーカイブ

『ソシオロゴス』は、冊子の公刊後、1年を目処に電子版を公開しております。これまでの執筆者の方で、公開をご了承いただけない方は、お手数ですが本会までご連絡ください。

ソシオロゴス 43号 (2019年9月発行)

前田 一歩 明治後期・東京の都市公園における管理と抵抗
+ 抄録を表示
これまで近代日本の都市公園史研究は、賃金労働者や児童など特定の人々が、都市公園の利用者として想定されたことを指摘してきた。既存研究は一方で、利用者の限定とは矛盾しながら、都市公園を誰もが利用できるオープンスペースとして位置づけてきた。本稿は、統治性研究の枠組みをもちいることで、都市公園のこの矛盾した性格の成り立ちについて考察を行う。とくに利用者の心性を管理しようとする都市公園の機能の仕方が分析対象になる。 日比谷公園の西洋音楽演奏会の分析の結果、日比谷公園における演奏会が誰に対しても公開されることを正当化する言説が、利用者を選別しようとする言説と共通の根拠を持ちながら表れることが明らかになる。日比谷公園で行われた西洋音楽の演奏会においては、利用者の心性を管理する都市公園の働きのうち、「公徳心」を涵養する教育上の機能が強調されることで、誰に対しても開かれる都市公園の性格が正当化されたのである。
堀江 和正 都市の資源配分論から生活における資源の編成過程へ
+ 抄録を表示
生活をめぐる問題として、人々が財やサービスの存在を認知し、どのように利用するか判断し、実際に活用するまでの困難が、さまざまな研究で指摘されている。そうした問題群を論じる枠組みを構築するため、本稿ではまず都市社会学における資源論を検討した。結果、社会的な資源配分とミクロな都市生活を接合し、かつ資源への意味づけ過程を捉える枠組みの不在が明らかになった。この課題を克服するため、英国の都市人類学者サンドラ・ウォルマンの論考を検討したところ、「編成的資源」概念の導入による資源概念の拡張と、資源システムの境界の可視化という2つの研究視座が析出された。最終的に、人々が認知的資源を蓄積し、財やサービスを生活の中に取り込むことで成立している生活という過程を、資源配分による一定の拘束と、資源システムの重層を視野にいれながら捉える、という研究枠組みが提示された。
富永 京子 メタゲームとしての雑誌投稿
+ 抄録を表示
デジタルゲーム研究はメタゲームという分析視角から、デジタルゲームの「外」で行われるユーザー間のコミュニケーションを議論してきた。本研究はゲーム研究と投稿・投書研究の蓄積を踏まえた上で、デジタルゲーム雑誌『ファミ通』の投稿コーナーである「ファミ通町内会」と投稿者の語りを分析の対象とし、一見デジタルゲームと無関係な投稿が多数を占めるデジタルゲーム雑誌投稿欄においてどのようなメタゲームが行われているのかを分析するものである。 分析の結果、ゲーム雑誌投稿欄は、メタゲーム論の先行研究による分類に基づけば「ゲームをとりまくゲーム」から「ゲームなしのゲーム」にルールが変化する。その背景には、プレイヤーである投稿者の「競争なき承認」に基づく能動的な投稿コーナーへの参加があると判明した。この知見から、デジタルゲーム雑誌においてルールを変えるほどのプレイヤーの能動性が存在する点と、投稿・投書空間の内輪性や共同性を作り出すにあたり他の投稿者や編集者からの承認が強く働いている点が明らかになった。
尾添 侑太 「コミュニケーション」の形成過程における内容分析
+ 抄録を表示
本稿の目的は、日本において「コミュニケーション」がどのようにわれわれのかかわりをあらわす言葉として流通し、定着したかを明らかにすることである。方法として、1960年代から1980年代の新聞記事を対象に分析した。「コミュニケーション」という言葉が、機械的な情報伝達の意味ではなく、直接的な人と人との間で交わされるやりとりを指すものとして使用されるのは、すでに1960年代に確認できる。そして、「コミュニケーション」は1980年代までに、当時の人びとの生活上にかかわるさまざまな「断絶」の問題を浮かび上がらせる言葉として、またそれらをつなぎあわせる言葉として説明される過程を経ていくことがわかる。こうした作業は、コミュニケーション問題が規範的なコミュニケーションのあり方をめぐるものとして表出している現代において、オルタナティブなむすびつきを考える可能性を有している。
三枝 七都子 富山型デイサービスの〈共に生きる運動〉とは
+ 抄録を表示
本稿は、地域包括ケアシステム強化法のもと新設された共生型サービスのモデルである富山型デイサービスに着目する。これは、年齢や障害の有無にかかわらず、誰もが一緒に身近な地域でデイサービスを受けられる場所として知られている。本稿では、富山型デイサービスの先達者たちが試みてきた、誰もが自分が望む暮らしを生きられる社会を目指す〈共に生きる運動〉の経緯を辿った。彼らは、予め利用者のニーズをもとにつくる共生型サービスとは異なり、偶然の出会いを前提にその都度サービスを組み立てていた。また、そうした活動を通して「場づくり」という手法を見出し、介護者/利用者に限らない多様な人々と関わりを築いていた。さらに、富山ケアネットワークを介して〈共に生きる運動〉の原点に立ち返る作業を行っていた。以上、〈共に生きる運動〉の過程では、今後の地域包括ケアシステムの構築に有益と思われる要素が多く抽出できた。
坂本清彦・岡田ちから バイオメジャーによる農業の「支配」とはいかなる事態か
+ 抄録を表示
バイオメジャーと呼称される大手アグリビジネス企業が農業、とくに種子供給システムを「支配」し、農業者の種子選択の自由を奪っているといった批判的論考が提出されてきた。しかし、そうした論考においては、支配主体の意思やその作動機制の分析が不十分との認識に立ち、本稿は米国の遺伝子組換え(GM)作物の種子供給システムにおける「支配」という事態の実態を明らかにすることを狙う。米国における農業者、バイオメジャーや種子販売業者ら関係主体への聞き取り調査の結果をアクターネットワーク論などにひきつけながら分析し、GM種子供給システムにおいて、多様な主体が、特許制度などに方向付けされた知識、モノ、カネのやりとりを通じて複雑なネットワークを構成していること、それらが収束する「計算の中心」としてのバイオメジャーの相対的に大きい影響力を「支配」としてみることができると結論付ける。
牧野 智和 現代学校建築における主体化のモード
+ 抄録を表示
日本の学校建築は、一般には定型的で無味乾燥なものという印象があるが、概して1980年代以後、学校施設の質的整備が全国的に進み、少なくない学校が開放的で個性的な設えをとるようになっている。定型的な学校空間に対しては、ミシェル・フーコーが論じた「パノプティコン(一望監視施設)」への見立てが行われていたが、近年増加する新しい学校建築に対して、それはどのような「政治技術論上の一つの形象」とみることができるだろうか。本稿では、資料分析にもとづいて戦後学校建築の展開を追跡し、今日の「アクティビティを誘発する学校建築」がどのような主体化を志向する装置としてあるのかを検討する。
松永伸太朗・永田大輔 労働社会学における「労働者文化」と労働調査
+ 抄録を表示
河西宏祐は、自伝的テキストで、日本の労働社会学を私史的に振りかえっている。本稿では様々な労働に関する社会科学の中で河西が労働社会学という語を選択した意味を検討し、その学知としての可能性が本来どこにあったのかを検討する。とくに、彼が労働社会学をどのような学知との連関から立ち上げようとし、それがいかなる調査に根付いていたのかに着目する。 河西の学的探究は日本的経営論の批判から始まったが、彼が労働社会学の学問の伝統から引き継ごうとしたのは、労働者に着目する人間の学であった。そこで彼は、労働組合を対象にし、経済学者が注目する経営内的機能よりも、経営外的機能に着目した。そのうえで、質的方法に基づき、労働者文化を記述することでその課題を達成しようとしたのである。こうした方法と課題は、労働組合組織率が下がり労働問題が多様化されているといわれる現在でも労働社会学が修正しつつ引き継ぐべきものだといえる。
元森 絵里子 角兵衛獅子の復活・資源化から見る子ども観の近現代
+ 抄録を表示
本稿は、角兵衛獅子という新潟市南区月潟に伝わる子どもによる芸能の戦後・現代史を明らかにするものである。江戸期に多数巡業していたこの芸能は、明治大正期に一度消滅する。そして、「児童虐待」とされた過去にもかかわらず、「郷土芸能」の「保存」の流れに棹差し復活し、昭和末以降は「ふるさと」「特色」といった機運のなか村の資源となっていく。これがよくある「伝統芸能」の復活・構築の事例と異なるのは、「子ども」をめぐる規範が交錯することである。保存会は、復活期には、賤業の村と蔑視された記憶からくる村内の反発を子どもへの近代的な規範に沿った配慮のしくみを整えてやりすごし、現代では、保存以上の期待を子どもに配慮する現代的な規範に曖昧に乗りながら断る。これは、よくある規範の階層的・地域的浸透図式や、浸透から揺らぎへ、新旧規範の対立といった図式とは異なる形で、子ども観の歴史を諸規範と現実の交錯から描く試みである。
青木 淳弘 横浜市都市デザイン行政の「革新性」は継承されたのか
+ 抄録を表示
本稿は、横浜市の飛鳥田「革新」市政(1963~78)と中田市政(2002~09)という時代の異なる2つの市政の関係の分析を通して、誰が都市空間の編成の性質を決めているのかという問いに対して社会学的にアプローチするものである。とりわけネオ・ウェーベリアン都市社会学者Pahl Raymondのゲートキーパー概念を再評価しつつ、メゾレベルでの行政官やコンサルタントによる都市政策への意味づけを分析することで、両者の間の連続性と断絶を内在的に検証する。本稿の分析からは、高度経済成長期に隆盛した革新自治体から継承されなかった要素を見直していくことの必要性が示唆される。
ロゴスとミュートス(1) : 橋爪大三郎氏インタビュー
+ 抄録を表示
『ソシオロゴス』は、今号の出版で43年目となった。1977年創刊当時の理念でもある「新しい社会学を希求する媒体」として、開かれた雑誌を目指し、出版し続けてきた。私たち社会学者は、『ソシオロゴス』に発表されてきた先人たちの成果を通じて、多くのことを研究できるようになり、さらにその成果を踏まえて、新しい社会学のあり方を提示してきた。 それでは、先人たちが当時問うてきた問題――すなわち「古いパラダイム」の問題――とは一体、何であったのかと問うてみると、私たちは今となっては十分にその問題状況をさし示すことができないのではないだろうか。 もちろん、『ソシオロゴス』のバックナンバーをたどり、論文を読んで検討するといった学説史的検討を行うというのも、過去の問題状況の痕跡を知るうえでの一つの手ではある。しかし、たとえば、当時の社会学が置かれた状況、なかでも投稿者が置かれた状況といったものは、学説史的検討だけでは十分に見えないかもしれない。そうした文脈を補う手法として、私たちが今回試みたのは、『ソシオロゴス』投稿者へのインタビューである。論文を読んだ際には閉じていたネットワークを開く手段として、さらに論文の読み方を変え、当時の社会学の歩みを知る手段として、社会学者による社会学者へのインタビューという調査手法が存在する。 今号では、言語派社会学を提唱し、私たちの社会学の思考の基礎となる枠組みを示した社会学者の一人である、橋爪大三郎氏へのインタビューを掲載する。

ソシオロゴス 42号 (2018年9月発行)

宮部 峻 「宗教」と「反宗教」の近代
+ 抄録を表示
本稿では、1920年代から30年代における日本の宗教教団に着目し、宗教と社会との相互作用の結果として生じた宗教理解の変容、宗教教団による教義の意味づけについて論じる。教義内在的な研究では、宗教の社会活動の社会的文脈は、教義に還元される傾向がある。しかし、本稿で考えたいのは、「社会」の成立とそれへの教団の応答である。1920年代は、社会運動の発生、マルクス主義の輸入を契機に、国家とは異なる次元の「社会」が意識される時代であった。実際、本稿が分析対象とする真宗大谷派教団が社会課を設置するのは、当時の時代潮流においてである。宗教は「社会」に対して融和事業などの取り組みを図る一方で、反宗教運動や「マルクス主義と宗教」論争に代表されるように、マルクス主義の批判の対象となり、自己規定の見直しを行う。本稿では、マルクス主義への応答を通じて、宗教教団が宗教の機能を「反省的なもの」へと規定していくことを示した。
團 康晃 話すこととのむことの相互作用分析
+ 抄録を表示
本論では、読書会における嗜好品摂取を対象に、特に議論の進行と嗜好品摂取の関係について、エスノメソドロジー・会話分析におけるマルチアクティヴィティの観点から明らかにする。そこでは、会話と嗜好品摂取活動とが互いにその進行を阻害しない幾つかの方法が観察された。一つには他者の順番内で嗜好品摂取を行うこと。もう一つには、自分の順番において嗜好品摂取活動を始めることで、自らの順番の完了を予示する機能である。
久保田 裕斗 小学校における「共に学ぶ」実践とその論理
+ 抄録を表示
本稿の目的は、障害児と健常児が「同じ場で学ぶ」小学校の実践の特徴と、その実践に対する教員たちの理解のあり方を明らかにすることである。「同じ場で学ぶ」教育実践は、本稿が調査対象とした地域においては「共に学ぶ」教育運動として展開してきた。この「共に学ぶ」実践について調査をおこなった結果、次の点が指摘できた。第一に、「共に学ぶ」実践においては、特別支援学級担任をはじめとする教員を「支援担」として活用することで、障害児の教育保障をおこなっていた。第二に、運動に関わってきた教員たちは、教員集団の一般的傾向などに言及し、「共に学ぶ」教育の原則の存在やその規範が失われることへの懸念を示すことで、自らの活動を定式化していた。第三に、若手教員は実践的な水準で「共に学ぶ」教育の原則を継承していたが、この若手教員がおこなっていた自らの実践についての理解の仕方は、「共に学ぶ」教育の原則を素通りする危険性を内包するものでもあった。
牧野 智和 オフィスデザインにおける人間・非人間の配置
+ 抄録を表示
近年注目を集める「クリエイティブなオフィス」は、知的創造性に関連する活動(アクティビティ)を誘発する多種多様な仕掛けがそこかしこに埋め込まれ、そのような環境と知的創造に向かう組織のあり方を重ね合わせようとする異種混交的なデザインの対象となっている。本論文ではいかにしてそのようなオフィスの様態が立ち現れたのか、オフィスデザインの変遷について分析を行った。1950年代から1960年代にかけてのオフィスは能率的配置のなかに人とモノをともに埋め込もうとしていたが、1980年代から1990年代にかけての「ニューオフィス」の台頭期においては知的創造性が重視されるようになり、執務室を離れた支援空間でのリフレッシュがそのポイントとされた。2000年代以降、冒頭で述べたような環境デザインが支配的なスタイルになるが、このようなオフィスにおいて知的創造性が実際に高められたかどうかという点は多くの場合ブラックボックスになっている。
永田 大輔 ビデオをめぐるメディア経験の多層性
+ 抄録を表示
1989年のある事件をきっかけとしてオタクは社会問題化する。事件報道で加害者の自室が取り上げられ、部屋のビデオコレクションがオタクと結び付けられた。その結び付けをめぐる二つの語られ方が存在した。マスメディアが事件の加害者を「オタクの代表」とする一方で、批評家が加害者を「真のオタク」でないとも語ったのだ。それらの語られ方が可能になった文脈を当時のビデオの普及状況との関連で検討する。加害者がオタクの代表とされる際に、加害者を「通して」オタクと一般層を切り離した。対して加害者が真のオタクでないという根拠に持ち出されたのは、「コレクションの未整理」である。ビデオテープが高価だった時期は整理が節約の便宜に基づくものだったが、次第に意味を失い、批評的言論の中で「長くオタクを続けてきて」きたことと読み替えられ、加害者がオタクでない根拠とされたのだ。こうした操作はオタク「から」加害者を切断操作するものだった。

ソシオロゴス 41号 (2017年10月発行)

園田 薫 日本で働く専門的外国人における企業選択と国家選択の交錯
+ 抄録を表示
本稿は不断に変化する専門的外国人のキャリア選択の局面を通して、彼らが日本企業での就労をどのように捉えているのかを明らかにする。そこで企業選択と国家選択という2つの概念を設定することで、彼らの動的なキャリアの想定を捉えることを試みる。日本の大企業で働く専門的外国人へのインタビュー調査の結果、多くの対象者はどこで暮らすのかという国家選択が、家族設計という要素を媒介することで、現在の企業で働き続けるかという企業選択の論理に強く影響していた。これは入社以降に家族設計に伴うキャリア上の国家選択に迫られ、想定していた職業キャリアと交錯するなかで、国家選択を重視してキャリアを選択する傾向から導かれる結論である。この結論から、企業選択と国家選択を明示的に区分する妥当性と、企業選択のみならず国家選択に影響を与えるという点において、家族設計の想定が専門的外国人の定着を決める重要な要素となることが示唆される。
芝野 淳一 第二世代の帰還移住過程における構造的制約
+ 抄録を表示
近年、日本人の海外移住が多様化するなかで、自発的に移住先に長期滞在・永住する人々が増加している。それに伴い第二世代の「日本への帰還」のあり方も多様化している。本稿は、グアムの日本人青年を事例に、長期滞在・永住家庭の第二世代が帰還移住過程において経験する構造的制約について検討するものである。結果、かれらはその就労において、自らのルーツの確認や帰属意識の獲得などを目的に、自発的かつ個人的に日本への帰還を試みていた。しかし、移住過程において、日本側の「受け入れの文脈」―労働市場、エスニック・コミュニティ、移民に関する政策―から排除されると同時に、グアム側のそれに包摂される(引っ張られる)ことで、日本への帰還が困難になっていたことが明らかになった。本知見が示唆するのは、日本への帰還に際して困難を抱える「グローバル・ノンエリート」としての第二世代の存在を議論の俎上に載せること、そしてかれらの移住経験を複数の場所における構造的・制度的文脈との関係において解釈することの重要性である。
牧野 智和 「自己」のハイブリッドな構成について考える
+ 抄録を表示
自己のあり方、その行為者性のあり方に「モノ」はいかに関係するのか。本稿ではアクターネットワーク理論(ANT)と統治性研究を手がかりにして、自己とモノ、人間と非人間の関係性を考察する視点の錬磨を試みるものである。人間と非人間の関係は科学技術社会論を中心に検討が重ねられてきたが、その一つの到達点にブルーノ・ラトゥールらが提案したANTがある。この立場は技術・社会・人間を切り分けることなく、異種混交的なネットワークとして記述・理解しようとする新しい魅力的な切り口を提示している。しかし、個別事例を越えたネットワーク化の戦略や、今日増殖しつつあるハイブリッドのデザインという事態までをANTの立場は捉えることはできない。このようなANTの限界を超えるために、ジョン・ローのミシェル・フーコーへの言及、さらに統治性研究を発展的に折衷することで、デザインされる異種混交性の考察が可能になるのではないかと考えられた。
田中 宏治 例外事象によるチーム医療の行動的構造の変容
+ 抄録を表示
本稿は、日本における「チーム医療」に関して、社会学が提言したチーム成員が有する「志向性類型」を批判的に援用しつつ、志向性類型が目指したチーム医療に対する「包括的な把握」の限界を見極め、それを乗り越えるための新たな行動的構造を探求する目的で、ネットワーク分析法を用いて対象である2病院のチーム医療を解析した。その結果、志向性類型では全く表現することが不可能であった例外事象の発生時におけるチーム医療にて「行動的構造の変容」の2パターンを確認することができた。この2パターンの変容は患者に対する中心性と集中化によって「極集中型」と「拡散型」に特徴付けることができた。「行動的構造の変容」という結果は、従来の社会学がチーム医療へ示してきたいかなる指標とも異なり、人的コストの集中や分散、成員間の交渉や調整コストなど、チーム医療という構造への新たな知見を可視化できるものである。
中川 和亮 イベント研究の方法論的検討
+ 抄録を表示
本稿では、イベントに参加したひとびとの経験と日常生活の連続性に焦点をあて、イベント研究の方法論を検討することを目的とする。これまでのイベントを方法論的に検討した研究ではイベントという非日常経験がいかにひとびとの日常生活と連続しているかという点に着目しておらず、また「受け手」がイベントに参加した際の経験の質を検討したものはない。そのなかで本稿では、M.チクセントミハイのフロー理論を補助線として、イベントという非日常経験が、ひとびとにとっていかなる意義があるのか、ということを検討する。ひとびとは各自で自己認識を発展させていく必要を求められる一方で、ひとびとの要求に応じてイベントの「創り手」は擬似的に「かりそめの現実」を提供する。本稿は、「かりそめの現実」による「自己認識の発展」に問題意識を持ちつつ、イベントで「受け手」が醸成しうる別の「自己認識の発展」の可能性を検討する。
池上 賢 「メディア経験を語ること」とアイデンティティ
+ 抄録を表示
本稿では、現代社会におけるメディアとアイデンティティの関係について、メディア経験を語るという行為をエスノメソドロジーの視点から分析することで明らかにする。筆者は先行研究の問題点として、分析対象となる関係性が事前に同定されていること、データの分析において本人によるアイデンティティの理解が看過されていること、以上の2点を指摘した。その上で、分析の手法としてエスノメソドロジーの視座によりメディア経験を語るという行為を分析することを提案し、インタビュー場面におけるマンガ経験について語るという行為を分析した。その結果、語り手のアイデンティティは場面状況に適合的に語るため、相互行為の中で提示されていること、特定のメディア経験を持たない人でも、当該のメディアとの関係の記述により、アイデンティティを提示しようとすることが明らかになった。
正井 佐知 障害のある奏者のオーケストラ参加
+ 抄録を表示
障害者の社会参加の場には、介助方法や対人援助方法など何らかの医学的・福祉的専門知識を有する者が参加していることが多い。このような場に関する研究は今までに多く蓄積されてきた。本稿では、医療や福祉の従事者が関与せず、支援を目的としない場に、障害のある人がどのように参加しているのかを明らかにする。医療や福祉の従事者が関与しない場として、20年間障害のある奏者が参加しているオーケストラαの合奏練習に着目した。そして、楽譜トラブルに関する相互行為の形式的分析と知識基盤の分析を行った。この結果、障害のある奏者の参加を確保するために集団的に団員たちが用いている実践的ルーティーンの知識が明らかとなった。