ソシオロゴス 48号 (2024年11月発行)
市川 結城 | 前期ホルクハイマーにおける批判的実践主体の問題 + 抄録を表示
本研究は30年代のマックス・ホルクハイマーの議論に対して先行研究において指摘された難点、つまり批判的実践主体の不在という問題を検討する。この時期の彼の思想では論文「伝統的理論と批判的理論」が主に注目されるが、そこに焦点を置くことで、そこに結実するに至るまでの時期の思想である「唯物論」はしばしば閑却されてきた。本研究は主に1933年の論文「唯物論と道徳」に注目し、「批判的実践主体はいかにして可能なのか」という問題に焦点を当て、「唯物論」期の可能性を探るものである。その結果、ホルクハイマーがショーペンハウアーのペシミスティックな世界観やカント道徳論の現実批判的な側面という遺産を継承しつつ、「共苦」や「関心」という概念を通じて、主体の苦悩と現実的実践をつなぐ理路を構成していることが明らかになった。
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鄭 世暻 | 化学物質過敏症が持つ「非可視性」と患者の「可視化作業」 + 抄録を表示
本稿では「論争中の病」である化学物質過敏症の「非可視性(invisibility)」と、それに対する患者の「可視化作業(visibility work)」がどのようなものなのかを明らかにする。化学物質過敏症患者は診断されないまま、正統な患者として認められないことが多い。その上、化学物質過敏症は「感覚の非可視性」、「認知の非可視性」そして「存在の非可視性」の3つの「非可視性」を持つとの指摘がある。そして、患者はこのような状況を改善するため様々な「可視化作業」をする。8人の患者の語りを分析した結果、この作業は3つの部分から構成されていることが分かった。まず、患者は写真で自分の苦痛を可視化したデータを作る。そして、化学物質過敏症より先に正統化され、認知度が高いシックハウス症候群を活用する。最後に、患者は自ら被害者であると主張する。本研究を通じて、化学物質過敏症患者は「患者」と「被害者」の間で正統性を得るために努力をしていることが明らかになった。
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金 磐石 | モビリティの中で場所を捉え直す + 抄録を表示
本研究では移動する主体が地域社会の境界を越えた身体的な移動の中でどのように場所を捉え直し、場所への帰属の感覚を再構築するかを検討する。従来の都市・地域社会学における移住・移動研究は、移動する主体がどのように地域コミュニティに参入し、地域住民とつながりを形成するかという問題に焦点を当ててきた。しかし本研究ではモビリティ研究の議論を踏まえ、身体的移動と場所との関係に着目することで移動する主体の帰属の感覚を捉え直す視点を提示した。こうした視点から、本研究では韓国南部の南海郡に移住した若者たちの移動の実践と場所の感覚を分析した。地域以外への移動の経験は一方では地域への帰属を更新する契機となる。しかし他方では地域以外へと活動の領域を広げることで地域への帰属を相対化する契機ともなる。そこから本研究では移動する主体が流動的で両義的な帰属の感覚を形成していることを明らかにした。
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盧 秀彬 | エミール・デュルケムにおける「道徳の科学」の認識論 + 抄録を表示
本論文は、エミール・デュルケムの「道徳の科学」において道徳的理想が構成される論理を、認識論の観点から解明する。デュルケムの道徳の科学は、既存の事実を認める実証主義的認識論によって現存の道徳を再生産するという保守主義的理解を振り払えずにいる。それに対して、本論文はデュルケムの道徳の認識論について、カントの道徳形而上学の批判的継承を通じて修正された合理主義の立場として解釈した。その結果、合理主義における主観に対する客観の超越を個人の意識に対する集合意識の超越に置き換えた上で、個人において具現化される個別的な事実を超え出る道徳を経験的に探求するという「道徳の科学」の論理を明らかにした。
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卜 新哲 | うつ病の責任帰属フレームに関する分析 + 抄録を表示
本研究は、フレーム理論に基づく報道の内容分析を行い、中国共産党の機関紙である『人民日報』における2000年から2020年までのうつ病の責任帰属の態様を、個人レベルの責任帰属と社会レベルの責任帰属に分類して考察を行った。その結果、うつ病の責任が米国における報道のように個人に過度に帰属されず、罹患要因や解決策の帰属先が個人と社会にバランスよく配置されていることがわかった。また、『人民日報』の責任帰属フレームでは、うつ病の「医学的・心理学的モデルの頻用」及び「罹患責任の外部化」といった特徴が見出された。以上の知見から、『人民日報』におけるうつ病の責任帰属フレームの構築には、文化的な特性だけでなく、政治的要素も関連している可能性が明らかになった。こうした本研究の発見は、中国のマスメディアにおける精神疾患に対するメディアフレーム研究に対して、新たな実証的な知見を提供するものといえる。
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藤村 達也 | 独学する受験生たちの紙上共同体 + 抄録を表示
受験競争がどのように経験されているのかを捉えるうえでは、受験をめぐる意味秩序、すなわち受験文化の視点が必要である。本研究は、増進会の通信添削とその会報『増進会旬報』を対象に、受験メディアを通じて形成され共有される受験文化の特徴と機能がいかなるものであり、それが大学受験の大衆化によってどのように変容したのかを明らかにすることを目的とする。1950年代から1960年代の『旬報』上では投稿欄や筆名を用いた会員間の活発なコミュニケーションが行われ、「Z会」に対する共同体意識が生じていた。またそうした共同性を基盤にした会員間の競争が学習意欲を向上させる装置として機能していた。その後1970年代以降になると、会員の増加・多様化や成績管理の合理化により『旬報』の構成やそこでのコミュニケーションが変化したことで共同性は衰退し、加熱装置の中心は共同性に基づく会員間競争から、個別化された学習管理へと移行した。
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平井 正人 | オーギュスト・コントの「歴史的方法」 + 抄録を表示
本論文では、社会学の創始者として知られるオーギュスト・コントが、自らの「先駆者」として位置づけたニコラ・ド・コンドルセの『人間精神進歩の歴史表の素描』を乗り越えるため、社会学に固有の方法として明示している「歴史的方法」とはいかなる方法であるかを、18世紀の博物学者たちが編み出した「自然的方法」との関連に着目することによって、明らかにする。コンドルセが博物学者たちの「自然的方法」を無視したことを批判したコントは、その基本的な考え方を「社会現象」にも適用すべきだと考えた。それによって生まれたのが「歴史的方法」であり、それを適用することによって得られたのが、動物学者が「自然的方法」によって構築する「動物系列」に類比的な「社会系列」である。コントの「歴史的方法」とは、18世紀まで支配的だった「分類理性」の産物であり、その原理を徹底させることの危険性は、コントの性差別主義に如実に現れていると言える。
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上村 太郎 | 「百合」ジャンルの成立過程の検討 + 抄録を表示
本稿は、異性愛規範の中で不可視化されてきた「女性同士の親密な関係」を主題とする「百合」というメディアジャンルがいかに成立したか、その過程を検討する。先行研究の課題として挙げられる「ジャンルの構築性への留意」「創作者への注目の不足」を踏まえ、「概念分析の社会学」の視座から、ジャンル成立の契機とされる1990~2000年代前半の同人活動の創作者の実践を分析した。結果、「男性向けポルノグラフィ」ではない女性同士の親密な関係の表象を描く実践が、同人活動で共有された特有の概念と結びつきつつ複数の領域で定着したのち、それらを指示する「百合」という分類概念が登場し、表象を巡るより広い社会的実践を可能にする「ジャンル」が構築されていたことが明らかになった。またこの知見から、ジャンル研究における「概念分析の社会学」の方法論的有用性、及びジェンダー秩序の変動という観点からの「百合」の分析の可能性を提示した。
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荻堂 志野 | 都市において「記憶の場」はいかにして存続するのか + 抄録を表示
これまで構成員が流動的で記憶や歴史の共有がしづらいという理由から、都市における「記憶の場」というテーマはあまり扱われてこなかった。本稿は、当時の公文書や豊島区内部資料を用い、東京拘置所跡地開発の経緯を明らかにすることを通じて、都市において「記憶の場」(Nora 1984=2002)がいかにして存続するのかという問いに答えることを目指すものである。東京拘置所は「巣鴨プリズン」として戦犯の処刑を行なった歴史から、区民や都から移転が望まれる存在だったが、開発計画が進む中で、拘置所内の刑場跡地を保存しようという動きが起こる。戦犯の顕彰につながるという理由により区民団体から保存を反対された刑場跡地は、「平和」というレトリックを用いることで、都市公園内に「平和の碑」という形で残されるようになる。池袋という都市において、「記憶の場」は意図的に歴史性を曖昧にされることで今日まで存続が可能になっているのである。
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柴田 惇朗 | 舞台芸術において表明/実践される「集合モデル」 + 抄録を表示
これまで、芸術生産の社会学は芸術家アイデンティティの獲得・維持を論じてきたが、芸術の生産主体を個人とする「個人モデル」を暗黙的な了解としてきた。一方、近年の芸術界においては集合的な芸術生産主体が模索されており、「集合モデル」を表明する事例も多くある。本稿では、「個人モデル」的な実践から「集合モデル」的側面を前景化させた舞台芸術団体Sと主宰Aを対象に、主体の表明と実践の関係、および「集合モデル」的志向を表明する意味を分析した。「集合モデル」への志向を表明したグループSは実際に脱中心的な芸術生産実践を行っていたが、「個人モデル」も維持されており、表明と実践のいずれにおいても「個人モデル」と「集合モデル」の使い分けや混在が確認された。また、「集合モデル」の表明自体がAにとって「生産プロセス」および「評価」の局面で意味があるため、活動の継続に寄与している可能性が示された。
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ロゴスとミュートス(6) 大澤真幸インタビュー:詩的な深さと思弁的な明晰さ + 抄録を表示
今号では、理論的研究から社会批評に至るまで、アカデミズムの内外に影響を与え続けている大澤真幸氏へのインタビューを掲載する。
社会学は社会に生きる人が直面するアクチュアルな問題を分析し、表現し、発信する。社会学者は言葉を用いながら、その言葉をなくしては表現できないような世界の広がりを伝えなければならない。それでは、文学的・詩的であるとされる一方、思弁的であると受け取られることもある大澤氏の文章が社会学者にとどまらず多くの人びとを魅了し続けているのは一体なぜなのだろうか。その答えを知る手がかりは、身体という根源的なテーマを起点に出発した大澤氏の理論的探究にある。社会や世界の成り立ちを根本から考え直したとき、私たちは今直面している問題の普遍性に気づかされるのである。
今号のインタビューを読めば、詩的な直感を手放さず、思弁的な明晰さをもって世界の広がりを深く表現する手がかりを知ることができるだろう。
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