岩崎 鋼 さんの書評に対する応答-2-



ここでは、書評の第二部で、岩崎さんがご指摘くださった点について応えます。



《4. 生の意味》の部分について

ここで岩崎さんは、次のようなケースの方たちを念頭において、そのような状況では 生きる意味が何かあるのか、と問題提起されています。

「家族は皆死ぬか遠く離れてしまって、乳母捨て山 のように老人病院に収容されて、病院で単に業務上介護されているだけだったとした ら、その人が生きている意味って、いったいなんだろう。いや無論、私はここで、も う意識がないか、ほとんどない人、仮にあってもそれは単に身体的な苦痛、特に痛覚 だけが残っているような人を指していっているのである。そして長期にわたり、その ようであり続けている人について言うのである。そういう人の生の意味って、本当に なんなんだろう・・・」
ここで、岩崎さんは私が、「意識のない患者のQOLは非常に低いと評価されるのでなけ ればならない」(P33)と書いたことを引き合いに出しつつ、ご自分の判断を次のよう に提示します。

「私は、一般的な意味に於いて、そういう人々に「生きる意味、あるいはQOL」がある とは考えていない。その人々は、「ただ生きている」のである。生きる意味のないと ころにどのような定義であれQOLは存在しない。その場合のQOLは0と判定すべきであろ う。「生きる意味」とは何か。それは確かに、清水さんが言うように、その人が 「何々したい」「このようでありたい」という欲求、欲望(・・・)を保ち、それを実現し たいと望むことではないだろうか。そうしたことが全く消滅したとき、生きると言う ことはもはや積極的な意味を失って(人間にとっては)死とほとんど等しくなる。」
ここにある私たちの差は、評価の差ではなく、ただ「どのように用語を使うか」の差 だけだと思います。私はご指摘のようなケースにおいて「QOLは存在しない」とでは なく「QOLは非常に低い(悪い)」と言います。「QOL」は、ある Life (これは存在して いる) についてのある視点からの価値評価だからです。それは「よくなったり(高く なったり)、悪くなったり(低くなったり)」はしますが、「あったり、なかったり」す るものではないというべきではないでしょうか。
「生きる意味」については、確かに「ある、ない」といいます (「生きる意味」とい う概念については改めて分析しなければ、と思っているのですが、それは別の機会に まわします)。ですから「QOLが非常に低い状態では、生きる意味がなくなってしまう だろう」とは言えますが、両者は別の概念だと考えます。
以上、内容ではなく、言葉の使い方に関する応対です。

さて、そういうわけで、このポイントのまとめにあたる、次の点について、おっしゃ ることの内容に、私は同意します。

「ただ生物学的に”生きている”事そのものに意味を於くのでなければ他に全く意味 を見出し様のない”生”が、人間には存在することがある。そういう意味では、清水 さんが「QOLとは、その人にとってのチャンス、可能性を広げる環境を整えることだ」 というのは、理解できる。QOLとは確かにそのようなものだ。しかしQOLがもはやなく なったところにも医療の存在の場がある、これが現実である。」
ここで次のポイントへ向かうわけですが、それは私の用語法でいいなおせば、 「生きる意味が存在する余地がないほどQOLが低く、今後も、QOLが回復する望みが ない人に対して、医療は何を目的として向かえばいいのか」という問題提起になって います(つまり私が提案した、医療の目的についての定義が妥当するかどうかが問わ れています)。

《5. 延命の是非》の部分について

「そうした患者さんに、基本的に延命を目的とした医療行為がなされることは、ほと んどない。その根本的な理由は何かと問われれば、今ここで私は恐れることなく、 「それはそうした人にとってはもはや生きる意味というものが何も残っていないから であって、しかもその延命がイコールその苦痛の引き延ばしに他ならないからだ」と 答えよう。意味をなさず、ただ痛覚だけが残る人生は、引き延ばしてもしようがな い。延命は意味をなさない。」
私は、この見解の内容にほぼ同意しますし、拙著においても、ほぼ同様の見解を述べた つもりです。ただ、他人の生について「生きる意味がもはや残っていない」という判断 をするのは医療側としては、僣越ではないか、と感じます。むしろ、「QOLが非常に低 く、回復は望めない」という評価から、おっしゃるように「その延命はイコールその苦 痛の引き延ばしに他ならない」という理由で、延命を目的にしてはまずいと言います。

では以上の判断と、私の提案する医療の目的設定(=医療行為は、相手のQOLの今後の総 和を可能な限り最大にすることを目指す)とどうつながるかというと、目的設定を変形 して「QOLの今後の総和を改善することにつながらない(むしろ悪くする)ような行為は しない」とすることによってつながるのです(p198あたりに、こういう考え方が反映し ています)。目下のコメントからはやや外れますが、この変形は、beneficience から non-maleficience を導出することができると言うことによって、この意味での non-maleficience は beneficience に還元できるので、わざわざ別建てにする必要は ない、といった話になるのです(cf.p102)。------つまり、岩崎さんが指摘しておられ る医療の現場と、そこでの「徒な延命はしない」という判断にも、私が提案した医療 一般の目的設定を適用できる、と申し上げたいのです。

《6. 安楽死、尊厳死》の部分について

「ではそうした患者の苦痛を最終的に、完全に除去する目的をもって、その人を安楽 死、尊厳死させるという事についてはどうだろう。既に明らかにしたように、そうし た状況下に於ける医療の目標は、まず第一に苦痛の除去なのであるから、その目的を 完全に、そしてもっともすばやく行う行為は、その人を死なせることである。ただし ・・・・」 岩崎さんの

「社会が、或いは法律がどう であるという事をしばらく於くとして、純粋に倫理的観点からだけものを考えるとす るならば」
という限定のうえでの考えは、
*対応能力があったときに明確に提示されたリヴィング・ウィルがあれば、それに従っ ての積極的意図的安楽死が医療行為の一つとなりうる。

*リヴィング・ウィルがなくても

「その人がながらくその医療スタッフの管理下に存在し続けていて、しかもそれ についてなんら意見を述べるべき人、家族なり、知り合いなりがもはや存在しない場 合、その場合も純粋に理論的には同じ結論が導かれる」
ただし、その場合には「社会の現状を考慮」して、消極的意図的安楽死を行うことにな る場合がある。
「その場合それは、「その人の 苦痛の総和をもっとも確実に、短くする」と言うことが第一に目的なのであって、無 論それ以外の方法ではその目的を達成し得ないと言う客観的な判断が前提となる。」
そして具体的に、
「ちなみに私は積極的、意図的安楽死はまだやったことがないが、それは・・・
また消極的意識的安楽死、或いは それに近いことは、私は正直に言うが何回かやってきている。即ちある種の治療、例 えば人工呼吸とか、高次医療機関への搬送とかを手控えるとき、そこには単にその人 のQOLを高める、と言う判断だけではなく、いわば「これでこの人も寿命だろう」とい う判断、つまり「もうこれでこの人が亡くなったとしても、それはこの人にとって単 に苦痛が終わると言うだけのことだろう、ならばもう亡くなっても善かろう」という 判断が心の中にあったという事である。」
これは私の分類に従えば、「消極的・非意図的(予想的)・緩和死」に該当すると思われ ます。つまり、「安楽死」という用語は適用されない、ということです。そして、先に も言いましたように私は「QOLを高める」という理由を「QOLの総和をより大にすること に役立たないことはしない」というように使って、上のような事例における、治療停止 の理由になるのです。つまり「寿命だろう」という直観を、岩崎さんは「もうこれでこ の人が亡くなったとしても、それはこの人にとって単に苦痛が終わるだけのことだろ う」と言い直して説明されましたが、それこそ私の「QOL」という視点からの理由に他 なりません。

ここから遡って、「積極的意図的安楽死が医療行為の一つとなりうる」という判断につ いてですが、私も拙著で、ぎりぎりの状況でこれの選択が許容される可能性を認めてお りますが、それはあくまでも、どうしてもそれ以外には途がないといわば追い詰められ た状況を想定してのことでした。そこで、岩崎さんが念頭においておられる事例の範囲 でそういう状況が可能であるかどうか、については今回のご説明の限りではまだよく分 らなかった、という感じです。果たして本当に「意図的」つまり「死なせることを意図 して、何かをする」ということになるのかな、ということです。
(もしかしたら、私たちの間で「安楽死」をめぐる定義や分類の仕方の相違があるのか もしれません。)
いずれにしましても、岩崎さんの現場は決して特殊な場面ではないので、もう少し考え たいと思いました。

「一方そうした行為を私が取らなかった場合、それは必ずしも患者の意志を忖度した とは限らないと言うこともある。例えば先日偶々私が病院で当直の夜、ある患者が酸 素チューブを就けるのを拒否した。もう自分は死ぬことに決まっていて、お迎えが来 ていることがはっきり分かるから、一切の治療はお断りするというのだ。私はその患 者とこれまで一度も話したことがなかった。受け持ちでもなかった。自宅にいた主治 医に問い合わせたところ、もしその人が酸素チューブを外したままでいれば、恐らく その夜の内にも事態は大変危険なことになるだろうと言う。しばらく説得を試みたあ げく、私はその人をいきなり押さえ付けた。そして看護婦が鎮静剤を肩に注射し、抵 抗力が無くなったところでおもむろにその患者に酸素チューブをつけたのである。何 故こういう強制手段を執ったか。それは、その人と私がそもそも充分な相互理解がな かったからである。もしその人の主治医が私で、長年に渡って交流があり、背景も 知っており、且つその人の{もうお迎えが来ているのだ」という意見がその人なりに 納得のいくことなのだと私が知っていれば、私のその場の対応は違っていたかも知れ ない。判断がしきれないから患者の意志よりもとりあえず延命を優先させる、ある程 度判断したあげく延命を中止する、これが医療の現場である。」
上の事例での岩崎さんの選択と理由に、私は全く同意します。以前、非常に似たケース が生命倫理の教材ビデオになっていたのを、某病院の倫理セミナーで使ってディスカッ ションしたことがありましたが、やはり「当直医であって、主治医でない場合には、当 の患者についてよく分っていないから、患者が「もう余計なことをしないで死なせてく れ」と言っても、直ちに応じるわけには行かないだろう」という見解が出て、一応見解 の一致を得ました。もちろん、そこからそれぞれの患者についてのカルテというか、価 値観や環境を考えた、対処についての申し送りの必要といったことも出てきましたが。


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