哲学会 -The Society of Philosophy-
哲学会第五十六回研究発表大会・要旨

ワークショップ「市民のための哲学」


「対話としての哲学――共に考える場を作る」

梶谷 真司(東京大学)

対話型の哲学は、もともとはアメリカで初等・中等教育において思考力を養う「子どものための哲学(Philosophy for Children:P4C)」の教育手法として発展した。だがその後、子どもに限らず、一般向けのワークショップやカフェ、さらに企業向けのコンサルティング、個人向けのカウンセリングなど多様な形態を生み出し、「哲学プラクティス」と総称されるようになった。その特徴は、年齢も境遇も職業も異なる多種多様な人が共に考える場を作るという点である。私自身、5年前にハワイの高校と小学校でP4Cを見て、強烈なインパクトを受けた。以来その潜在的な可能性を開拓しようと、哲学対話の授業や講習のみならず、小学校や高校での特別授業、地域おこしのための話し合い、哲学カフェの運営の支援、学校の運営・授業の支援など、様々な試みを行ってきた。本発表では、私自身の活動と、そこから得られた対話型哲学の特徴、意義、可能性について話す。


「学際領域と哲学:哲学教育でいかに対応すべきか?」

村上 祐子(東北大学)

科学哲学を大別すると、科学の哲学と科学的哲学に分けられる.前者は科学について哲学的な考察を行うものであり、科学論や個別科学の哲学といったサブ分野に分けられる.広くとれば、科学技術社会論もこの領域に入るだろう.このようなアプローチでの学際プロジェクトでは、哲学・倫理学での知見が科学技術が社会に及ぼす影響の分析に行かされることが期待される.一方後者は哲学的問について科学的手法で解明しようとするものである.意識とは何か、善悪とは何か、真理とは何か、そして人間とは何か、といった、伝統的には哲学で考えられてきた課題に、哲学者としての訓練を必ずしも受けてはいない個別科学の研究者がそれぞれのアプローチに基づいて取り組んでいる.この後者にかかる探究プロジェクトでもしばしば哲学者の参画が求められる.だが、実際にはどちらのタイプの学際研究でも、既存の哲学理論での前提条件がしばしば見直しを要求されるため、既存理論の知見をそのまま適用しようとしてもうまくいかず、新たな条件設定下での理論展開と応用の両面が必要となる.このような時代状況で、哲学教育はどうあるべきなのか.哲学専門家の育成と、哲学とはどういうものなのか理解した非専門家の育成の両面に分けて論じる.


シンポジウム「作品の美学」


「コンセプチュアルアート視のための諸条件 ――「エンドレスエイト」の場合」

三浦 俊彦(東京大学)

 物理的に同一の対象が、カテゴリの帰属次第でまったく異なる美的性質を持つことがある(Walton, 1970)。芸術作品のジャンル認識を誤ると、傑作が駄作として、駄作が傑作として認識されかねない。凡庸な風景画が、額縁ごと彫刻として提出されたならば、凡庸ではなく奇抜な前衛作品として受け止められることもあろう。いかなる駄作や失敗作であれ、カテゴリをずらす文脈が得られれば、法外な価値を付与されうる。カテゴリは具体物ではなく概念なので、カテゴリ変換は一種の「コンセプチュアルアート視」である。同一カテゴリへの変換もいわば空虚なコンセプチュアルアート視、すなわち「レディメイド化」と見なせるだろう。平凡な便器が20世紀最大の芸術作品に化けおおせた今日、コンセプチュアルアート視は、価値創出のための魔法となりうるかもしれない。

 ただし、芸術解釈のシステムが維持されるべきならば、コンセプチュアルアート視の正当化が要求される。作品xをコンセプチュアルアート視で再評価する条件として、以下のような項目が想定できるだろう(三浦, 2017, ch.8)。

 以上の諸条件すべてを満たす「駄作もしくは失敗作」は、実はまれである。そのまれな一例として「エンドレスエイト」(アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』中のエピソード)を俎上に載せ、芸術作品再評価の手法を具体的に検証しよう。この再評価手法の根底には、芸術が社会的に果たすべき役割を律する「期待効用原理」が働いていることにも論及したい。

Walton, Kendall L. 1970 ”Categories of Art” Marvelous Images: On Values and the Arts, Oxford U. P., 2008, pp.195-219
鹿目凛、三浦俊彦 2017 「「ループする時間」とアニメ作品の悲哀」『サイゾー』10月号, pp.120-7
三浦俊彦 2017(予定) 『エンドレスエイトの驚愕――ハルヒから人間原理芸術学へ』(仮題)春秋社。


「作品と制度――社会存在論の観点から」

倉田 剛(九州大学)

 作品(works)――典型的には芸術作品を意味するが、それよりも広いクラスを指す――の存在論は何を探求の課題としてきたのか。思いつくままに挙げていくと、あるジャンルの作品が属する存在論的カテゴリーを特定すること、(それと関連して)「あらゆるジャンルの作品(絵画、彫刻、写真、音楽、文学、ダンス、マルチメディア・インスタレーションなど)は単一のカテゴリーに属するのか」という問いに答えること、作品とそれを構成する「素材」との関係を記述すること、作品の同一性条件および存続条件を(おおまかに)規定すること、美的性質とその他の諸性質(物理的性質など)との関係を明らかにすること、「実践的制約」といったメタ的な原理を考察すること、等々の相互に関連しあった諸課題からなるリストができあがるかもしれない。

 私は、本提題の中で、いま述べた諸課題よりもいっそう根本的に見える課題について考えてみたい。その課題とは「何が作品を作品たらしめているのか」という問いに答えることである。むろんこの大きな問いに素手で挑もうというわけではない。探求の出発点に据えられるのは、「アートワールド」(artworld)の概念を用いた作品定義である。私は、とりわけディッキーによる定義――ダントーのそれではなく――を導きの糸とし、その制度論的定義を社会存在論の観点から捉え直すことで、作品と制度との関係を再検討することを試みたい。

 「アートワールド」のような概念が、20世紀の前衛芸術家たちの諸実践に刺激されるかたちで登場したのはごく自然なことであろう。理論家たちは、質的に識別困難な二つの対象のうち、一方が芸術作品であり、他方がそうでないという「事実」を説明しなければならなかったからである。(デュシャンの《泉》とただの小便器、ウォーホールの《ブリロボックス》とスーパーに陳列されたブリロボックスといったペアを思い浮かべてほしい。)こうした事実を可能にする、個々の作品が埋め込まれた構造に着目し、それを「アートワールド」と呼んだのはダントーである。しかしそこに作品の制度的本性をはっきりと見て取ったのはディッキーであった。

 ディッキーによれば「分類的意味における芸術作品は、(1)人工物であり、かつ(2)それが持つ諸側面(aspects)の集合が、ある特定の社会制度(アートワールド)の代表として行動するある種の人ないし人々をして、当の人工物に対して鑑賞のための候補という地位(status)を授与せしめた、そうしたものである」(ディッキー2015: 46-47)。ところが、この定義は、フォーマルな制度における概念を、インフォーマルな制度(アートワールド)に誤って適用しているとして、ビアズリーに批判されることになった。この批判を受け、後の論文でディッキーは最初の定義を修正し次のように述べる。「・・芸術作品であるとは、アートワールドにおける人間の活動のうちである地位(position)を占めることである。しかしながら、それは付与された地位(status)でない。むしろそれは、アートワールドのうちで、あるいはそれを背景にして人工物を創造することの結果として到達される地位である」(Dickie 2004: 50。

 本提題で私は、ディッキーの「第一の定義」は、サールの社会存在論における「地位機能の集合的割り当て」の概念と相互補完的な関係に立ち、「第二の定義」は、制度経済学者たちが支持するゲーム理論的な制度論(ゲームの均衡としての制度)によってより良く説明されうることを示すつもりである。また私は、「第二の定義」を採用することが、必ずしも「第一の定義」の排除につながるわけではないこともあわせて論じる予定である。

 美学における制度論的アプローチを、他の領域における制度論の視点から見直すことを通じて、作品と制度との関係についてより良い理解を得ること、これが本提題のねらいである。

青木昌彦『比較制度分析に向けて』、瀧澤弘和、谷口和弘訳、NTT出版、2001年
青木昌彦『青木昌彦の経済学入門――制度論の地平を拡げる』、ちくま新書、2014年
G. ディッキー「芸術とはなにか――制度的分析」、西村清和編・監訳『分析美学基本論文集』、今井晋訳、2015年、第2章:36-62頁
G. Dickie, “The New Institutional Theory of Art”, Proceedings of the 8th Wittgenstein Symposium, 10, 1983: 57-64, Reprinted in P. Lamarque and S. H. Olsen (eds.), Aesthetics and the Philosophy of Art――The Analytic Tradition: An Anthology, Blackwell, 2004, Ch. 2: 47-54.
J. Searle, The Construction of Social Reality, Free Press, 1995.
J. Searle, “What is an institution?”, Journal of Institutional Economics, 2005, 1: 1-22. 
J. Searle, Making the Social World, Oxford University Press, 2010.


「「作品」の用法、作品のあり方:舞踊研究の現場から」

貫 成人(専修大学)

本稿では、舞踊史研究・舞踊批評の現場における「作品」・作品のあり方から、「作品」「虚構」「人工物」のあり方を考えたい。

Ⅰ-1 実例(1) 17世紀フランス宮廷舞踊:
宮廷舞踊は、17世紀フランス、ルイ14世治下で最高潮に達した後、突如、消滅した。この舞踊は、娯楽ではなく、政治儀式・身体政治装置であった。ルイ14世自身も登場した《夜のダンス》などステージダンスは、王権確立強化のための政治儀式であり、宮廷人に義務づけられたフロアダンスは、粗野な封建貴族が「礼儀」を習得するためのものだった。宮廷舞踊消滅をふくむ一連の過程の根底には17世紀の世界システム転換があった。

Ⅰ-2 実例(2) ピナ・バウシュ:
ピナ・バウシュの作品はシーンの量や質に特徴があり、相互に脈絡のない無数のシーンの展開は、「観客の実存に突き刺さり」、観客を翻弄する。

Ⅱ 「作品」の諸層
(1)《夜のダンス》、バウシュ作品観者にとって、目の前で展開することは、観者自身を巻き込み、襲いかかる出来事、過程。対象や存在ではない。 (2) 観者への効果は、ダンサーの身体など、作品の物理的基体によって生み出されるが、作家や演者にとっての作品とはこの物理的基体である。 (3) 公演前後、語りの対象としての作品が対象。 (4)「作品」概念:19世紀ヨーロッパ。当時の言説編成に相対的。

主要参考文献:
ロバート・ステッカー『分析美学入門』勁草書房2013年
メルロ=ポンティ『知覚の現象学Ⅱ』みすず書房1974年
ベラ・バラージュ『映画の理論』佐々木基一、學藝書林、1992/2008.
E. Husserl: Phantasie, Bildbewusstsein, Erinnerung: Zur Phanomenologie der Anschaulichen Vergegenwartigungen Texte aus dem Nachlass (1898-1925), Hua.XXIII.1980,M.Nijhoff.