『週刊読書人』 1996年8月9日号

民主日本と大塚史学

2000. 8. 22 更新


  大塚久雄の講義には、一九六七年の秋から四ヵ月だけ出たことがある。大学二年のわたしに聴講の権利はなかったが、「大塚先生の授業はこれで最後」というので、本郷の新装なったばかりの経済学部にかよった。

  助手と院生をしたがえて、片脚のない大塚は和服に松葉杖という姿で現われ、着席すると岩波文庫『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を机上におき、それ以外はノートもなく、ほとんど聖書研究会の講話か説教という調子で話した。しかも、その二時間弱のあいだに目が合ってしまったら、おなぐさみ、こちらがウンとうなづくまで、視線をはずしてくれないのである。のちに『大塚久雄著作集』の月報などで、大塚が暗唱できるほど講義の準備をしたと読むまでは、手抜きの漫談か、と思うこともなくはなかったが、しかし、そのキチンと構成されて明晰な講義は魅力的で、一度も欠かさず出席した。
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  大塚の学問を考えるときに、無教会派キリスト教やウェーバーの影響もたしかに看過できない。だが、わたしは大塚史学を、福沢諭吉いらいの洋学の伝統と、講座派マルクス主義の枠のなかで展開した日本の民主近代派の、学問的脊柱と考える。

  幕末・明治から昭和のある時期まで、国民的トラウマとして共有されていたのは、先進的で公正、自由で美しく、普遍的な「近代」あるいは「西洋」と対比して、遅れてゆがみ、不自由で醜い、ローカルな祖国、という認識である。そうしたなかでアクチュアルな情況に具体的に取り組んだのは、@福沢いらいの洋学と民間史論の潮流、A大学における歴史学派だった。この二つの素地あってこそ、一九二〇年代からマルクス主義史学が受容された。これに加えて、両大戦間の欧米でめざましく展開した社会科学、歴史学の成果を吸収し反芻することによって、とりわけ「講座派」の影響をうけた少壮研究者が、一五年戦争中にソフィスティケートされた段階論と類型論をもつ歴史学を胚胎していた。大塚久雄、そして高橋幸八郎、丸山真男などがその代表である。

  その特徴は、第一に、祖国の来しかた行くすえを案じ、その改造のモデルとして西洋を分析し表象する、というパラダイムにある。洋学の伝統がさらに補強されて、国民の運命と研究者の召命とが一体化し、歴史学は倫理的な重みを帯びた。第二に、人間類型・エートス・市民社会をめぐる概念、理想化されたヨーロッパ近代の表象が実体化し、日本の現実にたいしてほとんど呪術的な批判力を発揮した。第三に、山田盛太郎『日本資本主義分析』にみられる論理にならって、各国の型(構造)はその過程によって決まり、構造を分析すれば歴史が浮き彫りにされ、歴史研究によって構造が(→資本主義の「全生涯」が)解き明かされる、という方法である。

  民主近代派は、大陸侵略や大東亜共栄圏に抗して、内部成長的な経済あるいは国民的生産力を論じているあいだに、アジア世界へのひろがりを視野から失ってしまった。日本と列強資本主義との型の比較を論じていた講座派も、ヨーロッパ経済の転変のなかでイギリス資本主義の型を考察した大塚久雄もおなじである。一九四五年以降、名実ともに痩せほそった日本列島にデモクラシを根付かせるために、民主近代派はあたかも福沢の再来のごとく、しかしマルクス主義およびソフィスティケートされた歴史学をよりどころに奮闘するが、そこには最初からナショナルなタガがはめられていた。

  多数の優秀な学生たちが、大塚・高橋ゼミから若い研究者=知識人として巣立った。その弟子たちも、今ではみな還暦を過ぎてしまった。この二〇年来、歴史学は様変わりした。近代史学に代わってワールドワイドにとなえられるのは、生産でなく消費(需要)、主体としての人間でなく消費者としての人口、基軸とされた因果の連関でなく、マイナーかもしれない多くの要素のからみあうリゾーム、事実の確定でなく語りべとしての文芸批評家にゆだねられた言説‥‥。歴史学におけるポストモダンが、かくして問題となる。

  大塚の立場は、アングロ・アメリカンな自由市場経済論の立場に近いかともみえるが、彼にとってナショナルな枠はほとんど絶対だった(ふたつのJ)。カトリックやイスラムもふくむ多様な複合文化のゆくえに期待するような観点にいたっては、その萌芽さえない。信仰ないし信念の純粋主義にもとづき、近代を異教徒たちの跳梁する全地球に推しひろめようとした文明と知が、各地で行き詰まっている今、大塚はその「召命」を十二分以上にはたして退場していった。

  大塚の死をつたえる同じ日の新聞に、トマス・クーンが亡くなったと報じられている。知のパラダイム転換がダメ押しされたような気がする。

近藤 和彦

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  大塚久雄の評伝は 『20世紀の歴史家たち』第1巻(刀水書房、1997) pp.229-244 にも書きましたが、
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 → More in 近藤和彦 『文明の表象 英国』(山川出版社、1998) pp.28-112
 → 近藤和彦 「戦後史学の胚胎と死」『史学雑誌』105編11号(1996) 
 → 近藤和彦 「歴史理論」『史学雑誌』106編5号(1997) 
 → 住谷一彦・和田強(編)『歴史への視線 − 大塚史学とその時代』の書評 in 『社会経済史学』66巻(2000) 
 → 発言・小品文  → お蔵