学生の声

私の「印哲」―「今」と「自分」をこえて

 東京大学大学院・人文社会系研究科・アジア文化研究専攻・インド文学インド哲学仏教学専門分野・博士課程1年生のGiglio Emanuele Davide(ジッリォ・エマヌエーレ・ダヴィデ)と申します。イタリア生まれです。現在は蓑輪顕量(みのわけんりょう)先生のもとで、「日蓮遺文(いぶん)」について研究しております。
 インド文学インド哲学仏教学研究室、略して「印哲(いんてつ)」に入ったのは2008年4月の時でした。 「仏教学科」などというところを設けている大学はまだどこにもないイタリアから参りました私ですが、最初のころはいったいどのような場所にいるのかはよくわかっておりませんでした。
 西欧では「仏教」といえば、宗教として数え、宗教思想史のなかで扱うことが多いかもしれませんが、「印哲」の場合、仏教学研究室は宗教学部ではなく、個別に文学部に入っております。
 私は北イタリア・トリノ大学・外国語学部・東洋学科出身です。トリノにおりました時も、「東アジアの宗教と哲学」という授業に通い、宗教史を通して初めて仏教思想史という分野に接触したと、今でもよく覚えておりますが、やはり最初から思想史的なおよび思想的なアプローチでした。
 日本でも、「仏教学」をやっていると申し上げると、宗教をやっているかと聞かれることもありますが、仏教をそのまま宗教として扱っているとしても、大学で研究しているのですから、まず宗教思想史のなかで捉え、宗教学研究室などで研究しているはずです。しかし、私は確かに文学部で、別な研究室に入っております。
 これはいったいどういうことなのでしょうか。答えはそれほど難しくはないですけれども、私はそれが見つかり、納得するまで、2008年4月から2010年の2月、入学試験の時まで約2年間がかかりました。
 「印哲」はまず文学部ですので、仏教を宗教や思想よりも、リテラチュアとして扱っております。要するに、仏教文献学であり、あえて英語を前提に考えて申し上げますと、「Buddhist Literature」となりましょう。と申しましても、思想的なアプローチは一切試みないわけでもありません。ただ、あくまでも文献を前提に接して参ります。
 そこで、文献を読むには「読む力」が求められ、インド仏教か、チベット仏教か、中国仏教か、日本仏教か、どちらを選ぶかによって、サンスクリット語やパーリ語、チベット語、タミール語、仏教漢文、日本の古文などで読む力を身につけていかなければなりません。この点では、「印哲」は宗教学どころか、時々「古代言語学」のほうに近い気が致します。
 学問の世界では、人間は言葉を前提に考え、思想活動を行っていくという立場をとることが多いです。対して、宗教の世界では、言葉をこえた次元や境地を前提に、偉大な宗教家は一方それ以前の伝統を受け継ぎつつも、他方は独創的に己れの思想を展開していったと考えられます。ただし、それを世の中に伝えると、言葉に頼って伝えていくというのも事実でしょう。どちらにしても、言葉の壁とぶつけ、「言葉の力」を意識することは不可避なのです。
 昔の言葉、すなわち今とは違う人類の古い記憶に沈んだ別世界に入り込むという挑戦は誰にとっても楽な体験ではあるまい。最初から楽にできる人はほとんどいないと思います。ですが、「今」という時代と「自分」という文化的アイデンティティをこえたところで、いったい何が待っているのでしょうか。私はラディカルな相違性と出会い、ぶつかってこそ、「今」と「自分」というものを相対化することによって初めて明確に見えていくと感じており、この点に関して「印哲」では、多彩な人類と異世界と出会い、魅力に満ちた冒険に旅立ってくることができると実感しております。

ジッリォ・エマヌエーレ・ダヴィデ 東京、2012年3月

千年前の日本語との出会い―印哲・学部生の方々へ

 千年前の表現に出会い、意味を調べると、どんなに調べてもなかなかわからないという時が数多くできるでしょう。そういう時は「くやしい」とか、「つらい」とか思い、最初は絶望したりあきらめたりもするでしょう。私はいつもそうです。しかし、今はいつもそうなって逆に盛り上がったりします。つらくて盛り上がるという不思議な気分になります。なぜかと言いますと、少し説明を加えたいと思います。
 「どんなに調べてもわからない」「つらい」。そういう時の「つらい」という気持ちは実は大事にするべきだと思います。そこに、千年前の日本語という言語的な他者、時代的な他者、文化的な他者に出会い、ぶつかり、距離をストレートに意識することによって、「今」という時代と「自分」という言語的なおよび文化的なアイデンティティーをこえるチャンスがあると思います。そういう時の「つらさ」を大事にしないと、逆に「今」と「自分」に限定されてしまい、時代的な他者、言語的な他者、文化的な他者と、他者というもの自体を理解する能力までもがいつまでも上達しなくなるのではと危惧しています。
 自分がより明確に見えてくるのは他者のおかげです。どのような他者について、その観点になってみて、「昔」という世界にも入り込んでみましょう。その時、角度を変えて考える能力が身につき、他者理解の達人にもなれると信じております。

蓑輪顕量教授「日本仏教文献講読」(『元享釈書』巻の二講読)受講
ジッリォ・エマヌエーレ・ダヴィデ(印哲博士1年) 東京、2012年4月24日