『民のモラル』十年有半
200427日登載、29日補正


 


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 『民のモラル』(山川出版社、1993)が出版されてから10年を越えました。概して好意的な、いろいろな受けとめ方をみてきましたが、質問もありましたので、この機会にいくつかの書評へのコメントとE・P・トムスンへの距離について、順不同ながらわたしの考え・立場を述べます。


1) わたしの院生・助手時代(197177年)にE・P・トムスンは大きな元気を与えてくれました。学問と生き方という点について、青いわたしのもっていた漠たる疑問・不安に方向性を与えてくれた一人です。しかし、「労働者階級形成史」という問題意識がすんなりわたしの中に入ってきたわけではありません。


2) もうすこし特定すると、そのころのわたしは、それまで市民革命の後・産業革命の前――すなわち17世紀と19世紀の大きな山ふたつに囲まれた谷間――としか位置づけられていなかった18世紀イギリスについて、その独自の問題性(非革命性)にこだわった

  トムスン「18世紀イングランド群衆のモラル・エコノミー」(P&P, 1971

  そして、松浦高嶺18世紀のイギリス」『岩波講座 世界歴史』17巻(1970

を読んでから以降、トムスン(の仕事)としばらく付き合ってみよう、という気になったのです。同じころ安丸良夫の仕事もまた、深いところで共通したインスピレーションを与えてくれました。結局は本質的に「詩人」であるトムスンに全面的に付いて行くことはできませんでした。しかし、夏目漱石にとってもレズリ・スティーヴンにとっても特別の意味をもった18世紀イギリスという時代と文学を、迂回しながらも大きくとらえ直すことができるようになったことを、事後的ながら有り難かったと思っています。長い18世紀が人類の「文明」にとってもつ意味について思いいたるのは、ずっと後のことです。

3) 明治・大正時代の人々ならさておき、自分のかかわる西洋史学を西洋の学問の輸入業だと思ったことは一度もありません。ある人がそういった自嘲的な発言をするのを聞いたときには、驚いたというより、その人の屈折した心理を想像してしまいました。日本の知的伝統のなかで育った自分の仕事が、どれだけ日本の青年にアピールし誘惑する力をもつか、また西洋ないし外国でも通用するだろうか、といったことは「中年」になるより前には考え始めました。(わたしには、斎藤先生に教わった小沢征爾のような所がチョットだけあります、フフフ。)この問題意識は後に『民のモラル』を書くときにも、『文明の表象 英国』を著すときにも、『長い18世紀のイギリス』を編むときにも、生きています。

 わたしの英語で著した史料編纂(The Workhouse Issue at Manchester, 1729-35)ばかりでなく、日本語で発表した論文についても、それなりに評価され、イギリスで刊行された専門書や参考図書などで引用・利用されています。ウェブページ

  http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~kondo/quote.htm をみてください。
 また、3年に一度開かれる日英歴史家会議(AJC)が、とりわけ困難だった2000年の危機を乗りこえて、2003年9月に京都で成功裡に開催できたこと、その Proceedings がすみやかに刊行されたことは、日英の友人たちの力を合わせた成果だと自負しています。ロンドンの IHR 所長にはあたらしくDavid Batesさんが就任して UKにおけるよき研究センターが再構築されつつあります。

4) 『民のモラル』は <歴史のフロンティア> という野心的なシリーズの第一巻でした。わたしは著者であり企画委員でもあるという立場なので、企画委員会における「註なしで、わかりやすい文章、アピールする作品」という方針は、多少の窮屈さを感じながらも貫きました。特定の箇所についての典拠や留保は、『思想』の 654(1978)-655(1979)、740号(1986)や『三田学会雑誌』863号(1993)など既発表論文をふまえた叙述の場合、必要ならそちらに当たってください、という方針でした。ただ、この <歴史のフロンティア> シリーズも巻を重ねるにしたがって、しだいに形式的な学術性が増して、著者がぜったい註を添えたい、とつよく望んだ場合は、それに応じるように転じてきました。
  <歴史のフロンティア> の最初の精神としては、本文とコラム、そして巻末の史料・文献解題をていねいに書くことによって、明晰性と学術性は保証される、ということだったのですが、読者の皆さんは、どう受けとめられますか。
 その結果できあがったものが、幸か不幸かトムスンの仕事と似て非なるものであることは、平静な気持で読んでくだされば、しっかり比較対照しなくても、明らかでしょう。たしかにトムスンもわたしも他の誰かも用いた有名な絵というのは、いくつかあります。あまりにも能弁で魅力的な絵ですから。なお、たとえばホーガースの絵をトムスンもナタリ・デイヴィスもフランク・オゴーマンもカバーや挿絵として使いましたが、わたしが『思想』7401986)ないし『民のモラル』でやったような、その図像分析を、彼らがやっていないことには、ご留意ください。

5) いろいろのメディアで書評をしていただきましたが、そのうちとくに

a. 大久保桂子さん(『歴史学研究663号)からは、『民のモラル』では副題の「近世」という語が不用意に使われている、1617世紀研究について近藤はしっかりフォローしてないではないか、という批判がありました。御説、ごもっとも。『長い18世紀のイギリス その政治社会』巻末に書いたとおりの理由で、このころのわたしは「長い18世紀」という語を大胆に用いようという「前に踏み出す」姿勢に欠けていました。この本であつかっている時期のイギリスについて「近世」というのは無理がある、というのが現在の見解です。This being said,  この副題以外には、どういった論点が指摘されたのでしょう?

b. 松村高夫さん(『週刊読書人1994.1.21号)は、文献の挙証について独自のご意見をしたためられました。これには今でも納得しがたいものがあります。p.138 以下の本文をわたしは、ローカル新聞とともに、Warwickshire County Record Office で苦労して読んだニューディゲイトの細かな(1cm 23行くらい詰まった)日記をもとに書いています。この日記についてバーミンガム大学のだれがどんな紹介記事を書いていようと、関係ないのです。松村さんほど影響力のある方がこのように些末な発言をなさったことの真意が、つかめません。

 なお、わたしの典拠や註の挙げかたは、東大西洋史に伝わっていた「卒業論文の書き方」(西川正雄)の方針に依っています。つまりその原則は、自分は本当のところ(二次的、三次的でなく)何を根拠に論じているのかをつねに明示しながら書く、ということです。たとえて言えば、ソクラテスを論じるにあたってプラトンやアリストテレスや新発見の碑文・パピルスを示さないわけにはゆかないが、出隆や佐々木毅は(おそらく)必要ない、ということです。 

c. 矢野久さん(『社会経済史学605号)は、社会史と文化史の分裂を早くも指摘なさっていました。これは聡明なコメントで、しかし答えるのは易しくない。実際の仕事でおいおいお答えしてゆきます。
d. 蔵持不三也さん(『思想837号)の書評、富山太佳夫さん(『毎日新聞1993.12.6)の書評については、むしろそれぞれの方の勢いのあふれた言説であって、本当のところ、わたしの作品を理解してくださってないのか、という印象です。

e. 川島昭夫さん(『西洋史学174号)は、もっとも理解してくださっている読者の一人です。そこにも記されているとおり、「モラル・エコノミー」という語の有効性についてわたしは疑問を拭えず、名古屋時代の最後に 岩波シリーズ〈世界史への問い〉 moral economy という題目を与えられる(割り当てられる)までは、自分の語として使ったことはありません。E・P・トムスンじしん「どこで遭遇したのか思い出せない」歴史的用語だと言っていますが、じつに misleading な概念です。せめてもの抵抗として、そこではシャリヴァリと密接不可分の概念として用いることにしたのです。「政治文化の社会史にむけて」(『思想』776号)はその副産物です。それ以後、モラル・エコノミーはひろく普及してしまったので、『民のモラル』やほかの機会に、留保付きで用いるようにしていますが、できれば別の分析的な表現をとった方がよいと、今でも信じています。

 

6) 翻訳について、いろいろな場で文句をたれて、済みません。わたしは翻訳業者ではありませんが、しかし、これを軽視してはいませんし、つくづくたいへんな忍耐心とスタミナを要する仕事だと認識しつつ、いくつか小さな翻訳を公刊しています。このたび『イングランド労働者階級の形成』の翻訳が青土社から出版されたことは、それに値いする古典がついに日本語になったわけで、慶賀すべきことだと思います。その訳本の評価については、後日どこかに記します。同じトムスンの Customs in Common については、友人との共訳という形(岩波書店)で、できるだけすみやかにご覧にいれたいと思っています。

7) 今のわたしは、E・P・トムスンの仕事にたいして、他の尊敬する先生・先輩たちの仕事にたいすると同様に、敬意を失わないが、疑問や違いを強く意識している、といえばよいでしょうか。その一端は『20世紀の歴史家たち(4)(刀水書房、2001pp.331-349 にしたためました。また彼の個性というか欠点2つについて、ホブズボームが Interesting Times で述べていることにわたしも賛成です。だからといって、トムスンを亡き者にしてはならないし、今の時代にどう彼を批判的に、積極的に継承できるのか、それを自分の課題にしたいと考えています。彼がまだ生きていたら、ウースタ郊外の Wick Episcopi であのとき予告していた次の本は、いったいいつになったら出るんだい、と叱咤なさるだろうことは疑いようもありません。

 『民のモラル』の扉の裏の献辞には

  Edward Palmer Thompson,

19241993,

who inspired me.

と記しました。これについて一言釈明が必要でしょうか。1993年8月の終わりに国際電話で彼の死を知らされたわたしは動転して、もう何度目かの校正中だったのですが、山川出版社に頼み込んでこの一文を挿入してもらい、また『思想』の担当者に交渉して「知識人=歴史家の死」(832号)を寄稿させてもらいました。人の死は厳粛なものです。きちんと弔いたい。それ以上ではありません。

 8月28というあとがきの日付は、偶然ながらEPTの命日と一致しましたが、そもそも父の誕生日なのです。
 


近藤 和彦