卒業論文
2020年
R2-01 | テクストの存在論的、読者論的考察——円城塔『Self-Reference ENGINE』を題材に |
R2-02 | 村上春樹『ノルウェイの森』の英訳と映画翻訳における葛藤と喪失、あるいは創造 |
R2-03 | アダプテーションから論考するストルガツキー兄弟『ストーカー』 |
R2-04 | ピランデッロ『作者を探す六人の登場人物』の翻訳論 |
R2-05 | テロという「悲劇」を描く——ジョナサン・サフラン・フォア『ものすごくうるさくてありえないほど近い』 |
R2-06 | 娘たちの群像——イサク・ディーネセン『冬物語』をめぐって |
R2-07 | 「死に至る病」を癒やす近代小説 |
R2-08 | Tim O'Brien "Going After Cacciato" ——想像力のゆくえ |
2019年
R1-01 | 『ペンギンの憂鬱』における動物・病・犯罪への表象 |
R1-02 | 『バートルビーとジーモン 拒否の戦略』"Bartleby and Simon The Strategy of Refusal" |
R1-03 | 安部公房『砂の女』における性的問題について |
R1-04 | カズオ・イシグロ『日の名残り』論 ——ジョークに見る物語の二重性 |
R1-05 | 詩人と探偵 "Death of a Red Heroine"における Chen Cao の人物像について |
R1-06 | 水村美苗『私小説 from left to right』における「私小説」の意義 |
R1-07 | リチャード・ブローティガン『西瓜糖の日々』における死とアレゴリー |
R1-08 | ジャン=ジャック・ルソーの『ピグマリオン』とジョージ・バーナード・ショーの『ピグマリオン』におけるピグマリオン表象 |
R1-09 | 世界文学としてのカート・ヴォネガット『猫のゆりかご』 |
R1-10 | 忘れられた子ども時代 ——『小公女』における翻訳の変容と受容—— |
R1-11 | 川端康成とヘミングウェイ ——老いと性の問題 |
2018年
H30-01 | 目取真俊「群蝶の木」論 ——「後ろめたさ」の感覚を通した世代間の触発—— |
H30-02 | カレル・チャペックの思想と"R.U.R"論 |
H30-03 | ヴォルテールにおける「金儲け礼賛」と「ユダヤ批判」の存在について ——なぜカンディードはユダヤ人を殺したのか—— |
H30-04 | 『幸福な王子』と『星の王子さま』の王子についての考察 |
H30-05 | 文学と土地 ——中上健次の諸作品とエドゥアール・グリッサン『レザルド川』の比較研究 |
H30-06 | ブロッホ『夢遊の人々』における象徴 |
H30-07 | マリオ・バルガス=リョサ『マイタの物語』における語りの技術分析と〈語り手〉 |
H30-08 | 文学における白痴 ——『響きと怒り』『高野聖』を中心に |
H30-09 | ミヒャエル・ハネケ「71フラグメンツ」に関する考察 |
H30-10 | 村上春樹から見たフィッツジェラルド ——なぜ村上が愛したのはヘミングウェイでなかったか |
H30-11 | 江戸川乱歩論 ——「探偵」と「空想家」の狭間で—— |
2017年
H29-01 | ディック作品における「アンドロイド」 |
H29-02 | T. H. White “The Once and Future King” における二項対立との対峙 |
H29-03 | Allegory and Ghosts: The Historiography in Steve Erickson’s Arc d’X(アレゴリーと幽霊 ——スティーヴ・エリクソン『Xのアーチ』における歴史記述 |
H29-04 | Richard Brautigan『アメリカの鱒釣り』、『西瓜糖の日々』の翻訳分析 名訳と呼ばれる理由とは |
H29-05 | 片山広子のアイルランド文学翻訳について ——ウィリアム・シャープの作品を中心に—— |
H29-06 | ブルーノ・シュルツの創作原理 ——書評・評論・書簡を中心に—— |
H29-07 | 読むことから書くことへ ——水村美苗の私小説的語りについて |
2016年
H28-01 | 『マシアス・ギリの失脚』における孤独 |
H28-02 | オノマトペと日本文学 ——幸田文『黒い裾』におけるオノマトペ |
H28-03 | 崎山多美作品における舞踊 |
H28-04 | 二十世紀初頭のペテルブルグ文学 ——ベールイ『ペテルブルグ』を読む—— |
H28-05 | メキシコ都市の表象 カルロス・フエンテス『澄みわたる大地』(1958)を題材に |
H28-06 | 「『異邦人』論争」を再考する |
2015年
H27-01 | 『ワーニャ伯父さん』における環境破壊 |
H27-02 | 吉本ばななとアン・タイラーの家族観 |
H27-03 | ドラマ『カラマーゾフの兄弟』のキャラクター像に見る「カラマーゾフ」 |
2014年
H26-01 | 世界の末子成功譚の比較と現在 |
H26-02 | 『フェルディドゥルケ』における青二才の二面性 |
H26-03 | 映画の音を読む マヌエル・プイグ『蜘蛛女のキス』の音響分析 |
H26-04 | 「3.11」以降のフィクション |
H26-05 | On Moby-Dick Race, Politics and Eroticism(Moby-Dickについて 人種、政治、性愛) |
H26-06 | 『悪童日記』における「ぼくら」の語りと嘘 |
H26-07 | 印象批評 ——文学における批評と実証性について—— |
H26-08 | The World in the Eyes: A Study on Mervyn Peake's Titus Books(目の中の世界:マーヴィン・ピークの〈タイタス書〉研究) |
H26-09 | 村上春樹の小説における迷宮の系譜 |
H26-10 | ナルシシズム、死、幸福 ——クンデラ『存在の耐えられない軽さ』におけるキッチュの考察 |
H26-11 | 石井桃子の翻訳 ——「くまのプーさん」を中心に—— |
H26-12 | ミラン・クンデラ「存在の耐えがたい軽さ」の研究 ——作品世界に見る欲望の現象学—— |
H26-13 | Barry YourgrauとKelly Link ——従来の児童文学との比較から—— |
2013年
H25-01 | イタロ・カルヴィーノの見えない世界 |
H25-02 | The figures of America in the short stories of Donald Barthelme(ドナルド・バーセルミの短篇作品におけるアメリカの諸形象) |
H25-03 | 孤独なパービテル ——ボフミル・フラバル『あまりにも騒がしい孤独』 |
H25-04 | 小説家にして幻視者、アントニオ・タブッキの夢 ——『トリスターノは死ぬ』におけるゴヤの《犬》の変奏—— |
H25-05 | ニコライ・ゴーゴリ『肖像画』における幻想 |
H25-06 | ロベルト・ボラーニョを追って |
H25-07 | Alternate Reality : A Study of Philip K. Dick's The Man in the High Castle(もうひとつの現実:フィリップ・ K・ディック『高い城の男』研究) |
H25-08 | The Monster in Frankenstein(フランケンシュタインの中の怪物) |
2012年
H24-01 | 遊戯としての小説 ——ジュール・ヴェルヌ『カルパチアの城』におけるゴシック性 |
H24-02 | 初期の北園克衛とフランス文学 |
H24-03 | 別役実とベケット ——ゴドーがやって来るまで |
H24-04 | Tess of the D'Urbervilles とEffi Briest の比較考察 ——テスの主体性を中心にして—— |
H24-05 | 崩壊する対話〜マヌエル・プイグのEternal Curse on the Reader of these Pages における対話の叙述について〜 |
H24-06 | 夢見る町のコルタサル ——「街」「高速道路」「地下鉄」「革命」をめぐって—— |
2011年
H23-01 | Ambiguous Boundaries: Dualism in Thomas Pynchon's V. |
H23-02 | ゼーガース「ハイチの婚礼」をめぐって ——人種を軸とした他者表象—— |
H23-03 | 文学に見る「名づけ」〜スターン、ゴーゴリ、ラヒリ、井上〜 |
H23-04 | Wandering,Home and Death in Samuel Beckett's Early Work: A Study of More Pricks Than Kicks and Murphy (サミュエル・ベケットの初期作品における「さまよい」と「住みか」と「死」 ——『マーフィ』および『蹴り損の棘もうけ』に関する研究) |
H23-05 | 三崎とイシグロ ——この無慈悲で、残酷な世界でも—— |
H23-06 | 児童文学における「生きている」人形について |
H23-07 | ピンターとムロジェックにおける"Absurd"の演劇 |
H23-08 | 明治期の翻案歌舞伎〜『人間万事金世中』をめぐって〜 |
H23-09 | アルゲダスの小説作品における二つの世界の葛藤<初期短編から『深い川』に至るまで> |
H23-10 | 倫理の崩壊 ——『ブラッド・メリディアン』と『枯木灘』における暴力の背景—— |
2010年
H22-01 | American Immobilization: From Thedore Dreiser to Bret Easton Ellis(アメリカの不動化————セオドア・ドライサーからブレット・イーストン・エリスへ) |
H22-02 | C・S・ルイス『ナルニア国ものがたり』の翻訳論 ——瀬田貞二訳を中心に—— |
H22-03 | 児童文学翻訳者としての石井桃子 |
H22-04 | 北島の詩作に見るガルシア=ロルカの影響 |
H22-05 | 「事実」を装う序文 ——デフォーとホーソーンを中心に |
H22-06 | フランコ・モレッティの文学史概念とレトリックについて |
H22-07 | モダンと希望 ——プルーストとフォークナーの希望学—— |
H22-08 | 夏目漱石『行人』研究 ——英訳 "The Wayfarer" をめぐって—— |
H22-09 | On Kazuo Ishiguro's The Remains of the Day and Never Let Me Go: What Has Changed and What Has Not(カズオ・イシグロの『日の名残り』と『わたしを離さないで』:変化したことしないこと) |
H22-10 | Between Now-Here and Nowhere: The Destruction of Dichotomy and Its Reconstruction in Fire and Hemlock(<今ここ>と<どこでもないの間で>〜『九年目の魔法』における二項対立の解体と再構築〜) |
H22-11 | 児童文学翻訳者としての石井桃子 |
H22-12 | 別役とベケット ——日本の六〇年代演劇— |
H22-13 | Eternal Verities: On James Tiptree, Jr's Utopia (永遠の真実:ジェイムズ・ティプトソージュニアの描いたユートピア) |
H22-14 | 自分ということ ——ジョン・アーヴィング『熊を放つ』論—— |
2009年
H21-01 | 『ボヴァリー夫人』を読む ——平凡性をめぐって |
H21-02 | 土地の詩学:フォークナー、中上、ガルシア=マルケスの時空 |
H21-03 | 『R. U. R.』論 ——カレル・チャペックの文学における「相対」の探求 |
H21-04 | 石榴のシンボリズム |
2008年
H20-01 | 母語教育から「ことば」の教育を考察する |
H20-02 | 『とりかへばや物語』の女君とジェンダー |
H20-03 | 損なわれた無垢 ——ドストエフスキー『虐げられた人びと』論 | H20-04 | イタリアを描く作品の比較と考察 |
2007年
H19-01 | 対話〜イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』試論〜 |
H19-02 | W.B.イェイツと能 ——クフーリン劇をめぐって—— |
H19-03 | 『ゲーテとトルストイ』と『トルストイとドストエフスキー』 | H19-04 | 戦争文学における機械の描写 |