『朝日新聞』名古屋本社版1987年9月5日夕刊
団塊の世代の同期会

近藤 和彦
2003. 1.17 登載


中学の同期会の案内が舞いこんだのは、梅雨のころであった。卒業後二十五年、団塊の世代も不惑の年を迎えて、近況を語りあい、旧交を暖めようというのだ。ぼくの通ったのは、千葉市の台地にあって、比較的小さく、自由な雰囲気の中学校だった。

懐かしい友がきの顔も浮かび、楽しいことも思い出すが、つらいことも一杯あった。数学の授業の前には必ずのように腹が痛くなる時期もあった。誰とつきあい、どういう通学路をとるかで、幼い心が傷つくなぞ、しょっちゅうだった。そういうぼくも、小さくて弱々しいTをいじめたことがある。会わせる顔のない人が多いなあ。そもそも何人の顔が分かるだろうか。

出席か欠席か、迷いをふっきったのは妻の一声。「行ってきたら。四〇年の人生、色々考えるわよ。」そういうわけで、キョウチクトウの咲きほこる暑いさなか、久しぶりに千葉まで行ってきた。

四〇年の人生。戦後すぐのベビーブームの真ん中、一九四七〜八(昭和二二〜三)年に生まれたぼくたちは、日本の戦後史を生きてきたようなものだ。いくつかの地方都市を移り住んだが、生まれた松山で大きな民間ビルといえば、二階建にごく一部三階を付け足しただけの三越だった。

小学校に入ったのは一九五四(昭和二九)年。ビキニ水爆実験で第五福竜丸が被爆し、台風で洞爺丸が転覆した年である。小学校五年の春には長島茂雄が巨人軍に入り、国鉄の金田正一との対決で四三振を喫するのを、友人宅のテレビで見た。校庭にスクリーンを張って町内のみんなで見る映画会がよく催されたが、その前座のニュースには、五八年秋から警職法、皇太子結婚式、伊勢湾台風、三池争議、安保、といった事件がつづいた。

その六〇年安保の年に、ぼくたちは中学に入学したのだ。県庁前の広場には、大学生が安保反対のデモに出かけた後に、鞄が文字通り山と積まれていた。池田内閣にかわると、高度経済成長路線は一種の国是と化し、千葉市の海岸はすべて埋め立てられ、街並もどんどん新しくなった。

東京オリンピック、ベトナム戦争に耳目をそばだてながらの高校生活。ビートルズ、サルトルが来日した一九六六(昭和四一)年に大学に入学したが、そこは学費・学生自治・反戦などで燃え上がりはじめていた。

そういう時代の子だから、同期生の中には六九年一月十八日の東大安田講堂に篭城した者もいる。同期の卒業生一二七名のうち、遠くは福岡から、名古屋圏からは五名、合計五八名が集まった。死んだのは二人(すい臓ガンとクモ膜下出血)。同期同士の結婚は二組。ずっとシングルを通しているのは、男女とも数名ずつ、離婚経験者は少なくとも二人。自営、主婦、中間管理職、専門職や芸術家と、それぞれの活躍は目を見張るものがある。五名の同期生が海外で生活中だ。

あこがれの国鉄に就職して十七年、予想もしなかったJR分割民営化の渦中にあるSは、詳しい名簿をパソコンで作成してくれた。秀才でスタイルもよく、生徒会長もやったWは、髪がやや薄くなった今も旧師や(女子生徒だった)オバサンたちの注目を集める、有能なる弁護士である。子育てに一息ついている専業主婦のうちには、「このままでいいのか」と焦っている人が少なくない。フォークダンスで、ペアを組むのをいつも楽しみにしていたZ嬢は、ついに来なかった。あの弱いTは、アッと驚く変身、医大を出て、たくましくも剣道四段の脳神経外科部長である。

だが、誰よりも出席者を驚かせ、にぎやかな会を神妙にさせたのは、中学・高校を通じてWと成績の一、二をきそい、中学生にしてすでに大人のムードを漂わせ、太宰治とワーグナーを愛していたMの近況だった。Mは同期のM嬢と結婚して十余年になるが、先週手術したばかりで、欠席するという。

中学三年の時、新任の音楽の女先生を囲むグループの中心に、Mはいた。ぼくもその一味で、音楽室のレコードは全部聴いたし、一緒に千葉で最大の音楽専門店松田屋に繰り出して、毎日のようにフルトヴェングラー、トスカニーニ、ワルターのレコードを聴きくらべていた時期もある。二、三年して大学オーケストラの仲間と結婚した女先生の嫁ぎ先、伊那谷まで、Mは尋ねていったりした。

そのMは、会社勤めのかたわら、アマチュア・オーケストラでチェロをひき、夫人のピアノにあわせて室内楽を楽しんだりしていたはずだが‥‥。ぼくが名古屋に来てから十一年、いつしか年賀状のやりとりだけになっていた。「それにしてもそっけない年賀状をよこすやつだ」と内心不満に思っていたが、今年の正月はいつもと違って、ワープロで近況が打ちつけてあった。難病で大学病院に通院している、というのは気にかかったが、例の太宰的表現だな、と軽く考えていた。

ところが今回出席した夫人によると、Mの病気はしばらく前から進行していて、会社は休職。車椅子の毎日で、テレビで音楽番組を見て、涙を浮かべていることもあるという。 「若い時、私たちは傲慢でした。‥‥難病にくじけそうな時に、一番嬉しかったのは、思いがけぬ旧友の力添えでした」

そういう小柄なM夫人は、車椅子のMを飛行機と自動車に乗せて、昨シーズンほんの数日だが、ミラノ、ウイーン、ロンドンとまわり、オペラを楽しんできたという。旧師、旧友の間を談笑して歩き、二次会にも残って、「近藤くん、あまり成長してないんじゃない」などと軽口を飛ばす夫人の態度には、皆が力づけられた。というのは、こうだ。

あんなに輝いていたMが年賀状に「私は最終的に <あっちの世界> の住人になったんだな」とワープロで打ちこむのは、確かに不幸の表明ではある。だが彼は、中学からこの人と思い定めていたM夫人に、連れ添われている。これまで四十年間、そこそこの人生を送ってきた中年男女も、これからの四十年間には、確実に病気や不幸に出会うだろう。それは誰にも想像できる。M夫人の、苦しみを突きぬけた淡々たる明るさ、強さは、フツーの中年を厳粛な気持にさせ、また勇気づけるものだったのである。

二次会も後半、「今の日本を支えてるのは我々だよ。今の若いの、どうなってんの」などとグチリ始めた頃には、居合わせてカラオケに興じる新人類の勢いは増すばかり。われら中年男女は、文字通り団塊のごとくコーナーに追いつめられて、「青春時代は‥‥」とかいうニュー・ミュージックに圧倒される思いで、若かったあの頃、人の生き方、日本の来し方行く末をつくづく考えこんでしまった。

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