書評「医療現場に望む哲学」第2部

岩崎 鋼


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4. 生の意味

 こうした患者さん達にとって、「生きることの意味」とは果たしてなんだろう か。ある場合には、それが明確に存在していることもある。その人に、良い介護 者がいる場合である。清水さんも著書の中で指摘していることだが、仮にその人 が全くの意識不明で、寝たきりでもあっても、例えば爺さんがそうであっても、 それを長年に亙って介護している婆さんがいたとして、その介護することが婆さ んにとって(身体的には如何に苦痛でも)ある種の生き甲斐になっている場合、 そういう場合には、その人の生きている意味というのがそこにあると言ってい い。いわばその人はいまだ、「人間」、即ち人の間にあるものとしてこの社会に 生かされているのである。しかしもしそうした人もいなかったとしたら、家族は 皆死ぬか遠く離れてしまって、乳母捨て山のように老人病院に収容されて、病院 で単に業務上介護されているだけだったとしたら、その人が生きている意味っ て、いったいなんだろう。いや無論、私はここで、もう意識がないか、ほとんど ない人、仮にあってもそれは単に身体的な苦痛、特に痛覚だけが残っているよう な人を指していっているのである。そして長期にわたり、そのようであり続けて いる人について言うのである。そういう人の生の意味って、本当になんなんだろ う・・・私はこう書きながら、幾多の患者のことを思い出す。在宅医療で、完全 な植物でありながら、奥さんの熱心な介護で当直開けてふやけた顔をしているこ の私よりはるかに血色の良い、つやつやとした顔だった人のこと、そうした人が 偶々肺炎になっていることを発見し、一刻も早く病院へ収容しようとして引継 で、「植物状態の患者さんです」と言ったところ介護者から激しいクレームが付 いたこと、また一方で全ての家族、親族に見放されて何年も老人病院の片隅であ れこれの管と抑制帯とで縛られておうおうと呻きながら死んでいった患者達のこ とを思い出すのである。

 この点清水さんはP33で、無意識患者のQOLを論じてこういっている。 「意識のない患者のQOLは非常に低いと評価されるのでなければならない」  ではこうした状態が長期に亙っている患者ばかりを相手にしている医療現場の 人間としては、医療とQOLと言ったような本書の議論をどう捉えたらいいのだろ う。

 私は、一般的な意味に於いて、そういう人々に「生きる意味、あるいはQOL」 があるとは考えていない。その人々は、「ただ生きている」のである。生きる意 味のないところにどのような定義であれQOLは存在しない。その場合のQOLは0と 判定すべきであろう。「生きる意味」とは何か。それは確かに、清水さんが言う ように、その人が「何々したい」「このようでありたい」という欲求、欲望(そ れは例えば、足をもう少し伸ばしたい、と言うものであってすらかまわないのだ が)を保ち、それを実現したいと望むことではないだろうか。そうしたことが全 く消滅したとき、生きると言うことはもはや積極的な意味を失って(人間にとっ ては)死とほとんど等しくなる。

 そもそも、生きる意味というのは、あらかじめ人間に備わっているものではな い。人は、両親の生殖行為の結果として、根本的にはなにかの意味を全く持たず に生まれてくるのだ。人が生まれることに、意味はない。人生の意味というもの は、その人がある一定の年齢に達した後に、自分で作り出すものであるだろう。 従って、それはある過程を経て、まだその人が生物学的な生を保っているうちに 意味だけが消滅してしまうと言うこともまたあり得るのだということである。

 ただ生物学的に”生きている”事そのものに意味を於くのでなければ他に全く 意味を見出し様のない”生”が、人間には存在することがある。そういう意味で は、清水さんが「QOLとは、その人にとってのチャンス、可能性を広げる環境を 整えることだ」というのは、理解できる。QOLとは確かにそのようなものだ。し かしQOLがもはやなくなったところにも医療の存在の場がある、これが現実であ る。

5. 延命の是非

 そうした患者さんに、基本的に延命を目的とした医療行為がなされることは、 ほとんどない。その根本的な理由は何かと問われれば、今ここで私は恐れること なく、「それはそうした人にとってはもはや生きる意味というものが何も残って いないからであって、しかもその延命がイコールその苦痛の引き延ばしに他なら ないからだ」と答えよう。意味をなさず、ただ痛覚だけが残る人生は、引き延ば してもしようがない。延命は意味をなさない。

6. 安楽死、尊厳死

 ではそうした患者の苦痛を最終的に、完全に除去する目的をもって、その人を 安楽死、尊厳死させるという事についてはどうだろう。既に明らかにしたよう に、そうした状況下に於ける医療の目標は、まず第一に苦痛の除去なのであるか ら、その目的を完全に、そしてもっともすばやく行う行為は、その人を死なせる ことである。ただしこれは、死ねばその人は崩壊し、消滅し、無くなるという事 を前提にしている。もしその人が死んだ後に ”あの世”というものがあって、例えば地獄で苦しめられるのであれば、これは 話が別である。だとしたら、いかにこの世の寝たきり生活が辛くとも、今少しこ れを引き延ばしていた方がまだましかも知れない。ただ残念ながらそうしたもの があるともないとも、またもしあるとしてその苦痛はいかほどのものであると も、我々は知り得ないのであるが。

 従って、私はこの問題について次のように考えている。社会が、或いは法律が どうであるという事をしばらく於くとして、純粋に倫理的観点からだけものを考 えるとするならば、そのような状況に人があるとき、まず第一にその人の”生前 (即ち、まだ意識がしっかりしていて判断能力があったとき)”の意志がはっき りしていて、そうした状況では生を絶って欲しいとその人が望んでいたことが明 らかであれば、積極的意図的安楽死は医療行為の一つとなりうる。またもしそう いう意志が明らかでないとして、その人がながらくその医療スタッフの管理下に 存在し続けていて、しかもそれについてなんら意見を述べるべき人、家族なり、 知り合いなりがもはや存在しない場合、その場合も純粋に理論的には同じ結論が 導かれるが、社会の現状を考慮するならば、そうした人には消極的意図的安楽 死、即ちある種の治療を手控えることによって、場合によっては意識してその人 の寿命を短くすること、も行われざるを得ない場合がある、しかも希ならずある だろう、と言うことだ。その場合それは、「その人の苦痛の総和をもっとも確実 に、短くする」と言うことが第一に目的なのであって、無論それ以外の方法では その目的を達成し得ないと言う客観的な判断が前提となる。

 ちなみに私は積極的、意図的安楽死はまだやったことがないが、それは今言っ たように理由によって純粋に倫理的にそれが悪いと考えるからではなく、私にと ってそこまで責任を取りきれる患者がいなかったからである。あるいはまた生涯 の無二の親友で、そういう意志が日頃からはっきりしており、そういう状態にな ったとして家族もそれに反対しないと言うのであれば、場合によっては私は清水 さんの言う、積極的、意図的安楽死でもやる可能性はあると考えている。また消 極的意識的安楽死、或いはそれに近いことは、私は正直に言うが何回かやってき ている。即ちある種の治療、例えば人工呼吸とか、高次医療機関への搬送とかを 手控えるとき、そこには単にその人のQOLを高める、と言う判断だけではなく、 いわば「これでこの人も寿命だろう」という判断、つまり「もうこれでこの人が 亡くなったとしても、それはこの人にとって単に苦痛が終わると言うだけのこと だろう、ならばもう亡くなっても善かろう」という判断が心の中にあったという 事である。

 一方そうした行為を私が取らなかった場合、それは必ずしも患者の意志を忖度 したとは限らないと言うこともある。例えば先日偶々私が病院で当直の夜、ある 患者が酸素チューブを就けるのを拒否した。もう自分は死ぬことに決まってい て、お迎えが来ていることがはっきり分かるから、一切の治療はお断りするとい うのだ。私はその患者とこれまで一度も話したことがなかった。受け持ちでもな かった。自宅にいた主治医に問い合わせたところ、もしその人が酸素チューブを 外したままでいれば、恐らくその夜の内にも事態は大変危険なことになるだろう と言う。しばらく説得を試みたあげく、私はその人をいきなり押さえ付けた。そ して看護婦が鎮静剤を肩に注射し、抵抗力が無くなったところでおもむろにその 患者に酸素チューブをつけたのである。何故こういう強制手段を執ったか。それ は、その人と私がそもそも充分な相互理解がなかったからである。もしその人の 主治医が私で、長年に渡って交流があり、背景も知っており、且つその人の{も うお迎えが来ているのだ」という意見がその人なりに納得のいくことなのだと私 が知っていれば、私のその場の対応は違っていたかも知れない。判断がしきれな いから患者の意志よりもとりあえず延命を優先させる、ある程度判断したあげく 延命を中止する、これが医療の現場である。


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