眼科医布施郁三先生の悲願

前田 專學(東京大学名誉教授)

一 はしがき

いわば余技として、ラフカディオ・ハーンの研究を始めてからかれこれ二十年近くになる。 ハーンの研究といっても、よく知られている「耳なし芳一」や「雪女」などの怪談についてではなく、 ハーンとインド、とくに仏教やヒンドゥー教との関わりについてである。

筆者は現在、恩師の故中村元先生が三十年前に創立された、学歴・性別・年齢・国籍を問わず、 真に勉強がしたい人のための「寺子屋」である東方学院で教えているが、 その講義の一つが「ラフカディオ・ハーンとインド」である。

先日、その講義の準備をしていたときに、数年前に「小泉八雲とインド思想」と題して講演したときの ビデオ・テープがあることを思い出し、早速授業に使ってみることにした。それは 東京大学文学部布施学術基金公開講演会 「東洋の文化」と銘打ったレクチャー・シリーズの第一回目であった。 このレクチャー・シリーズは、毎年一回行われ、現在も続いている。

ビデオを見ながら、この布施学術基金公開講演会が東大文学部に設置されたのも、 筆者がハーンの研究をはじめたのも、眼科医であった故布施郁三先生のお陰であったことを懐かしく思い起こした。 そして筆者は、布施学術基金運営委員会初代委員長として、布施先生とは、 文学部の関係者の中でもっとも長くかつ親しく接した関係上、 どうしても先生のことを書き遺しておくべきではないかと思うに至ったのである。

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二 布施先生の人となり

布施先生は、明治三十八年六月十一日、千葉県八日市場町ハー六七八番地に生まれた。 先生は布施家の四代目で、初代は布施文四郎(文亮)と言い、天保元年の生まれであった。

文四郎は、江戸に出て、神田お玉ケ池にあった千葉道場に赴き、 幕末の剣客として有名な北辰一刀流の祖千葉周作の門に入り、 「北辰一刀流兵法箇条目録」一巻の伝授を受けた剣の達人であった。 千葉道場で目録を貰ってから、嘉永七年正月二十六日、華岡青州の塾に入門した。 一八六四年に、八日市場村近郊の貝塚において、水戸藩尊攘派天狗党と書生党との激しい白兵戦が行われたとき、 文四郎は臆せず戦場内に進入し、負傷者の治療を行い、数十人を救ったという。 布施先生がこの初代の話をされるときには、いつも何かしら誇らしげな雰囲気があった。 先生には古武士を思わせる何ものかがあったのは、おそらく初代からの血のせいであろう。

大正七年四月、布施先生は千葉県立成東中学校入学、大正十一年四月に、旧制の第二高等学校に入学された。 先生はここで白井成允教授の仏典講義に出席、『勝鬘経』の講義を聞かれ、深い感銘をうけられた。 これが先生と仏教との出会いであった。先生は、筆者への私信(平成四年十月十六日)の中で、当時を偲んで、

「私が高等学校に入学したのは十八歳でした。このとき、私は親や親戚の重い期待を負わされて、 ひとり孤独の感に堪えませんでした。勉強する以外に余念を持つことを許されませんでした。 それで罪の意識などというものは皆無でした。その私が仏典にめぐり会って、うれしさ一杯になり、 東洋に生まれたことを実に幸福に感じたのです。私が仏典をすばらしいと思うに至ったのは、 全く自然必然で、何等の無理も先入観も無かったと言ってよいのでした。」

と回想されている。

大正十四年四月、東京大学医学部医学科に入学されたが、医学部の講義ばかりではなく、 在学中機会あるごとに、高楠順次郎、木村泰賢、宇井伯壽など、 文学部印度哲学梵文学科の教授による仏典関係の講義に出席された。

昭和四年医学部を卒業、 昭和四年九月から昭和六年三月まで、眼科教室にて研究、 昭和六年から昭和十年三月まで、細菌学教室にて研究、 昭和十年四月から昭和十一年三月まで、泉橋慈善病院内科にて研究、 昭和十一年医学博士となられ、 同年四月以降、八日市場において眼科医を開業された。

先生は単なる眼科医ではなかった。 文化の向上には、経済的なゆとりの必要性を感じられ、眼科医開業と同時に農村の振興を図られた。 敷地内で牛や馬を飼い、ハムやチーズ、イワシの薫製作りを教えられたり、桃の木を配布して果物生産を奨励された。 郷里の周辺にあった多くの農業学校を歴訪し、教示を請われた。 当時は、学校長はみな東大農学部出身者であったので、大変に便宜を与えられたという。

第二次大戦後の荒廃期に、布施医院の宅地内に「布文館」を建設し、 地元講師による英語やバイオリン教室、青年団の集会、子供達のための電氣教室、 コンピューター教室などを開いて青少年の育成に尽瘁された。 その傍ら、いつ研究を進められたのか分からないが、 まったく先生のご専門とはほど遠い領域の書物『中国古典における矣・焉の解釈』(昭和五十九年九月)という 大変綿密な中国古典の研究書を自費出版され、色々な図書館に寄贈された。 先生はまたラフカディオ・ハーンに関心をお持ちで、 思いがけないときにハーンと仏教との関係について質問を受けたのが、 筆者がハーン研究に手を染める契機になったのである。

平成六年三月十三日、多くの人々に惜しまれながら八十九年の生涯を閉じられた。 戒名は浄眼院郁裕文翁。 同年三月二十一日付け『朝日新聞』(千葉版)は、『「仁術の人」逝く』と、 「八日市場の開業医・布施さん」の死を悼んで、大きく追悼の記事を載せた。

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三 布施先生と文学部

およそ総合大学で、文学部ほど寄附とは縁のない学部はない。 そのような文学部に突然まさに青天の霹靂のように寄附の話が起こったのである。 昭和五十九年十二月一日、文学部は布施先生から金八百万円の寄附の申し出を受けた。 先生七十九歳の時であった。 この年先生は、前述した『中国古典における矣・焉の解釈』を自費出版され、多額の費用がかかったことに驚かれ、 それが、大学に寄附を思いつかれる一因となったと聞いている。

布施先生からは、金に縁の薄い仏教などの精神文化の高揚と研究に役立てて欲しいという悲願をこめて、 その後、昭和六十年に五百万円、同六十二年二月に一千万円、同年八月に二千万円、などという具合に、 先生の先祖からの遺産であった農地や宅地が売れる度ごとに、ご寄付を頂いた。 最終的に総額は三億八百五十万円に達した。 この基金から生まれる果実によって、文学部の前述の公開講演会、学内の様々な講演会、海外研究者の招聘、 海外への派遣、若手研究者の研究費並びに出版費の補助などが行われてきている。

先生は、大学院時代に、日本女子大学で英文学を専攻された星子様と結婚された。 お二人の間には、三人の男子、四人の女子の、計七人のお子様に恵まれておられた。 しかし先生の後、四代続いた医業を継ぐ後継者がなかった。 そこで文学部は、いわば布施家の第五代目として、先生のご遺志を継承しかつそのご芳志を顕彰するために、 ちょうど文学部に三号館が完成したのに伴い、その心字池を見下ろす景勝の地に位置する三号館の地下一階に、 久保彰文学部長の構想と英断で、記念閲覧室が設置された。 そこに布施記念文庫を設け、先生に関係の深い『大正新脩大蔵経』全百巻をはじめ、 主としてリファレンス・ブックを備えて読書子のための閲覧室として、 また蛸壺になりがちな文学部の研究室間の障壁をこえた文学部教官共通の談話室として、 さらには文学部主催またはそれに準ずる学術講演・コロキアムなどの会合の場所として利用されることが目指された。

布文館内

それとともに、筆者の発案で、この記念閲覧室を、先生のご許可を得て布文館と命名し、 先生の青少年育成の悲願をも受け継ぐことになった。 布文館という名称は、布施家初代の布施文四郎にちなんで、先生が命名されたものである。 この経緯を後代に伝えるために、「布文館縁起」という銅板のパネルが布文館の壁に埋め込まれた。 文章は戸川芳郎文学部長、パネルの制作は高階秀爾布施学術基金運営委員会委員によって準備された。

布施家の布文館の鉄門扉には、シューベルトの有名な「菩提樹」の歌詞の一節 "Komm her zu mir, Geselle, hier findst du deine Ruh!" (来よ、いとし友、此処に幸あり!)に対応する楽譜が書かれていた。 これは布施先生がこよなく愛されていた歌であり、 先生がこの一節をドイツ語で暗唱されていたのを二、三回聞いた覚えがある。 布文館の名称をいただくのであれば、先生の理想と布文館の雰囲気をも頂戴したいという筆者の希望で、 それを図案化した額を天井近くにかけることにした。 この図案は、当時宗教学研究室の大学院学生中村圭志君によって、 西本晃二建築委員長と高階秀爾布施学術基金運営委員会委員の意見を徴しつつ作成された。

シューベルト「菩提樹」一節の図案

昭和六十二年十二月十六日、午後二時から、布施先生とそのご家族四人をお迎えし、 戸川芳郎学部長をはじめ、文学部の教授会メンバーのうち四十三人が出席して、 布文館の開館披露式典並びに祝賀会が和やかに行われた。

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四 むすび――布施先生の悲願――

布文館の開室にあたって用意したチラシに、先生の「ごあいさつ」文をお寄せ下さるようにお願いした。 そこには医師であった先生の切々たる悲願が述べられており、それはまた科学技術を偏重し、人文科学を軽視する、 今日の教育の在り方に対する警鐘ともなっている。ここに全文を引用し、本稿のむすびとしたい。

布施博士の「ごあいさつ」全文はこちらをご覧下さい。

『学士会会報』第841号(平成15(2003)年7月1日発行)所収

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