書評「医療現場に望む哲学」第3部

岩崎 鋼


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7. 私の死生観、その他

 この7.は、番外編と思って欲しい。ただしある意味では、重要な番外編であ る。清水さんもその著書の最後に、「哲学からは少しはずれるが」と断って自身 の死生観を述べておられる。私もやはりそうしたことに少しは触れなければ、そ の他のどんなことを語ってもやはりその背景が見えないと言うことになるだろ う。

 私は、基本的に徹底した唯物論者である。我々は諸物質の一定の法則に基づい た集合体であり、死はそれが自身の法則性を失い、物質として崩壊しながらバラ バラになっていく過程である。完全な死の後には、崩壊し飛び散った、或いはそ の残滓のバラバラの物体があるばかりだ。そしてそのような死こそは、我々生あ るものがやがては必ず迎えなければならない過程なのである。死という過程を通 じて、私たちは本来全ての生物がそうである他はない、地球上の生命循環という 輪廻の中に還っていく。生が誕生するのも、それが死として消滅するのも、全て は生命、或いは諸物質の法則のなからしめるところであって、そこには本来、な にかの価値とか、質とか、意義とか言ったことは存在しない。QOLとは、基本的 に人為的な概念である。生命は人のそれも含め、唯あるのであって、それ以外で はないのだ。我々は生命や医の諸倫理を論じるとき、ともすればこの大前提をう っかり忘れがちなのでは無かろうか。

 清水さんは、患者の自己評価、満足度と言ったものを、ある種の公共的フィル ターにかけて、一般的に言ってそう求めるのが妥当だと言えるような欲求を満た す自由があるようにその人の環境を整えるのがQOLだと言った。人の満足度、快 適度というのは、欲求を満たすことばかりで得られると言ってしまって良いのだ ろうか。東洋の知恵は、そうではないと教えてくれる。人が生きていく中で何ら かの満足、快適を感じるためには、人は何かを求めると同時に、常に何かを捨て なければならないはずだ。”捨てる”と言うこともまた、生きる上で大切な知恵 なのである。例えばこの私が”将来どうしてもノーベル賞を取りたい”という欲 求を抱き続けていたとしたら、その人生は恐らくかなり惨めなものだろう、と言 うのも私にはそんな能力はないと分かっているからだ。これと同じように(と敢 えて言ってしまおう)癌で余命後数カ月という人が、「私はもっともっと長く後 何年も、何十年も生きたい」という欲求をもし強く持っていたなら、それはその 人にとっては多分不幸と苦痛しかもたらさないのである。そのときは、人はまず その欲求を捨てなければならない。いや、捨てなくても良いがそれは単に苦痛と の引き替えとなる。何が妥当な欲求であるかは、つまりその人の於かれた客観的 環境次第であろうからだ。

 最後に、ある古い仏典の一節を紹介しようと思う。私がこれまで数知れず見て きた生と死は、どうも私には西欧のキリスト教的倫理観より、仏教の直裁且つ現 実的なそれにより合致しているように思われてならないからである。

「人の快楽ははびこるもので、また愛執で潤される。実に人々は歓楽にふけり、 楽しみを求めて、生まれと老衰を受ける」
「愛欲に駆り立てられた人々は、罠に掛かった兎のように、ばたばたする。束縛 の絆に縛られ執着になずみ、永い間繰り返し苦悩を受ける」
「愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる。愛するものを離れ たならば、憂いは存在しない」
「愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。愛情を離れたならば憂いが存在 しない」
「朝には多くの人々を見掛けるが、夕べにはある人々の姿が見られない。夕べに は多くの人々をみかけるが、朝にはある人々の姿が見られない」
「昼夜は過ぎゆき、生命は損なわれ、人間の寿命はつきる。---小川の水のよう に」
「私には子がいる、私には財があると思って愚かな者は悩む。しかし、既に自分 が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財 が自分のものであろうか」
「いくら財産を蓄えても、最後には尽きて無くなってしまう。高い地位身分もつ いには落ちてしまう。結びついたものはついには離れてしまう。生命はついには 死に至る」
「私はこれを成し遂げた、これをしたならばこれをしなければならないであろ う、と言うふうにあくせくしている人々を、老いと死とが粉砕する」
「諸のつくられた事物は常に無情である。生じ滅びる性質のものである。それら は生じては滅びるからである。それらの静まるのが、安楽である」
 (仏典「ダンマパダ」、「ウダーナヴァルガ」より、中村 元訳)


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