『朝日新聞』名古屋本社版1986年12月20日夕刊
現代文明と人間性

近藤 和彦
2003. 1.16 登載


イリイチ、ドゥーデン両氏の話を聴いて 

ある土曜の午後、南山大学でのこと。「発展と近代社会」と題する公開講演会があり、国連大学(東京池袋)の招待で日本に滞在しているバーバラ・ドゥーデンさん、イバン・イリイチさんが講演し、その後自由に交流できた。予定のプログラムは少し変更されて、ドゥーデンさんは、しあげたばかりの学位論文にもとづいて「歴史における女性のからだの知覚」を論じた。ついで「人はいつから社会を経済の眼鏡で見るようになったか」を語ったイリイチさんの話は巧みで、かつて中米でカトリック神父だったという経歴もうなずけた。

 「脱学校」「脱病院」をとなえ、「経済セックス」を批判するイリイチさんの話は、まずラテン・アメリカでも日本でも伝統的に行われてきた「雨乞いの舞踏」から始まった。これを迷信、非合理な儀式、気休めと片づけるわけにはゆかない。干ばつに苦しむ人々は、その儀礼的舞踏の意味と効果を信じてキチンと手順を踏み、独特の式次第にしたがって舞い踊ったのだ。正しく踊れば、まもなく雨が降る。もし降らなければ、儀礼の手順をどこかで間違えたのだ。──こうした雨乞いを一笑にふす人々は、ではいったい現代の<雨乞いの儀礼>の意味と効果を熱心に信奉していないだろうか?

現代の<雨乞い>

 イリイチさんも言うとおり、いつごろからか人は必ず自宅ではなく産院で生まれ(ペースケの奥さんも出産のために必死の思いで産婦人科に駆けこんだ!)、また必ず病院で死ぬことになってしまった(「畳の上で死ぬ」ことができるのは今やごく特権的な人々に限られる)。風邪をひいても、飲み過ぎても薬か医者を頼りにする。わたしたちは、自分の生と死を医学に預けてしまおうとしているのか。他方には、学校=教育がほとんど強迫観念と化している現状がある。うまく学校教育に適応できない者はどこかで間違っている、責任はその子か家庭にあって、教育制度の方にはない、という発想法の浸透。そして、科学・技術・工業の恩恵と進歩にたいする、神への畏敬にも似た信奉・・・・。

 こうしたイリイチさん言うところの、現代の<雨乞いの儀礼>を問題とし、いつごろからそんな「心の空間」が成立してしまうのか、これを考えるのが、お二人共通の課題だ。今は心とからだの問題を歴史的に解明する共同作業に従事している、という。ドゥーデンさんはヨーロッパの十八世紀から女性のからだがどう知覚、認識されてきたかという側面から、イリイチさんは十二世紀のからだや屍臭の研究を手掛りに。

 歴史学はかつて現在(現代)を神秘化し正当化するためにあった。お二人にとって歴史研究は、過去によって現在(現代)をかえりみるため、相対化するためにある。ドゥーデンさんの明晰な主張は印象的だった。

文明 vs 人間性?

 だが、こうした主張への共感も、討論に移ると疑わしくなりはじめた。「我々二人は文明の利器を放棄・断念している。TVも新聞も、本当は自動車も飛行機も利用したくないのだ。権利放棄(リナンシエーション)こそ我々の訴えたいことだ」というイリイチさんにたいして、そういうのは特権的少数者のわがままであって、額に汗して働く人々まで権利放棄したら、世の中は成り立たなくなるのではないか。すでに前提として存在している資本主義の分析をなおざりにしておいてよいのか、といった質問が続いた。これにたいするイリイチさんは、たとえをひき、議論を単純で極端な対立に誘導し(科学技術の肯定はSDIの肯定である、等)、あたかも文盲の民に説教するがごとく、独演会のような雰囲気になってきた。

 よく経験することだが、日本人は遠来の知識人を丁重に迎えても、簡単な質疑応答以上に深入りして、むずかしい議論を続けることはあまりない(これを知った遠来の客人は、日本人はアホかズルかどっちだろう、と疑念を抱く)。実のところ日本人同士でも、ふだん異分子・異論と正面からつきあって「話をつける」のはなるべく避けようとしているのではないか。日頃から一般社会でも教育の場でも、ひとを気にし、技術的・道具的知識ばかり重視して、考える楽しさ、究明するおもしろさを粗末にしているかに見える現代日本を憂えていたわたしは、お二人の意外な姿を目のあたりにして、諸々のことが一度に胸にあふれ、ふだんより一オクターブも高い声で、こう発言しはじめた。

 イリイチさんの議論はどこかの政治家みたいに強引で、デマゴギー(愚民操縦)的に話を誘導している。質問者たちは、産業革命以来の科学技術を全面否定するのでなく、それを制御し、コミュニティの人間関係を大切にし、自然環境の恵みを尊重し、階級的・性的差別を憎み、「北」による「南」の収奪を牽制し、戦争回避のために努力しよう──そのために微々たるわたしたちにも何かできるだろうか、というデリケートな問題を話しあおうとしているのだ。文明と人間性をあいいれない対立項として考えるのはまずい(医学も電話もステレオもうまく使えば大きな喜びをもたらす)。そもそもイリイチさんは繊細な感性をもつ人だからこそ、現代文明に大きな疑問符を投げかけてきたのだと思っていたのに、今日の態度を見るのはとても悲しい。興奮してわたしがそう述べた後は、イリイチさんの雄弁は影をひそめてしまったようだ。

 会の終わった後、お二人はこちらをめがけてやってきて謝意を表し、実はこのわたしも歴史研究者だと知って喜び、今後の文通を約束した。そう、大きな会場でヤリトリできる問題ではなかったのかもしれない。もっと小さな集まりで時間制限なしに、それこそイリイチさんの言う「生気はつらつたる交わり」の中で、持続的に追求してゆくしかない問題なのに、わたしはご両人でなく、わが祖国を憂い、憤り、むやみに興奮して論じていたのだ。長身のお二人は何度も振り返りながら、夕闇の中に消えていった。

両氏とて前近代への全面回帰を夢見ているのではないだろう。現代の与件のただ中で、選択肢は限られているが、小さな試みを積み重ねてゆこうではないか。激することではなく、遠くを見通した静かな情熱こそ、いま必要なのだ。

 

イヴァン・イリイチ 1926年ウィ−ン生まれ、現在メキシコに住む。主な訳書は『シャドウ・ワ−ク 生活のあり方を問う』、『ジェンダー 女と男の世界』(ともに岩波書店)、『脱学校の社会』(東京創元社)、『脱病院社会』(晶文社)、『経済セックスとジェンダー』『ジェンダー・文字・身体』(ともに新評論)。2002年12月に逝去。
バーバラ・ドゥーデン ドイツ生まれ、現在、ベルリン工科大学。共著の邦訳に『家事労働と資本主義』(岩波書店)がある。

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