書評「医療現場に望む哲学」第1部

岩崎 鋼



 Niftyの 医と社会のフォーラム(fmedsoc)等でも以前から活発な議論を続け ておられる東北大学教授の清水哲朗さんが、「医療現場に臨む哲学」(勁草書 房、1997年)という本を出された。この論考はその書評のつもりである。ただ し、書いた清水さんは何年にも亘ってそのつもりで医療現場のフィールドワーク を続けてこられ、緻密なる哲学者の頭をもってこの書を書き上げられたのであっ て、対する私はそれを地方病院へ行く出張中の列車の中で(振動と疲労でぐらぐ らする頭をもって)読んだのだから、到底まっとうな書評には値しない。せいぜ いが”読後感”と言うくらいのところである。唯私の癖として、たかが読後感で も結構長々と文章を連ねるのが常であるので、その長さの意味でこれをあえて書 評と名付ける。なおこの論考は、いくらかの相違はあるがNiftyのfmedsoc(8番 会議室853〜856), fbungaku(8番会議室3722〜3725)に掲載した同じ論考の中 から、このホームページでは不要と思われる本著の紹介部分を除いて転用したも のである。

1. 私の立場

 まずいくつか論評を加える前に、そのようなことをする私自身について必要な 範囲で述べておきたい。私は、33才の医者(医者歴8年)である。仙台を中心 に東北地方で、東洋医学及び老人医療を専門として医療に従事している。現在は ほとんど外来中心の東洋医学が主であるが、以前は長く老人病院、在宅医療など の場で、いわゆる寝たきり老人や、痴呆患者などを多く診てきた。一方、例えば 癌や心臓病などの、急性期の患者を私が実際に受け持ったのは、私が医者になっ た最初の2年ちょっとぐらいの間だけである。そこが、おそらく東札幌病院とい う主として癌を受け持つ病院を観察の場としてこられた清水さんとは異なる部分 であろう。癌は、その病期が長くとも数年、大抵は発見から1年程度で治るか、 死に至るかする病気である。それに対し私が診てきた患者さんたちというのは、 数年、或いは十数年という長期に亘り、寝たきりであったり、日常生活動作がほ ぼ全介助であったりする、そして他人との”正常な”コミュニケーションもほと んど取れない状態にある、人々なのだ。そうした場合においても、果たして本書 で清水さんが主張するようなQOL概念、あるいは患者-医療者関係に関する議論は 成立しうるであろうか?これが、この論考で私が考えてみたい主な点である。

2.QOL概念

 清水さんの主張するところでは、QOLとは一般に「評価の対象となる環境が、 その環境におかれた人の人生のチャンスないし可能性(選択の幅)をどれほど広 げているか(言い換えれば、どれほど自由にしているか)、を基準とする」とい う。そしてその評価は、患者本人の満足度を測りつつも、基本的にはある種の” 公共性”をもって判定されるべきであるとする。では私のこれまで見てきたよう な、長期に亘る植物状態、或いはそれに近い寝たきりの患者について、このこと はどう捉えることが出来るだろうか。

 通常こうした患者さんについて我々が考えるQOLとは、例えば次のようなこと である。この患者さんは、今上肢を60度動かすことが出来るが、訓練を怠れば 程なく拘縮してしまうだろう。またある患者さんは、今自排尿が出来ないでバル ーンが入っているが、もしかしたら訓練の結果、尿意を訴えることが出来るよう になるかも知れない。或いはこの患者さんは物を度々誤嚥し、肺炎を起こすのだ が、この患者に胃瘻を造って栄養を腹部に開けたチューブから入れるようにした 方がいいのか、或いはもう少し自力経口摂取をめざして努力を重ねるべきなの か・・・こうした目標というのは、或いは一般にはQOLというよりも、ADL(日常 生活動作)と言われるものであるだろう。否むしろ、例えば自力経口摂取などと 言うのは、人間としてのADLというよりは、ほとんど動物レベルの、或いはそう 言って悪ければ一個の生物としての、基本的能力に関することがらと言うべきだ ろう。しかし残念ながらこれらの患者さんにとっては、生きると言うことは即ち そう言うことなのである。こうした人の「人生のチャンス」、「可能性」という のは、そうしたことなのだ。しかしこのことは、私が本書を一読した限りでは、 著者が意図している「人生のチャンス」、「可能性」という事柄とはおそらくか なり異なったものなのではないだろうか。

 しかも、寝たきりと言っても色々である。問題なのは意識レベルだ。いまこう した患者において問題とすべきQOL、あるいはADL目標をいくつか挙げてみたが、 果たしてこれらはその患者本人にとっても望ましい目標であろうか。多くの場 合、そうではないだろう。その患者は、もはやそうしたことを自分の”目標”と 捉える能力がないからである。拘縮しかけた上肢を動かす為に、ベッドサイドリ ハをやる。動かないものを少しずつ無理に動かしてみる。患者は痛がるばかり だ。無論、ここで患者に何らかの意識があって、「今私の腕は動かなくなりつつ あるけれども、訓練次第ではそれが改善、或いは予防できるかも知れない」と考 えている場合は良い。しかしもしその患者にそうした意識が全くなくなっていた としたら、どうだろう。その訓練によって生じる痛みは、果たしてその人のQOL を改善させるものなのか、どうか。

 その場合にも、著者はおそらく、「それは患者自身の満足をもってするのでは なく、公共的に、例えば四肢が全く動かないよりも少しでも動かせた方がQOLが 高いとすべきだ」と答えるのだろう。しかし果たしてそれで万事良いだろうか。 ではもっと酷い場合はどうだろう。いわゆる植物状態である。長期に亘り、そし てこれからも確実に、意識なく、反応なく、四肢は全く拘縮し、栄養は経管チュ ーブで、排泄は完全に人任せである状態、一時間置きに体位交換をしてやらなけ ればたちまち褥創を造り、例え経管栄養をしていてもときどき誤嚥性肺炎を繰り 返す人、こんな人もたくさん、いる。こうした人々の「人生のチャンス」、「可 能性」って、いったいなんだろう。さらにこうした人で、胃瘻や経鼻栄養チュー ブを(目の前で見ていてさえ、非常に不思議な現象なのだが、四肢はがっちり拘 縮しているにも関わらず、少しずつ少しずつ体を動かしていって、最後には)引 き抜いてしまうがために、両手をベッドに縛られること、これはこの患者にとっ てどう言うことだと考えるべきなんだろう(ちなみに、もし縛らないとしたら、 それによって生じる膨大な看護ロスを無視したとしても、その患者自身、毎日の 栄養補給の度に鼻や腹の穴からチューブを入れ直されなければならない・・・こ れも結構、苦痛なものなのである)。こうした諸々の事共は、清水さんの言う QOLとどう関係するのか、或いはしないのか。

 そもそも、こうした患者さんを治療するという事に、どういう意義があるのだ ろう。

3. 医療の目的

 通常、こうした患者さんを前に我々医療従事者が行うことは、けっして「人生 のチャンス」、「可能性」を広げること、がまず第一になるのではない。その目 標は「苦痛の軽減」である。清水さんは苦痛とは、その存在によってその人を縛 り、他の様々のチャンスを阻害するから悪いのだと言う。確かに、普通の人に取 ってみれば一面そう言うことも言えるだろう。しかし今私が目の当たりにしてい る人々にとって、それはあまり有効な考えとは思われない。そもそも、そうした 患者さん達本人のほとんどが、そう言うことを考えていないと思われる以上、そ れを基本原理としてみるわけには行かない。苦痛は、その存在自体が苦痛なので ある。つまり嫌なのである。だからそれを除く。これが、こうした高齢者医療に 於ける、根本的な治療の目標である。

 しかし元来、医療のそもそもの目標とは、苦痛の除去なのではないだろうか。 普通の人でも、例えば頭が痛い、腹が痛いと言って病院に来るとき、その人はい ったい何を望んでいるのだろう。その痛みを除いてもらうことではないだろう か。今ここに風邪を引いて、頭が痛い人が私の外来に来たとする。私は診察し、 この人は風邪を引いているとみて、風邪に良く効く「葛根湯」を処方する。する としばしば、その人は私にこう言うのである。「あのう、何か痛み止めの注射か なにかはないでしょうか」・・・これは、人は何を求めて医療を受けるのかとい う事の、本質をよく表していないだろうか。

 無論こうしたとき、私はしばしばその注射の注文を断ることがある。風邪を引 いて頭が痛いのは、その人にとってのいわば警報である。注射をして一時的に痛 みが薄れ、ゆっくり休んでいるべきところをあれこれ動いたりすれば元も子もな い。葛根湯は、ある種の風邪のウィルスに対する体の抵抗作用を高める効果があ ることも知られており、また長年(数千年)の臨床経験からそうしたときの症状 の緩和にきわめて有効であることが分かっているのだから、まずそれを飲んでゆ っくり寝ていた方がいいですよ、こう私が言うとき、それではそれはその人の 「人生のチャンス」、「可能性」を現在でも、或いは将来的にもより高めるため に言うのだろうか。少なくとも言っている本人たる私としては、そうした目的は 決して第一のものとは言えない。私は、今後しばらくの期間その人に”風邪”と いう原因によって生じる苦痛の総量を、最小にするにはどちらがよいかという事 を考えて言っているのである。それは間接的には、確かにその人の「人生のチャ ンス」、「可能性」を増すことにもなるかも知れないけれど、それが最も重要な のではないし、患者もそれをまず第一に求めているわけでは、ないだろう。

 確かに、清水さんの言う「人生のチャンス」、「可能性」を広げるのが大切だ という考えを、私は少しも否定するわけではない。それもしばしば、医療の大切 な目的となるであろう。しかし、「苦痛の除去」という医療のもっとも原始的且 つ本来的な目標を「その苦痛によって生じるチャンス、可能性の低下を防ぐた め」という言い方で二次的なものにしてしまうのには、賛成できない。そうした 考えは、そのようなチャンスや可能性に恵まれた人には大いに応用できても、そ うでない場合もある、と言うことを考えに入れていただきたいものである。肺炎 を起こさないようにする、とか、褥創を広げないようにするなどと言った医療の 目標は、それがそのような状態から回復する見込みの決してない高齢の寝たきり 患者に対して行われる場合には、「人生のチャンス」、「可能性」を広げるため に行うという考えでは成立が困難である。むしろそれは、肺炎、褥創と言った状 態から生じるその患者さんの苦痛を未然に予防し、軽減すると言うことのために 行われるのだ。即ち「苦痛の除去」という医療のもっとも原始的な目標こそが、 同時に医療にとっての”最後の”目標ともなりうるのである。

 無論この場合、肺炎によって寿命が短くなること、褥創から敗血症になって死 の転機を迎えるかも知れないことなどは、通常ほとんど重要でない。死ぬ・・・ と言うことは、こうした患者さんの場合にはほとんど問題にならない。むしろそ のことは、そうした非常に酷い状況の中ではまだしもな、”よりましな可能性” と考えられることも多い。そうなってしまったら、死んでしまうことは、まあ、 佳いのである。ただその死ぬまでの苦痛、肺炎なら呼吸困難感、褥創なら耐えが たい痛み苦しみ、そうしたことをなるべく少なくするために、私たちはその患者 さんを治療する。それが「人生のチャンス」、「可能性」を増そうが、増さなか ろうが、そうしたことはもはや、ほとんど関係がない。

 続いてこの流れに於いて、生死のコントロールについて考えてみる。  (書評第2部へ)


(附属)

症例;私が研修医時代に経験した患者さんである。90にもなる女性で、長らく 植物状態であった。その人が、ある時いつもより”何となく”反応が鈍いようだ と言う看護婦の報告があり、この際一度久しぶりに頭のCTを撮ってみようと言う ことになった。撮ってみて愕然とした。彼女にはもう、「脳が無かった」のであ る。いや、正確にいえば、脳幹部以下は残存していた。脳幹があれば、確かに呼 吸はする、脈拍は打つ・・・しかしそれだけである。脳の解剖学と彼女の状態 は、見事に一致していた。そのCTを前に私たちは、はあ・・・と思わず溜息を付 き、そしてあのちび丸子ちゃんがするように、は・は・は・と僅かの間力無く笑 った。その日以来、彼女の方針が二つ定まった。一つは、リハビリは中止するこ とである・・・、リハビリをやったところで、それを受けとめる運動中枢すらな いのでは、これは意味がないからだ。もうひとつは、D.N.R、即ち急変時は蘇生 しないと言うことであった。それからしばらくして、彼女は誤嚥性肺炎で亡くな った。


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