西 窓 妄 語
    
  汐留にて
2001. 1. 2 登載/2003. 1. 17 更新

近藤 和彦西窓index

  パーソナルなコーナーです。 とくに関心のない方はご遠慮ください。Back

 → ギャラリ閑話   → イリイチ/ドゥーデン:現代文明と人間性  → 団塊の世代の同期会



カオス=非線形のダイナミックなシステム

  2月7日の夜、お茶の水にて合原一幸氏のお話を聴きました。「複雑系とカオス学」。カオスとはただの混乱、アトランダムな無秩序ではないのでした! 神はカオスに宿っておられる!

    17世紀の科学革命以来の知のあり方の文脈でいうと、17世紀〜19世紀の科学は problems of simplicity を少数の変数(要素)の因果連関解析によって、たとえば運動量=mV2 といった具合に、決定論的につきつめていた。それと対比される problems of disorganized complexity については、たとえばブラウン運動のような無数の変数の平均挙動を確率論的にあつかってきた。いずれも実験室的に条件を限定したうえで、線形を重ね合わせて合理的な近代科学の体系をつくっていたわけだが、じつは、この世のほとんどあらゆるシステムをなす現象は非線形(nonlinear)であって、たとえば天気予報も、溶鉱炉の管理でさえ、ほんの20年前までは、科学よりは、経験と勘のほうが頼りになった。株価の予測にいたっては、いまだよほど幸運なやつでないかぎり誰も成功していない。こうした度はずれて複雑にして大規模なシステムの problems of organized complexity* にきちんと取り組もうというのが、複雑系・カオス学の人々なのだ、と理解した。

  こうしたカオス、すなわちニュートン物理学的な決定は不可、予測も不能、そして情報圧縮もできない i.e.要約不可!の「非線形大規模システム」を問題にしている科学者たちのスタンスは、といえば、複雑すぎる全体をかつてのように目的論ないしholismや、一方の還元論で対処するのではない。
     
要素還元+線形決定論
でできあがっていた近代科学の方法に異議を申し立てている。しかし、また要素解析を否定するわけではない。あるregime のなかの要素(変数)をきちんと調べ分析したうえで、その非線形構成論を探求しているのだ。すなわち
     
要素解析+非線形構成論
これはわれわれ歴史学の営みとどう違うのだろう。数学を駆使し、数理モデルの構築を究極の目標にしている、という点ではたしかに別世界だが、ある本質的なところで共通した、現代の知の営み、と受けとめた。(上の
* は「有機体=共同体の複合性という問題」と訳すことさえできる!)

  出席者12名ほど(昨夜は過半数が理工医系)のなかで、ぼくはもっとも数学から遠く、鈍重なほうに属するのだと思うが、それでもなにかが分かって、嬉しく励まされる夜でありました。ジャーナリスト田原総一郎に分かってもらうために作ったという「カオスマン」の振り子モデルは、たしかに数理モデルよりは「わかった!」という気がしました。 というわけで、メドックの赤ワインにも引き立てられた幸せな一晩があけて、関連サイトをいろいろ見て歩いているわけです。

   cf. 〈複雑系がひらく世界〉『別冊 日経サイエンス』1997年
     関連するが別個の講演の、きわめて簡単な レジュメ+参考文献 はこちら。
     合原氏とご家族の写真が公開されています。

以上、このページの議論に独創性は何一つありませんが、
それにしても、所感はわたしのものであり、無断引用は禁じます。
2001年2月8日 近藤 和彦


時間の批判に耐える こちらです
 

冬のロンドンにて         1995年1月執筆、未公表

  イギリスの冬は朝から曇天で、雨がぱらつき、四時には真っ暗という日がつづいたりして、なにか積極的に楽しまないかぎり身も心も黴ついてしまいそう。その楽しみの一つに、BBCの「ラジオ3」がある。音楽と朗読を批判的に楽しむ人々の番組。定時から二・三分遅れても気にしないでやっている。

  シュニットケの六〇歳を記念して、コンサートやラジオ放送がつづく。ほとんど何も知らなかったわたしとしては嬉しい発見で、同時にそのヴィオラ協奏曲をひいたY・バシュメットを意識しはじめた。一一月にクレメル、バシュメット、ロストロポーヴィチとロンドン交響楽団(LSO)でやった演奏会を逃したのは、いまでも残念。その数日後にラジオ3で放送したが、本当の楽しみは実演だ。

  その一一月の初めには、M・ポリーニの演奏でベートーヴェンの最後の三つのピアノソナタを聴いた。古典派かロマン派か、という範疇分けからすれば、すでにロマン派だが、ここには近代的な意志が貫いている。ポリーニの演奏は速めのテンポで安っぽい情緒に耽溺することなく、いわば高邁な宇宙への階梯をしめす。最初の作品一〇九でわたしはもう少しゆっくり、頼むからもっと優しく、と心のなかで言いつづけていたが、次の作品一一〇ではもう完全にベートーヴェンを(ポリーニを?)受け入れて、そう、これでいくのだ、これしかないではないか、と納得すると同時に涙があふれてきた。現在の自分を厳粛に肯定され励まされた気持。日本の甘くウェットな社会で文句を言いつつも温々とやってきた自分と違う自分が、ベートーヴェン(ポリーニ)に近づいていると感じた、と言うと大袈裟か。そんなことはない。ベートーヴェンがそのように人を高揚させるのだ。休憩後の作品一一一では、会場すべてが心一つになってしまったかとも思えた。

  三曲終わって、一種の虚脱感のまま舞台脇から吸いこまれるように楽屋に迷いこみ、ポリーニと握手し、うわ言を口にした。こんなミーハー的な行動に出るなんて、初めて。ただちに帰途につく気になれず、下のバーでワインを頼み、座席について人々を眺めているうちに、自分がため息ばかりついているのに気づいた。隣の中高年の三人が「あの左手でゆっくり無限に上昇していくトリルに、右手で力強い低音‥‥」などと言いながら両手を交錯させている。同じように高揚するものを感じたのだろう。ロイアル・フェスティヴァル・ホールからウォータルー橋に上ると、右に聖ポール大聖堂をのぞみ、左にはサヴォイからチャリン・クロス駅にいたる建物がライトアップされて、夢のような情景。

  年末に、ウラディミル・アシュケナージがロイアル・フィルハーモニク(RPO)の音楽監督を解任されるという報が『インディペンデント』紙によってスクープされ、これをめぐって、いくつかの評論がでた。ヨーロッパ文明とリベラリズムの旗手のごとき『インディペンデント』は、アシュケナージに同情的。ロンドンは、最近にかぎってもバレンボイム、パールマン、ズーカマンといった大陸の音楽家の活動の場であった。その伝統がこれで途絶えるのだろうか、と問いかける。二〇年間も関係のつづいたアシュケナージと十分に協議することなく次の音楽監督を決めてしまったRPOの軽率をいましめる『インディペンデント』と対照的に、『ガーディアン』紙は、むしろポストモダンをかかげて、アシュケナージに冷たい。

  いわく、今やトスカニーニ、フルトヴェングラ、ワルタ、そしてセル、カラヤンの頃のように、大楽団と大聴衆を啓蒙専制君主のようなマエストロが意のままにあやつる時代ではない。ピッチの低い古楽器による小編成の演奏が普及したことによって、ロマン派後期以来のピッチの高い大編成のダイナミックスに慣れてしまっていた我々の耳は相対化されてきた。音楽づくりは、かつてのマエストロの時代とは一変したし、この変貌は不可逆的だ。一方ではオーケストラ運営が民主的になり、他方では商業的なコスト計算と音楽企業との提携が大きな意味を占めるようになった。今という時代には、C・アバードがベルリン・フィルとの間で築いている関係のように、各パートに社団的(corporate)な表現の自由のスペースを認め、全体の構築についても不確実性を容れてゆくほかない、というのである。

  なるほど。だが、落ち着いて考えてみると、別にアバードじゃなくても、カラヤンに比べれば誰しも自由主義だろう。アシュケナージが専制君主だとは、思えない。年来の『ガーディアン』の進歩主義と知的衒いも鼻につくなぁ、などと考えながら、ウェストミンスタのスミス・スクウェアへ向かった。聖ジョン教会でJ・E・ガーディナと「革命期・ロマン期オーケストラ」のコンサートがあるのだ。じつは同じ日時にバービカンではF・ブリュヘンと「啓蒙の時代オーケストラ」のコンサートがあり、どちらにするかという贅沢な悩みのうえ、場所と曲目からこちらにした。ブリュヘンは好きだから、残念だが、そちらのバッハは十分に予想できる。ベートーヴェンを古楽器でどうやるのか、という好奇心に負けたわけだが、とても良かった。

  スミス・スクウェアの聖ジョン教会というのは、一七一三〜二八年にバロック風の外観、古典様式の内部をもつ教会として建設され、一八世紀半ばに火災、第二次大戦ではドイツ軍に爆撃されるという数奇な運命をたどり、キリスト教会としての機能は終えた。建物のみ一九六九年にオリジナルのとおりに修復のうえ、二重窓などを加えて音楽堂として使われ、室内楽や小編成のオーケストラの録音で知られている。今晩はシューベルトの交響曲五番とベートーヴェン。ピアノフォルテでロバート・レヴィンが「合唱幻想曲」と「皇帝」を弾く。ヴァイオリン各八、ヴィオラ六、チェロ五、バス四に二管編成で、狭いステージは一杯。合唱はモンテヴェルディ合唱団三二名。わたしの席は左のギャラリ(二階)の二列目、第一ヴァイオリンの上で、指揮者の横顔ないし彼がヴァイオリンを向いたときの正面を見おろす位置。弦が正面に、管が左に聞こえるという変な位置だが、なんといっても、チェンバロを少し大きくした程度のピアノフォルテを四五度くらいの角度で見下ろすので、正面を向いたピアニストの両手も表情もすべて見える。満員でざっと五〇〇人強だろうか。

  シューベルトは快活に演奏。合唱幻想曲(作品八〇)はベートーヴェンが戯れに作った、というと悪いが、楽器も合唱も有効に能力を発揮しきれない。将来の第九を想わせてすばらしい部分もあるが、全体の構成からすると、ベートーヴェンにもこんな凡作があったのね、と凡人には嬉しくなる作品。

  休憩したあと、皇帝(作品七三)の前にレヴィンが発言して「皆さんがなじんでいらっしゃる『皇帝』を期待なさると、幻滅されるでしょう。大オーケストラと競い張りあうピアノではなく、オーケストラを構成する一つの楽器としてピアノフォルテが演奏されるのです。またベートーヴェンの手稿に従って、通奏低音のように奏する箇所もあります」と説明。近代の勝利を謳歌するような作品を、修復された一八世紀前半的空間にひびく、ややピッチの低い近世的な音響で聴く。テンポはやや速め。ピアノフォルテおよび木管のキーの摩擦がときに耳につくことはあったが、近世・近代・現代・現在・表現・再現といった語の錯綜をそのまま音楽にしたような、不思議なモダン・リプリゼンテーション。演奏もよかったし、聴衆もほとんど共鳴的。指揮者とピアニストは演奏を終わると抱きあっていた。

  啓蒙と革命とロマン主義は、日本の戦後歴史学(と教科書)では前二者は進歩、後者は反動という具合に対抗的にとらえてきたが、ベートーヴェンの場合に一目瞭然のように、啓蒙の時代をへて「二重革命の時代」にロマン主義もほとんど同時進行する。というよりベートーヴェンはたしかに古典主義のなかで育ち、革命とロマン主義の時代を生きたが、時代を越えてもいた。啓蒙と歴史主義、合理(利)と中世趣味、人類と民族、普遍と特殊。ベートーヴェンはロマン主義のアポリアに面と向かい、個別性の対立を越えて人類の友愛を、あるいは永遠を謳いあげたのではないか。同時代性と、それを越える個性。

  こんなことを考えながらテムズ川畔にでて、寒風を受けつつ川向こうのランベス宮やこちら側の国会議事堂などを眺める。そう、ランベス宮は化石のごとき国教会のキャンタベリ大主教の居城だし、国会議事堂は一八三四年の火災のあとの擬似ゴシック建築だ。近代のただなかの中世趣味+権威主義。ライトアップされたこのパックス=ブリタニカの象徴を 美しいと感じるか、遺跡(夢のあと)と考えるか。

  土曜の夜、キャンバウェル・オペラ団の「フィガロ!」をみる。ロンドン北郊、ハムステドの坂をほとんど上りきったあたりの小路にある、ニューエンド劇場(NET)という、六〇人で一杯になるくらいの劇場。こんな所でモーツァルトのオペラをどう演じるのだろう、と案じながら開演を待った。音楽は指揮をかねる男のピアノ(アップライト)と、序曲のみは出演者全員の合唱を加えて。F・M・ウィリアムズの実験的な楽しい演出で、神に愛でられしアマデウスの才能の花火が、速いテンポで、これでもかというように次から次に噴きだし花開く。序曲から最後の大合唱にいたるまで、オペラの最高の楽しみを凝集した三時間弱。その楽しみのうちには権威とモラルを愚弄する軽やかさも含まれているから、この演出では、第一幕で伯爵は伯爵夫人と性交してしまい、そこをスザンナが目撃する。これには、左手の座席にいた六〇歳くらいの上品な女性は気分が悪くなったらしく、同伴者に付き添われて出ていった。マルチェリーナがフィガロの実の母と判明して二人が抱きあっているのを見て怒ったスザンナは、フィガロの頬を打つのでなく、股間を蹴り上げる。終幕の前には、伯爵夫人と共謀したスザンナは伯爵を闇の庭園に誘いだすべく、伯爵に抱かれて舞台に横になってしまった。

  終幕の最後に、策略にひっかかった伯爵をして「許せ、許されよ」と懇願せしめ、この浮気で下劣な貴族を笑いのめして大団円を合唱する人民と聴衆には、爽やかなカタルシスが残る。アンシァン=レジームの末期に「フィガロの結婚」が惹き起こしただろうスキャンダル性を現代において十分に再現する演出だった。出演者たちは歌がうまいし(英語で歌った)、伯爵夫人とスザンナは美人。そのぶん残念ながら伯爵はやや貫禄不足、ケルビーノは美少年とは言いがたかった。
 

All rights reserved, 1995/2001.

  → Q&A: 音楽・時差・世界システム



1988年4月上旬、友人たちにあてた私信です:

  新緑の美しい今日このごろ、皆さんお元気のことでしょう。

  実は3月28日の研究会の後 今日まで2週間以上このワープロに触れることさえなく、研究室と自宅の引越と荷解きに忙殺され、今日午後いよいよ文豪ミニ5Hの箱をあけ、まったく久しぶりにご対面、最初に打つのがこの文章だというわけです。少々指がもつれます。つい先日はじめてこの部屋に入ったときには冬景色だった窓の外には、銀杏と欅がきそうように小さな葉を日ごとに大きく多くのばしています。本郷構内には圧倒的に落葉樹の巨木・古木が多いのに今更のように気づきました。

  この4階、西向きの部屋にようやくおちついて改めて見回しますと、名大文の308号室に比べて、かなり明るくモダンな感じがします。壁もドアも白く、書棚は淡灰色、蛍光灯が(名大では4本だったのに)むきだしで12本もあるためかもしれません。広さについていうと、幅はほぼ同じ、奥行が2メートルほど長くなりました。ただ天井がやや低く、前は8段の書棚のうえに段ボール箱をおくスペースがあったのに、ここではそれができません。

  なおここと隣つづきの組室 suiteとは、今年度から西洋史が使う新しい空間です。北西角の組室は演習室として使用することになっていますが、今は書棚と新しい机椅子・白板以外は空。約200箱をまずこの演習室に記号順におき、おもむろに、机・常・α・別といった順にあけて排架しましたが、緑の箱(periodicals と保)はもう床のうえにそのまま積み上げました。4月15日(金)の午後からイギリス史・フランス史の史料集がこの演習室に入るので、混乱を避けるためです。結局この部屋を支配しているのは、鈴木書店と西村書店の段ボールのカラーということになりました。それでも何とかコーヒーやお茶をゆっくり味わう空間は確保しました。

  この建物の1〜3階は講義室・演習室のみで、教官研究室が4階にほんの若干あるだけなので(そもそも非常階段のごときを昇ります)静かなことこの上なし。窓の外に遠く望む建築中のビルのクレーンがややわずらわしいとはいえ、隔絶された小宇宙です。ちなみにここで最初に聴いたのは、不老町の最後の曲と同じく、バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ各1番(ミンツ)でした−−これ以外のカセットがすべて荷のなかに入ってしまっていたためでもありますが、荷を開いたあとも、ほとんどバッハ的音響に囲まれているとご想像ください。

  〈以下略〉

All rights reserved, 1988/2003.



 → 発言・小品文 お蔵  → 本郷の四季