東京大学倫理学研究室

研究室沿革

出典:『東京大学百年史』

一、創設期

東京大学には当初から哲学関係の講義のひとつとして「道義学」なる講義が行なわれていたが、倫理学講座が実質的に誕生したのは明治二十六年(一八九三)である。この年、講座制が施行され、「心理学・倫理学・論理学」の二講座が置かれたが、倫理学は論理学とともにその第二講座であった。

講座の担当者は中島力造(一八五八~一九一八、明治二十三年授業嘱託、同二十五年教授)であった。のち深作[ふかさく]安文(一八七四~一九六二、明治四十一年講師、同四十五年助教授、昭和三年教授、同十年停年退官)がこれに加わった。

大正七年(一九一八)に至って倫理学講座と改められたが、同年末中島の逝去のため翌八年から吉田静致[せいち](一八七二~一九四五、明治四十二~四十三年・大正八年講師、昭和八年停年退官)の担当するところとなった。さらに大正十五年には倫理学第二講座の増設を見、深作がこれを担当した。こうして現在の倫理学科の体制が整うに至ったが、それと相前後して、西洋の倫理学・倫理思想の紹介という明治期の学風から一歩進んだ研究や日本の倫理思想の研究が行なわれはじめた。

創設期より昭和八年(一九三三)までの講義担当者は次の通りである。

教官 在任期間 中島力造 明治二十三-大正七年 深作安文 明治四十一年-昭和十年 吉田静致 明治四十二、四十三、大正八-昭和八年 藤井健次郎 明治四十二-大正二年 友枝高彦 大正五-昭和八年 土田誠一 大正八-昭和七年 長屋喜一 昭和二-昭和八年

二、人格主義の伝統

明治期においてはさまざまな西洋倫理思想が紹介され、ベンサムやミルの功利主義、スペンサーの進化論、ルソーやモンテスキューらの自由思想、シュタインやグナイストらの国家主義などが雑然と共在して、思想界は混沌たる状況であった。そうした明治初年の倫理学界にT・H・グリーンの自我実現説を紹介し、大きな影響を与えたのが中島力造である。中島は生物学的自然主義とは異なる人格主義・理想主義を提唱し、倫理学の学としての独立性を主張した。

中島は、古今の倫理学説を探究して問題を取り出そうとする「歴史的方法」、個人精神における道徳現象を確かめる「心理学的方法」、制度・慣習の変遷差異を問う「社会学的方法」の三つをあげ、これらを帰納法的態度で駆使する科学的倫理学を展開した。ちなみに、「パーソナリティ」の訳語として「人格」を用いた最初の人は中島である。

吉田静致は最初グリーンに影響されたが、その超越的傾向を排して、超越的なる神は人格に内在すると説き、自説を「人格的唯心論」と規定した。特殊即普通主義あるいは同円異中心主義と呼ばれる。吉田の学説は以下のようである。

人間の努力の方向は人格の実現にある。人格はもとより有限であるが、自己を有限なるものと自覚するのはすでに無限なるものに参与する所以であり、逆に無限は有限なるもののうちに自己を顕現することによりはじめて真の無限と言える。したがって有限即無限、特殊即普遍であり、すべての人格は、同一・無限・普遍の大いなる生命の、中心を異にし焦点を異にする円あるいは球としての顕現にほかならない、と。吉田はこの立場から、具体的普遍の倫理を説いたのである。

日本の社会、国家を問題にする方向で、国民道徳論、国家倫理学への関心を代表したのは深作安文である。

水戸学の精神を継承する深作は、グリーンの自我実現の倫理学の影響をも受け、「人格的国家主義」と自ら呼ぶ立場を確立した。水戸学は日本精神を闡明するにあたり儒学によるが、深作においてはそれが西洋の倫理学であった。人格は個人における意識の統一であるにとどまらず、個人の思想と行為の動的な主体にほかならない。人格の活動は、潜在状態にある自我に意義と内容を与えてそれを顕在化させるはたらきである。こうした諸々の人格の自我創作の共同の成果が国家創作にほかならず、自我創作即国家創作の理を説く立場が人格的国家主義である。人に永遠性を与えるものは人格中心の国家生活であると説く深作は、第一次世界大戦後わが国に影響を及ぼしはじめた社会主義や民主主義に対し、熱心な批判活動を展開した。

本学科に属する学会として当時、読書会、倫理研究会、大学院学生研究会があった。読書会は中島が西洋の倫理学の新著を解説し批評することを目的として明治三十八年に創設したものである。倫理研究会は初め「倫理談話会」と称された教職員、学生、卒業生の研究及び親陸の機関を昭和になって学生の要望をもとに改めたものであり、月に一回程度例会をもった。大学院学生研究会は学生の研究報告及びそれに関する討議を目的とするものであり、二週に一回程度会合をもった。これらはいずれも太平洋戦争終結近くまで続けられた。

三、昭和期―和辻教授就任

昭和八年(一九三三)に至り吉田定年退官のあと第一講座は深作と哲学科教授の桑木嚴翼が分担するところとなったが、この年深作病気のため倫理学概論は講師友枝高彦が代講した。翌九年七月に京都帝国大学より和辻哲郎(一八八九~一九六〇、昭和二十四年停年退官)が教授として就任し、第一講座を担当した。さらに昭和十年深作の停年退官のあとはしばらく第二講座も和辻の分担するところとなったが、十四年から金子武蔵(一九〇五~、昭和十二年講師、同十三年助数授、同二十一年教授、同四十年停年退官)が担当した。

なお、この時期の教員には前記の友枝・長屋両講師のほかに、吉満義彦(一九〇四~一九四五、昭和十~十九年講師)、村岡典嗣(一八八四~一九四六、昭和十~二十年識師)がいた。

吉田・深作の停年退官に相前後して就任した和辻は、その年(昭和九年)三月に『人間の学としての倫理学』を出版したばかりであり、また翌年九月に出た『風土』と『続日本精神史研究』を準備しているときでもあって、その新鮮な学風は倫理学科の空気を一変させた。

日中戦争が起り、戦時下の統制が徐々に大学に及ぶようになると、大学院の学生も一桁の数にまで減少した。文学部学友会発行の『会誌』一六(昭和十七年二月)に当時の助手深作守文が寄せた次の文章からその頃の本学科の学問的傾向をうかがうことができる。

> 次に我々の間に見られる一つの学問的動向に就いて記したい。それは比較的多数者の関心が倫理学の理論研究よりも、我国の倫理思想に関係した歴史的研究に向ってゐる事である。この事実は卒業論文に選択される題目を見ても明瞭である。ここ一、二年の間にこの方面では記紀に現れた古代思想、親鸞、藤樹、葉隠、心学、諭吉などに関する卒業論文が書かれた。今年は道元、蕃山、素行、南洲等の研究や「義理」の研究等がプラトソ、パスカル、ハイデッガー等と列んでゐると聞いてゐる。今年はカントやへーゲルに関したものは無いやうである。

ちなみに同『会誌』創刊号(昭和三年一月)に当時の助手牧野信之助が寄せた一文からその年の卒業論文の題目をひろってみると、「個人と社会との関係に就て」「グリーンの倫理学」「フィヒテの義務論」「社会改造論の倫理的考察」「シェーラーの倫理学に於ける幸福主義の問題」「コーエンに於ける純粋意志と道徳的自覚」「意志の自由」「フィヒテに於ける自由の概念」「道徳的価値と神の概念」というものがみえる。十数年の間に生じた差は歴然たるものである。深作助手は「それは世人の間に次々に掲げられ喋々されやがて忘れ去られる、彼の『標語』に追随するやうなものである筈はない。我々の問題は標語ではなくて一通の努力では把握出来ない底の無尽の内容を具へた事態それ自身である。之は容易ならぬ仕事である。けれども各自の持続的な勉強と研究室のよい団結とはやがて豊饒な収穫を約束するものである事を疑はないのである」と希望をこめて結んでいるが、倫理学科は重大なる試練の時を迎えていたのである。

四、人格より人間へ―和辻倫理学

和辻哲郎の『人間の学としての倫理学』(昭和九年)は、 日本の倫理学界にとって画期的な仕事であり、カント、マックス・シェラーらの諸学説との批判的対決でもあった。和辻はその後『人間の学としての倫理学』に確立された立場に立って人間存在の理法たる倫理を体系的に叙述する仕事を、『倫理学』上巻(昭和十二年)、中巻(昭和十七年)、下巻(昭和二十四年)において行なった。

『人格と人類性』(昭和十三年)が示すように、和辻にとって人格なる概念が無意義であるというのではないが、和辻の仕事は「人格より人間へ」という関心の変化をもたらし、人格主義は哲学的人間学へと変容されたといえよう。和辻は、人間をもって端的に共同存在として、間柄的存在として把握する。人間は人の間、すなわち世の中や世間をも意味している。人間とは世の中であるとともに世の中における人である。それは個人と社会との弁証法的統一としての具体的なる人間である。こうした人間の共同存在的あり方をそれとして成立させる理[ことわり]が倫理にほかならない。それは個人に自らの否定を要求し全体に還帰せしめるとともに、他面この全体をも否定して個たらしめる、否定の否定という絶対的運動(空の弁証法)を通じて限りなく実現されていくべき絶対的全体性である。

人間存在の諸相は、家族・親族・地緑共同体・経済組織・文化共同体・国家という人倫組織の諸段階において考察されるべきものである。このうち国家は他の即自的な人倫諸組織を自らのうちに包摂し整理統合して、それらの組織の人倫組織としての自覚を促すものである。国家とともに、時間性は歴史性となり、空間性は風土性となる。風土の類型は、モンスーン・砂漠・牧場であり、これら三者の特性は同時に人間の性格であって、ここに受容的忍従的なるモンスーン的人間、能動的戦闘的なる砂漠的人間、自発的合理的なる牧場的人間という典型的人間像が見てとれる。また人倫組織の歴史をふりかえってみると、国家の発明された時代、自由国家の創造された時代、国民国家の実現された時代に分けうる。そして歴史において未来を望むとき、歴史の問題は国民的当為の問題となる。和辻は現代の国民的当為すなわち国家倫理を「一つの世界の形成」ととらえ、諸国民の個性を尊重する多様の綜合的統一を展開した。しかし同時に和辻は、体系と歴史とを峻別し、日本の精神と風土学をつくりあげるべく、村岡典嗣とともにこの方面での着実な歴史的研究を進めた。それは『日本倫理思想史』二巻(昭和二十七年)に集約される。和辻はそこでも「ザッヘ、そのものへ」という解釈学的客観主義の学風を貫いている。

倫理は主体間の理法であるが、これはまた諸々の文化において客体的に表現される。この表現の理解と解釈を通じて倫理をとり出そうとする方法が和辻の解釈学的方法である。考古学的史料や造形芸術作品も解釈の対象となる表現であるが、倫理学・倫理思想史にとって最も重要なる表現は文献である。文献の解釈は和辻にとっては与えられた文献のうちに、それがまさに与えられたるがままに含んでいるところの客観的なるロゴス的構造を、具体的体験のうちに得られた生きた直観の光に照して現象せしめる学問である。和辻は西洋の文献学者の業績に学び、その原典批判の方法を原始仏教聖典やギリシャ古典などに適用して新しい解釈を学界に提供した。『原始仏教の実践哲学』(昭和二年)と『ホメロス批判』(昭和二十一年)はその成果である。

五、戦後

敗戦は、 新生への幕開けでもあった。 和辻の教職追放問題が本学内で取沙汰されたこともあったという。和辻は昭和二十年の三月頃から「近世というものを初めから考えななしてみる」研究会を組織し、敗戦の学的反省をいち早く試みたが、その成果は、昭和二十二年度に「人倫の世界史的反省」と題する講義として発表され、『鎖国』(昭和二十五年)にまとめられた。

和辻は昭和二十四年(一九四九)に停年により退官し、本学科の第一講座は、代わって古川哲史(一九一二~、昭和二十二~二十三年講師、同三十二年教授、同四十八年停年退官)が担任した。古川の退官後は、小倉志祥(一九二一~、昭和三十~三十二年講師、同三十二年専任講師、同三十八年助教授、同四十六年教授、同五十七年停年退官) がこれを担任した。また第二講座は、金子が担任したが、その停年退官(昭和四十年)後、相良亨(一九一二~、昭和三十七年講師、同四十年助教授、同四十六年教授、同五十七年停年退官)がこれを担任した。

この間、昭和二十八年(一九五三)より新制の大学院が発足し、これまで正規の授業に組み込まれていなかった院生にもしかるべきカリキュラムが課されることになり、昭和二十八年から三十七年まで淡野安太郎教授(一九〇三~一九六七、昭和三十八年停年退官)、そのあと昭和三十八年から城塚登助教授(一九二七~、昭和四十四年教授)を大学院の専任として招いた。また、昭和三十五年より、従来の卒業論文(一二単位)とともに、特別演習(年四単位、昭和四十四年十二月より年六単位)の制度を併設し、卒業論文に代えて二学年以上にわたる特別演習報告によっても卒業ができるようになった。

昭和四十三年(一九六八)にはじまる大学粉争は本学科においても深い爪跡を残し、無期限の学生ストライキ、学生間の対立、研究室封鎖など正常な教育・研究機能が一年近く停止した。卒業者数は、昭和四十四年三月零、六月四名、昭和四十五年三月零、五月一五名、昭和四十六年三月二名、六月八名という不規則な数であった。

昭和四十八年に古川が停年により退官したあと、第一講座は教養学部助教授濱井修(一九三六~、昭和四十五~四十七年講師、五十七年教授)が配置換えされて担当することとなり、次いで昭和五十三年より第二講座は佐藤正英(一九三六~、昭和五十~五十二年講師、五十三年助教授)が担当するところとなった。そして昭和五十七年には、小倉、相良の停年による退官を迎えている。

戦後から昭和五十六年度までの教員は次表のようである(特に記されていなければいずれも講師)。

教官  在任期間
矢島羊吉  昭和二十二年
下村寅太郎 昭和二十四年
勝部眞長  昭和二十四~二十七年 昭和三十年
山本光雄  昭和二十五~二十六年 昭和三十七~三十九年
松本正夫  昭和二十七年
大内三郎  昭和二十八年 昭和三十一年
亀井裕   昭和二十九年 昭和三十一年
淡野安太郎 昭和三十二年~三十七年教授
城塚登   昭和三十三~三十四年講師 昭和三十五~三十六年助教授 昭和三十八年 昭和四十年~四十一年 昭和四十三年
吉澤傳三郎 昭和四十~四十二年
数江教一  昭和四十一~四十三年
数江教一  昭和四十五年
湯浅泰雄  昭和四十三年 昭和四十八~四十九年 昭和五十二年
廣瀬京一郎 昭和四十四~四十五年
上妻精   昭和四十五~四十九年 昭和五十三~五十六年
源了圓   昭和四十六年~四十七年 昭和五十~五十一年
市倉宏祐  昭和五十~五十六年
林田新二  昭和五十~五十二年
今井淳   昭和五十年
生松敬三  昭和五十三~五十四年
子安宣邦  昭和五十五年
竹内整一  昭和五十六年

また、昭和二十八年から昭和五十六年までの大学院担当の教員は次の通りである。

教官  在任期間
松本正夫  昭和二十九年
藤井義夫  昭和三十二~三十六年
大内三郎  昭和四十~四十二年
信太正三  昭和四十三~四十四年
湯浅泰雄  昭和四十五~四十七年
吉澤傳三郎 昭和四十八~四十九年
市倉宏祐  昭和五十~五十六年

六、人間より実存へ―金子倫理学

金子武蔵は本学科就任前に、「SubstanzからSubjektへ」(昭和七年)、「出来事としての歴史」(昭和九年)、「道徳の根拠」(昭和九年)など倫理学の原理に関する一連の論文を発表しており、そこではアリストテレスに出立して形而上学の問題を考えながら、解决をへーゲル的な主体に求めようとする姿勢が一貫しており、人間学の弁証は矛盾弁証法たること、そうした弁証法的人間学における道徳の根拠が「絶対無」を措いて外にあり得ないことが論じられていた。この意味で金子は和辻の哲学的人間学を継承するといえるが、しかし「事物の人」、「知識の人(超越の人)」、「不安の人」を区分し、人間の人間性を「不安」のうちにとらえようとする金子の立場はすでにのちの実存の立場を先取りしているといえよう。

金子の畢生の仕事であるヘーゲル『精神の現象学』の訳註の仕事は、昭和七年(一九三二)上巻、昭和二十七年下巻及び上巻改訳、昭和四十六年上巻改訳、昭和五十四年下巻改訳と行なわれた。その厖大かつ精細な解説・各註・総註を併せ見るならば、単なる翻訳であるにとどまらず、優に独自の研究と称すべきものであろう。原典理解の深さと周到さにおいて英仏の類書をはるかに凌駕し、日本におけるヘーゲル研究を世界的な水準に押し上げる力をもっている。金子にとって『精神の現象学』の研究は近代日本の伝統的形而上学の長所であると同時にまた短所であった悪しき意味における禅宗的無媒介性を克服する足場の意味をもっている。和辻倫理学においてはややもすれば全体が根源の位置を奪い、相対的全体性が無媒介に絶対的全体性となってしまう点を批判する金子は、全と対等の資格をもつべき個から出発しようとするのである。

金子は『実存理性の哲学』(昭和二十八年)においてキルケゴールからサルトルにおよぶ実存主義思想の現代的意義を究明し、特にヤスパースの哲学に重きをおいてその思想の深みを研究すると同時に、これを自家薬籠中のものとしてあらたに独自の「実存理性」の立場を提示した。それは「理性」と「実存」とが相結合することによってその哲学的意義を全うすることができるという洞察をもって、理性哲学を乗り越える地平を開くとともに、実存主義を真に時代克服の哲学として発展させようとするものである。この「実存理性」の立場から独自の構想のもとに打ち建てられたのが『倫理学概論』(昭和三十二年)である。その主眼とするところは、人間の存在を社会的連帯性においてとらえるとともに、実存的な深さにおいて把握し、この深さに徹することによってかえって人と人との結びつきも人格的でありうるというにある。和辻倫理学が人間を相互に結びつける面に重点をおくものであったのに対して、各個人の主体性、個別性の面を生かしたところにそのもっとも重要な意義があるといえよう。

キルケゴール=ヤスパースの実存哲学はキリスト教の伝統に立脚したものであるが、実存の最高段階たる宗教的実存をいかにして把握することができるか。金子はこの課題に社会哲学をもって答えようとする。宗教的なるものは、原始社会において最も明らかに看取されうるように、社会的共同的なるものにその基礎をもつからである。金子のこの方面の仕事は初期の主著『ヘーゲルの国家論』(昭和十九年)に結実している。 これはヘーゲルの思索の根幹をなすものを民族生活の概念にみとめ、政治も歴史も宗教もこの民族生活の構成契機であるかぎりにおいて彼の問題になっているという観点から、修業時代に端を発して晩年の『法哲学』のうちに結実するに至る国家観の成立と展開の過程を丹念にたどった本格的な研究である。

社会的共同的なるもののロゴスの変遷、展開を把握する仕事はまた精神史の課題でもあるが、この方面でも金子は、『近代ヒューマニズムと倫理』(昭和二十五年)や「近代精神の対自化としての十九世紀」(昭和二十五年)等のすぐれた仕事を行ない、近代精神の特徴として主体性、無限性、作用性の三つを取り出して、近代から現代への転換の意義とそのあるべき方向を論じている。金子の学殖の豊かさと洞察の深さは『講座近代思想史』全六巻(昭和三十三年)『新倫理学辞典』(昭和四十五年)の編著にも集成されている。

七、倫理思想史研究の発展

古川哲史(昭和二十一年~同四十八年)は従来あまり顧みられなかったフランスの社会学派の方法に学んで文献に反映された道徳事実を探究する道徳の科学という独自の立場にたち、日本倫理思想の歴史的研究を行なった。『王朝憧憬の思想とその伝統』(昭和三十三年)、『武士道の思想とその周辺』(昭和三十二年)は、古川の日本倫理思想史研究の仕事である。ありふれた文芸古典を資料とする手法は、和辻の方法の継承とみなすことができるが、古川は『葉隠』・『甲陽軍鑑』・『武道初心集』の校訂の仕事をするなど、学科の伝続たるフィロロギーの精神を伝えた。

古川はまた、『殉死―悲劇の遺蹟』(昭和四十二年)のような道徳事実の研究を開拓し、斎藤茂吉と高村光太郎の詩歌・思想生活のうちに「全力的」・「純粋」という倫理的価値意識を取り出している。

昭和二十八年 (一九五三) の新制大学院の設立に際して教養学部から招かれた淡野安太郎は社会主義思想や現代フランスの社会哲学を対象とした授業を行ない、この方面の本格的な研究にあまり接してこなかった本学科の弱点を補った。

小倉志祥はカント研究者として知られるが、 その成果は『カントの倫理思想』(昭和四十七年)に示されている。そこで小倉は、後期シェリングのカント解釈に学びながら、「純粋理性の理想」を頂点としてカント哲学を解釈しなおすという独自の構想をもってカントの倫理学の哲学的な根源と背景を解明しようとする。叡智者としての人間の自主性と有限性を後期シェリングの強調する主体の自己性という方向で深めようとする小倉の立場は、キルケゴール=ヤスパースの実存哲学の立場である。小倉はまた、古代から現代に至る西洋倫理思想史・西洋倫理学史の該博で的確な知識をふまえた歴史研究にすぐれる。小倉は現代の価値哲学や社会哲学にも関心をはらっているが、この方面での成果としては『M・ウェーバーにおける科学と倫理』(昭和三十三年)がある。

相良亨は近世日本の儒教運動の研究から出発したが、近世の儒教思想の展開を「敬」と「誠」という相対する概念を中心に克明にとらえた『近世の儒教思想』(昭和四十一年)は、倫理思想史研究の新たな出発点でもあった。相良にはほかに『葉隠』・『言志四録』などの校注・解説の仕事がある。生き方の問題をめぐって自己自身との対決をふまえて文献と対話し、作者の主体の内面にかかわった文献の読み方をきびしくもとめる学風は、倫理思想史研究の今後の方向を示唆するものである。

これは『武士道』(昭和四十三年)にもすでにうかがえるが、その実り豊かな成果は『本居宣長』(昭和五十三年)に示されている。そこで相良は、超越的なもの・人間関係・情の三つがいかに捉えられていたかという問題への関心をもって宣長の思想にかかわっているが、それは同時に現代に生きるわれわれ自身さらに伝統との対決の問題でもある。

城塚登は、ヘーゲル、マルクス、フォイエルバッハの研究から、「フランクフルト学派」を研究しつつ、弁証法の再構成を試みつつある。著書に『若きマルクスの思想―社会主義思想の成立―』(昭和三十年)『フォイエルバッハ』(昭和三十三年)『近代社会思想史』(昭和三十五年)『新人間主義の哲学』(昭和四十七年)などがある。

濱井修は、M・ウェーバー、ポパーらの社会哲学の研究から、批判的合理主義による新しい倫理学の構築を目指している。著書は、『社会哲学の方法と精神』(昭和五十年)、『ウェーバーの社会哲学』(昭和五十七年) がある。佐藤正英は、古代・中世の日本倫理思想史研究を志している。著書に、『隠遁の思想―西行をめくって―』(昭和五十二年)がある。

昭和九年より五十九年までの学部・大学院の授業担当者は次のとおりである。

(注)教授・助教授・専任講師在任期間を()内に示す 深作安文(昭和9-10) 友枝高彦(昭和9-12) 長屋喜一(昭和9-13) 和辻哲郎(昭和9-24) 金子武蔵(昭和12-40) 古川哲史(昭和21-48) 淡野安太郎(教養学部)(昭和28-37) 小倉志祥(昭和32-57) 城塚登(教養学部)(昭和38-) 相良 亨(昭和40-57) 濱井修(昭和48-) 佐藤正英(昭和53-)

(注)講師在任期間を()内に示す

吉田義彦(昭和10-19) 村岡典嗣(昭和10-20) 矢島羊吉(昭和22) 下村寅太郎(昭和24) 勝部眞長(昭和24-27、30) 山本光雄(昭和25、26) 松本正夫(昭和27、29) 淡野安太郎(昭和28-37) 大内三郎(昭和28、31、40-42) 亀井裕(昭和29、31) 小倉志祥(昭和30、31) 藤井義夫(昭和32-36) 城塚登(昭和33-36) 相良亨(昭和37-39) 吉澤傳三郎(昭和40-42、48、49) 数江教一(昭和41-43、45、48、49) 湯浅泰雄(昭和43、45-49、52、58) 信太正三(昭和43、44) 上妻精(昭和45-49、53-56、58、59) 濱井修(昭和45-47) 源了圓(昭和46、47、50、51) 市倉宏祐(昭和50-56) 林田新二(昭和50-52、57) 佐藤正英(昭和50-52) 今井淳(昭和50) 生松敬三(昭和53、54) 子安宣那(昭和55、57) 竹内整一(昭和56-58) 濱田義文(昭和57) 伊藤勝彦(昭和58-59) 野崎守英(昭和59) 小泉仰(昭和59)

八、学会など

戦前の大学院研究会にあたる科外の研究会は戦後においてもそれぞれの教授の指導のもとに行なわれた。そのなかで、金子教授の指導のもとに行なわれた月曜研究会の成果のひとつは『倫理学事典』(昭和三十三年)とその改訂版『新倫理学事典』(昭和四十五年)であるが、これは日本における初めての本格的な倫理学事典として学界に寄与するところ大であった。

昭和二十五年(一九五〇)十一月二十五日に和辻哲郎を会長として創立された日本倫理学会は、その当時の学界に共通した全国的学会設立の動きのひとつであったが、今日八百名の会員を集める中堅学会として日本の倫理学界を代表する組繊となっている。学会創立の準備段階から金子武蔵や古川哲史はこれに加わり、古川は実務面で大きな役割を果したが、両者は創立以来評議員として学会の運営を主導してきた。和辻逝去のあと昭和三十六年より五十五年まで金子が会長に選出されたが、金子は学会活動の充実をめざし、昭和四十一年から共通課題発表をもとにした論集の刊行を始めるなど、学会の事業の発展に努力した。なお学会の事務局は創立以来昭和五十七年度まで本学科内に置かれ、助手が幹事として学会の実務を担当した。

金子はまた、昭和二十六年二月二十三日にヤスパース協会を設立し初代理事長に就任したが、この会は昭和二十九年に実存主義研究会へと発展的に解消され、さらに昭和三十二年に実存主義協会へと発展した。この会は研究会、講演会などの活動のほか、雑誌『実存』(昭和三十二年に『実存主義』と改題)を発行して今日に至っている。

明治二十八年(一八九五)倫理学講座の実質的誕生後初の卒業生から昭和五十七年(一九八三)三月の卒業生までの総数は六一九名に達する。その内訳は、明治二十八~三十七年(哲学科のうち倫理学関係の卒業生を推定した数)三二名、明治三十八~大正八年(哲学科倫理学専修卒)九一名、大正九~昭和二十年(戦前の倫理学科卒)二二一名、昭和二十一~五十七年(戦後の倫理学科卒)二七五名である。

附記

昭和60年以降の所属専任教員の構成は下記の通りである。

濱井修 (昭和11〜)昭和48年度〜平成  8年度
佐藤正英(昭和11〜)昭和53年度〜平成  7年度
関根清三(昭和25〜)昭和63年度〜平成27年度
菅野覚明(昭和31〜)平成  3年度〜平成24年度
佐藤康邦(昭和19〜平成30)平成8年度〜平成17年度
竹内整一(昭和21〜)平成10年度〜平成21年度
熊野純彦(昭和33〜)平成12年度〜令和4年度
頼住光子(昭和36〜)平成25年度〜現在
古田徹也(昭和54〜)令和元年度〜現在